2-18 爽やかにさよなら

〈アヒブドゥニア〉号の甲板に立ち、エアロンと船長は海を眺めていた。

 彼らの背後では船員たちが忙しそうに歩き回っている。マチルダはすでにむさ苦しい船乗りたちのアイドルと化しており、何人かを手懐けて自分の荷物を船室へ運ばせていた。


「今回はあんたの機転のおかげで助かっちゃった」


 エアロンが言う。船長の横顔には少し血の気が戻ってきており、日差しを浴びて眩しそうに目を細めていた。


「……二人を助けたことか」

「それはもちろんだけど、〈エウクレイデス〉号が止まっていたことに一早く気付いて迎えを寄越してくれたことかな。そのおかげで対応がすべて迅速だったと思う。あの時ハーキュリースをそのまま船に置いておいてくれれば、もっと安全だったんだけど」


 意地の悪い指摘に船長がジロリとエアロンを見る。エアロンはふんと鼻を鳴らした。


「ま、結果オーライでしょ。だから、僕がルチアを連れて来たことだって人の事言えないんだからね」


 船長は答えなかった。

 二人は暫く黙っていた。背後から聞こえる嬌声がどこか遠いものに感じられ、昨晩の壮絶な出来事が現実味を失っていく。陸から付いてきたのか、海鳥が一羽、マストの上で羽を休めていた。


「僕さぁ、フェドロフって奴がなんでこんな無謀なことをしたのか、やっぱりわからないんだよね」


 エアロンが呟く。


「祖国とか故郷とか、そんなに大事なもの? 僕にはまともに故郷と呼べる場所はないけど、命に勝るものなんかじゃないと思うんだ」


 船長は静かに言った。


「私にも故郷はない。だからわからないだろうな」

「あんたの場合は探せばどっかにあるんじゃないの? 思い出せないだけで」

「思い出せないのなら、ないことと同じだ」


 ただ、と言い掛けて黙り込む。背後で誰かが船長を呼んでいた。それに対して振り返りながら、〈アヒブドゥニア〉号の船長はぼそりと付け足した。


「私にとってはこの船が、お前にとっては〈館〉や会社そのものが、危ぶまれたときにフェドロフの動機がわかるのかもしれないな。その時はきっと私も、同じことをするのだろう」


 船長は呼び掛けに応じて人の輪の中に入って行った。エアロンも一歩遅れて後を追う。


 アーヴィンド・マクスウェルが船長に握手を求めた。


「それでは、メリライネン船長。これから暫くお世話になります」

「ああ」


 するとマチルダが船長の後ろから顔を出す。


「豪華客船とはいかないけど、あたしがしっかりお世話するので寛いでくださいね」

「ありがとう。マディがいてくれれば安心だわ」


 ケイティー夫人はにっこりと微笑みながら、マチルダと目を見合わせた。


「マディ、坊やのことはしっかり見張っといてね。可愛い顔して結構無茶なことする子だってわかったからさ」


 エアロンがハーキュリースの頭に手を置いて言う。アーヴィンドが朗らかに笑う。


「それは無理だろう。やはり男と言うのは好きな女の子の前では格好つけたがるものさ」

「へぇ? そうなの?」

「ちょ、ちょっと、父さん!」


 ハーキュリースが真っ赤になって父親の背を掴む。後ろからケイティーが叱咤した。


「こら、ハーキュリース。お父様でしょう」


 穏やかな笑い声が一同を包む。


「それじゃあ、エアロンくん。今回は本当にありがとう」


 アーヴィンドが握手をした手を引き寄せ、強張るエアロンに親愛の抱擁をした。一瞬危ぶまれた二人の仲も、事が終わったら水に流すしかない。


「騙すような真似をして悪かった。だが、それだけ私が担うモノは大きかったのだとわかってもらえると嬉しい」

「……仕方ありませんね。調停官殿のことですから」


 エアロンは微苦笑して彼の背を叩き返した。

 最後はルチアがエアロンを抱き締め、挨拶をする。


「エアロンお兄ちゃん、またね」

「怖い思いさせてごめんね。船長との船旅楽しんで」

「うん! エアロンお兄ちゃんもお仕事頑張ってね」


 そして、エアロンは〈エウクレイデス〉号に戻った。



***


 これにて洋上の騒動は一応の幕を閉じた。

 何人かの心には達成感と高揚感を、何人かの心には屈辱と悲しみを残し、そしてエアロンには疑惑とわだかまりが残っていたけれど。


 アーヴィンド・マクスウェルは口髭を撫で、思案気に呟いた。


「また君の手を借りる日が来るかもしれないな、エアロンくん。しかし、君にもまだ打ち明けるわけにはいかないのだ」

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