2-17 事件の後始末

〈エウクレイデス〉号、船長室。

 恰幅のいい白制服の〈エウクレイデス〉号船長と、国際連盟治安維持局所属の調停官、アーヴィンド・マクスウェル。部屋の隅で壁に寄り掛かっている茨野商会の副主任エアロンは、油断なく二人の様子を観察していた。


「この度は本当にありがとうございました」


〈エウクレイデス〉号船長が深々と頭を下げる。エアロンは軽く会釈で返した。


「まさかここまでの騒動になるとは……乗客に死者が出なかったのが不幸中の幸いですが。〈エウクレイデス〉号はロンドンに引き返すことになりました」


〈エウクレイデス〉号の船長は絞り出すように溜息を吐いた。予定が狂うだのなんだの、乗客からのクレームは鳴り止まないだろう。


「船の信用もガタ落ちですな……このことは一般公表されないのでしょう? どのように乗客に説明すればいいのでしょうか?」

「海賊被害に遭ったと。よくある話だ、誰も疑わないだろう。死者も窃盗の被害も出さず海賊を全員捉えたと伝えれば、〈エウクレイデス〉号の評判は落ちないはずだ。むしろ、警備のしっかりした安全な客船として名が売れる。信用面では何の問題もないでしょう」


 調停官の言葉に船長はおずおずと笑い返したが、心底納得しているわけではないようだ。

 今度はエアロンが口を開く。


「フェドロフとその一味もそのままロンドンに連れて行くんですか?」

「ああ。港で国際警察に引き渡してもらう」

「責任を持ってお預かりしますよ」


〈エウクレイデス〉号の船長はやや疲れた調子で言った。エアロンが続ける。


「あのケインズとか言う老人は?」


 アーヴィンドは何とも言えない渋い顔をした。


「あの男もだ。国際警察に問い合わせたところ、あの男はジュディア・ケインズと言って、以前からスパイの疑いを掛けられていたそうだ。テロや戦争事の背後に度々存在が見え隠れしていたが、その実何をしている男なのか突き止められていなかった」

「ということは、フェドロフに条約のデマを流したのはケインズだったってことですか?」

「おそらく。だが、まだ確証が取れていなくてね。フェドロフが口を割らないんだ。奴の部下でケインズと接触していた者がいて、その部下を経由して情報を得たようなんだが……」


 エアロンは顎に手をついて考え込んだ。


「確か、ケインズにやられたと見られる青年がまだ意識不明でしたよね。彼ですか?」

「そうらしい。何か毒物を注射されたようなんだが、詳しいことも治療の方法も、病院に搬送してみないとわからない。彼がケインズとどんなやり取りをしたのかは当分闇の中だろう」


 その件について、調停官は特に問題視していないようだった。どこか開き直ったようなその表情は、目下の困難が解決したことからくるものだろうか。


「僕も引き続き〈エウクレイデス〉号に乗船します。もしそれまでに彼が目を覚ますなり、ケインズやフェドロフが口を割ることがあれば聞いておきましょう」


 アーヴィンドはさり気なさを装って訊ねた。


「ほう。君も興味があるのかね、エアロンくん?」

「僕にはもう関係のない話ですがね。すっきりしないことは嫌いなんです」

「そうか。では、何かわかったら教えてくれ」


 二人は〈エウクレイデス〉号の船長と二、三追加で話し合いをし、それから船長室を後にした。



***


 赤い廊下を並んで歩きながら、アーヴィンドが今後のことについて確認する。


「私たち家族はこのまま〈アヒブドゥニア〉号でボストンまで送ってもらえるということでいいんだね?」

「ええ、問題ありません。うちの船長にも了承させています」


 アーヴィンドは言い難そうに咳払いをした。


「引き受けてもらえるのは非常に有難いのだが……メリライネン船長を病院に連れて行かなくていいのか? 彼が動けないのは航行に支障を来すのでは……」

「ああ、それも全く問題ありませんよ。あの人は元々船の運航には殆ど役に立っていませんから」


 エアロンがケロリとして答えたので、アーヴィンドは狐に摘ままれたような顔をした。


 ふいにエアロンが足を止める。


「エアロンくん? どうかしたのかね?」

「アーヴィンド」


 その声音に秘められた響きに、調停官の顔から表情が消える。

 こちらを見た青年の瞳には、猜疑と苛立ちが宿っていた。


 ――それは救護室でエアロン自身が向けられた、青い瞳と同じ色だ。


「あなたは今回の事態をどこまで予想していたんですか?」

「なんのことかな?」

「ルチアですよ。部下に指摘されましてね。『なぜフェドロフがルチアをあなたの娘だと勘違いしたのか』考えればおかしな話だ。同じ金髪だからといっても、ルチアとあなたじゃ人種も違うし、顔立ちに似たところは一つもない……」

「何が言いたいのかわからないが」

「知っていたにしろ、知らなかったにしろ、フェドロフがルチアを『調停官の娘』だと確信付ける何らかの理由があったはずだ。心当たりはありませんか、アーヴィンド?」


 鉛色の瞳は冷たい光を湛えて彼を見る。

 アーヴィンドは口を歪めて笑った。


「君の真意が掴めない。もっとはっきり言ってくれたまえ、エアロンくん」

「わかりました。大事なお客様として、あなたを疑うようなことは言いたくありませんが――」


 長身が詰め寄る。エアロンは調停官の髭面にぐっと顔を近づけて、一言一言を噛み締めるように、言った。


「ルチアが娘であると嘘を吐いたのではありませんか? ルチアをハーキュリースの身代わりにしようとお考えだった。そうでしょう?」

「私が小さな女の子を犠牲にしようとしたと?」

「白を切るのは見苦しいですよ、アーヴィンド。だって、ルチアを今度の任務に連れて来るように言ったのは、あなたなんだから」


 両者とも何も言わなかった。

 それはつまり、同意という意味で。


 エアロンは一瞬鋭い視線を投げると、調停官を突き放して踵を返した。


「こういうやり方は感心しませんね、アーヴィンド。今回の件であなたがどこまで何を仕組んでいたのかはわからない。だけど――」


 肩越しに振り返った青年は、暗褐色の瞳を抉るように射抜いて。


「今度またこんなことがあったら、僕らの関係はそれまでだとお考えください。僕はあなたのような重要な顧客を失いたくはない。それはあなただって、同じでしょう?」


 二度目はないと思え。

 副主任が歩み去る。


 残された調停官は薄く開いた口を閉じ、自嘲した。

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