第3章「白の神官」

 3-1 旧友からの誘い

 時刻はとうに宵を過ぎ、車窓は少女の目を楽しませてはくれなくなった。映し出すのは、車窓に貼り付いた少女の大きな瞳だけ。

 タイヤを伝わる音が滑らかなものに変わってから数分後。車は小さな振動と共に停止した。少女は傍らの男を振り返った。


「修道士さま、ここはどこ?」

「今にわかるよ。さあ、私たちも行こう」


 二人は車を降りた。澄んだ冬の夜気が鼻を抜ける。遠くに灯りが見えている。ここがどこかの街外れだということはわかったが、はじめに聞いていたような『素晴らしい場所』とは到底思えなかった。

 目が闇に慣れるにつれ、近くにもう一台車が停まっているのが見えた。その背後には高い塀。


「あそこに行くの?」

「違うよ。もう一度車に乗るんだ」


 男は少女をもう一台の車の方へ連れて行った。運転席から男が降り、少女のためにドアを開けてやる。


「さあ、行っておいで」


 少女は促されるまま後部座席に足を掛けたが、不安な顔で振り返った。


「修道士さまは一緒に来ないの?」

「ああ。私はここでお別れだよ」


 男は少女を車の中に押しやった。

 車の中には先客がいた。


「心配しなくていいよ。ここからはおじさんと一緒に行こうね」


 白衣の男が微笑んだ。


 バタン。


 大きな音を立てて、少女の後ろでドアが閉まる。


***


〈エウクレイデス〉号での護衛任務を終え、ロンドンにてシージャック犯たちを国際警察に引き渡したエアロンは、陸路にてエルブールへ帰社した。二月半は覚悟していたのが、蓋を開けてみればその半分も掛からずに済んでしまった。豪華客船での船旅を満喫できなかったことを嘆くべきか、不在期間中に溜まる書類の量を半減できたことを喜ぶべきか、判断に悩むところである。


 エアロンがエルブールの本社〈館〉に到着した時、サイモン・ノヴェルは既にエルブールを離れていた。彼は社長でありながら本社に留まることは極めて稀で、パリに構えているらしい個人事務所にいることが殆どだった。


「サイモン社長から伝言だぞ」


 グウィードはその名を聞いて不機嫌になるエアロンの様子に警戒しながら告げた。


「お前に掛かった殺人容疑の件はもう気にしなくていい。また、エルブールの新町長も問題なく抱き込めたそうだ。会社はこれまで通り経営を続けられるって」

「それはいい知らせだけど……」


 素直に喜べなかった。

〈エウクレイデス〉号での長い任務に就く前、町を訪れていた謎の集団によって前町長マシュー・ドレルムが殺された。また、その仲間と思われる少女によって、リンデマン一家も惨殺されている。第一発見者であるエアロンが早朝にリンデマン一家を訪れていた理由は不可解で、当然彼には殺害の容疑が掛けられた。

 犯人はメルジューヌ・リジュニャンだ。しかし、いくらエアロンが真実を証言したところで、彼女がやったという証拠は何もない。彼女の正体は謎のままだ。


「その言い方だと、結局事件は迷宮入りってわけだね?」


 グウィードは頷いた。


「ああ。やはり証拠不十分ということになった。リンデマン巡査部長がお前からの通報を一切記録に残していなかったのが幸いしたみたいだな。一応警察は例の集団――つまり、町外の人間による物取り目的の犯行ということで落ち着いてる」

「落ち着いてるって……警察に調べる気はないってこと?」

「そうだな」


 エアロンは苦虫を嚙み潰したような顔をする。


「で? 新町長の方は?」

「副町長が臨時で務めることになった。この人は元々社長と面識があったから、抱き込むのはお前の容疑をうやむやにするより簡単だったらしいぞ。ただ、年が明けたら正式に町長選をやり直すらしくて、違う人間が就任したらまた買収のやり直しだと」


 茨野商会が非合法な組織である限り、後ろ盾となる存在は必須なのだ。前任の町長とは会社創立以来の後ろ暗い関係があった。それをまた一から築き直すとは、考えただけで気が重くなる。


「ま、そういうのは社長や主任に任せておけばいいでしょ。副主任みたいな下級職の出る幕じゃないよね」


 それからの数ヶ月は何事もなく、今まで通りの平穏な日々が過ぎて行った。エアロンは事務仕事に追われ、グウィードは暇を持て余し、椿姫つばき主任は出張から戻らないままだ。時折連絡だけは寄越すので、とりあえず生きてはいるらしい。これもいつものことだから、今更誰も心配しない。


***

 

 十一月も終わりに近付いた頃。

 山麓の町エルブールは下界より一足早く冬を迎えていた。既に雪も何度かチラついて、厚いコートなしでは外を歩けない。毎朝メイドたちが早起きして屋敷中の暖炉に火を起こし、就寝時には炭を入れた行火あんかと共にベッドに入る。エアロンが夜の談話室で所望する飲み物もホットチョコレートの頻度が増えてきた。


 その日、エアロンは銀行から届いた出納記録を見ながら頭を抱えていた。彼の前には計算機と過去三ヶ月分の経理書類が山積みになっている。いつもならデスクの中央に鎮座しているタイプライターも隅に押し遣られ、うんうん唸る主人を無言で見つめていた。


 出納記録が合わないのである。


 銀行が送ってきた履歴によると、この二ヶ月の間に二度、用途不明の出金があったことになっている。それもなかなかの金額だ。決して誤差と呼べる額ではない。会社の会計に関する処理はすべて一度副主任、つまりエアロンのもとを通ることになっているので、本来こんなことはありえないはずなのだ。


「なんで? この金はどこに行ったのさ!」


 エアロンは机に肘をついて頭を掻き毟った。ちなみに、昨晩からこの状態なので、彼の顔は疲労と寝不足で酷いことになっている。目の下に黒々とした隈を浮かべながら、もう十回は繰り返した書類の見直しをやり直す。


「絶対おかしい。ありえない。何か見落としがあるはずなんだ……」


 メイドのアンは彼のために紅茶を淹れ直しながら、心配そうに眉を寄せた。


「ねえ? そんなに確認しても見つからないってことは、やっぱり最初からあなたのところに来てないんじゃない?」

「誰かが僕に断りもなく、会社の金を引き下ろしたって?」

「請求書払いで自動的に引き落とされたのかもしれないわ」

「だから、それは僕が手続きしないとありえないんだってば!」


 エアロンは噛み付くように否定した。


「ていうか、こんな金額……〈エウクレイデス〉号の売上が全部パーだよ! しかも二回分!」


 彼は机に手を叩き付けて立ち上がった。


「こんな額の買い物なんて〈アヒブドゥニア〉号ぐらいだろ! あのおっさんめ、報告漏れは許さないぞ。絶対に自腹切らせてやる!」


 ところが、フォンダート邸経由で〈アヒブドゥニア〉号に連絡を取ると、船長はいつもの抑揚のない口調できっぱりと否定したのだった。


『違う。私ではない』

「嘘だね。領収書失くしたからって誤魔化そうと――」

『断じて違う。あらぬ疑いを掛けるな』


 船長は二の句を継がせず電話を切った。


「絶対に犯人はあいつだ! 船長に決まってる!」


 エアロンは暫く奇声を上げ続けた。


「もう、落ち着いてったら。船長は違うって言ってるんでしょう?」


 アンが床に散らばった書類を集めながら言う。エアロンはギリギリと歯軋りした。


「だって、船長以外ありえないじゃん。会社の口座にアクセスする権限を与えられてるのなんて、役職持ちを除いたらおっさんしか――」

「だったら社長か主任しかいないじゃない。そうやって書類を調べ続けるより先に社長に確認してみたら?」


 あまりの正論にエアロンが半ベソを掻く。


「うううう、そんなのわかってる……わかってるけどやりたくないから、こうして手元で原因を調べようとしてるんじゃないかぁ……」


 つまりエアロンは、上司に問い合わせた結果、二人とも心当たりがなかった場合のことを恐れているのである。万が一自分のミスを見逃して、更に上司を疑うようなことをしたとあれば、社長からどんな仕置きがあるかわかったもんじゃない。サイモン・ノヴェルの厳しさと底意地の悪さは身を以て知っている。


「せめて、せめて社長であってくれ……」


 現状で椿姫つばき主任と連絡が取れないこともエアロンの胃痛を悪化させていた。これで社長に確認し、後から椿姫主任が犯人だと分かった場合、それでもやはりエアロンがネチネチ言われることは明白だった。なぜかサイモンは椿姫への苦情もエアロンを通して言ってくるのである。


「上司と部下の間に挟まれ、上司と上司の間に挟まれ。副主任って本当に損な役回りだよ……」


 エアロンは絞り出すような溜息を吐いた。


「あなたは本当によくやってると思うわ」


 アンは同情を込めて言った。


「きっと社長よ。主任ならいつも連絡くれるじゃない?」

「そうだね……あの人はこういうことだけはきちっとしているから……」


 グウィードが執務室を訪れたのはそんな折だった。部屋に入ってくるなり、エアロンの顔を見て一言。


「うわっ、ひっでぇ顔」


 途端にエアロンに睨まれる。アンが彼に見えない位置から「まったくもう」と額に手を当てていた。


「入ってきて最初に言うことがそれ?」


 グウィードは笑って誤魔化すという無駄な試みをした。


「はは……いや、心配してるんだって。徹夜は程々にしとけよ」

「うるさいな。グウィードはいいよねぇ? 毎日部屋で漫画読んでるかトレーニングしているだけでいいんだもんねぇ?」


 嫌味たっぷりの声音でエアロンが言う。グウィードはこれ以上エアロンの機嫌を損ねないよう余計なことは言わないことにした。


「ちゃんと用事があって来たんだ。ほら、これ」


 グウィードが差し出したのは封筒だ。宛名はエアロンとグウィードの連名になっている。すでにグウィードが目を通したらしく封は開いていた。


「何、これ」


 エアロンは嫌々受け取った。

 見覚えのある筆跡だった。読み易いが丸っこく、可愛らしい文字で綴られている。差出人はどうせ偽名なので端から当てにしていないが、その筆跡だけでエアロンには誰からのものだか判別できた。


好好こうずくだ。随分久しぶりじゃないか」


 疲れ切ったエアロンの声にも調子が戻る。


 好好はエアロンとグウィードの古い友人で、数年前まで茨野商会に所属していた元社員だ。同じ任務に就くことこそ少なかったけれど、お互い歳が近いこともあってよく三人でつるんでいた。会社を辞めてからは詐欺師として細々と暮らしていると聞いていたが、カフェを開いたという噂もある。要するに何をやっているのかよくわからなかった。好好に関する唯一確かな情報は、椿姫主任とは連絡を取り続けており、時々彼女のために働くことがあるということくらいだった。


 手紙には簡単に用件だけが述べられている。現在サンドーベという街にいて、少々マズいことになっているので助けに来てほしいとのことである。


「助けに来てほしいってどういうこと? 警察に捕まったりしたのかな」


 エアロンが首を傾げると、グウィードは何とも言えない顔をした。


「いや、そういうわけではないらしい」

「ふぅん。ま、好ちゃんのことだから、どうせつまらないことで下手こいちゃったんでしょ。いいよ。グウィードは暇なんだから行って来たら?」


 ところが、グウィードは言い出しづらそうに頭を掻いた。


「えーっと……何と言うか、お前にも来てほしいみたいなんだよな、うん」

「僕も? どうして?」


 当然エアロンは怪訝な顔をする。グウィードは視線を泳がせた。


「それは俺も知らないけど。好好が――」

「好好と連絡取ったの?」

「あ、まあ。ちょうどさっき電話が掛かってきた」


 エアロンはムッと唇を尖らせる。


「なんだよ。僕にも替わってくれればよかったのに」

「用件はその手紙のことだけだった。それで、『エアロンも絶対連れて来てくれ』って念を押されたんだ」

「変なの。好ちゃんには悪いけど、さすがに僕までここを空けるわけにはいかないからね。好ちゃんによろしく言っといてよ」


 だが、グウィードは尚も何か言おうと躊躇っている。


「それが、主任からはオーケーが出ているらしいんだよな」

「は?」


 エアロンは嫌な予感に顔を顰めて立ち上がった。


「好好曰く、椿姫主任がお前も呼んでいいって言ったんだってよ」


 グウィードはあくまで俺の言葉じゃないと手の平を見せて敵意がないことを示す。


「言うのは簡単だけどね。僕がいない間、一体誰がこの書類の山を処理しておいてくれるって言うのさ」

「帰って来てからやれってことだろ」


 言ってしまってから、グウィードはしまったと顔を背けた。恐る恐る振り返ると、明らかにエアロンの目付きが変わっている。彼は妙に落ち着いた様子でベッドから枕を取り、丁寧に形を整えた。それとなくアンが部屋の隅に退避する。


「そうだねぇ。お前の言う通りだよ、グウィード」


 グウィードは引き攣った笑みを浮かべた。


「そう、それでなんだが……好好からもう一つ伝言があるんだ」

「へえ、何?」

「諸事情でどうしても明後日来てほしいって」


 エアロンは無言で枕をぶん投げた。

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