2-16 結末
感じたのは微かな風圧、それだけ。
背後で甲高い悲鳴が聞こえたのは、その前だったか、同時だったか。
今となってはもう、わからない。
***
温かい何かが頬に触れた。
顔を包み込み、額を撫でる。前髪を掻き分けて。
柔らかくって僅かに湿った、よく知っているあの感覚。
――キス?
ハーキュリース・マクスウェルはぼんやりと目を開けた。
「嗚呼、ハーキュリース……!」
ブロンドの髪を耳に掛けて。母の顔がそこにあった。
「母様……?」
「そうよ、ハーキュリース」
「あれ? おかしいな……ぼく、撃たれたんだよ。だから死んじゃったんだ。もしかして母様も死んじゃったの?」
赤い唇がにっこりと微笑む。少年と同じ緑の瞳は潤んでいた。
「違うわ。ちゃんとみんな生きてる。私も、お父様も、そしてハーキュリース、あなたもよ」
そう言うなり、母は息子を強く抱き締めた。
「ハーキュリース」
低い声が頭上に響く。父がベッドの横に腰掛けた。髭面は痛々しく腫れていたけれど、元気そうに歯を見せて笑っている。
「頑張ったんだってな。偉いぞ。父さんはお前を誇りに思う」
ヘルは緑の瞳を見開いた。
「……ホント?」
「ああ。お前は私の誇りだよ。みんなの誇りだ」
大きな手が頭を撫でる。その温もりが、嬉しかった。
――温もり。
「あっ!」
ハーキュリースは母の腕を振り解いた。辺りを見回すが、ここは救護室らしく、ベッドの周りはカーテンで仕切られていた。彼は左右に寄り添う両親を見上げた。
「ルチアは? ルチアはどこ? 悪い奴に連れてかれちゃったの?」
「ルチア?」
「うん。金髪で、青い目の。かっ、可愛い女の子だよ」
アーヴィンドがニヤリと口の端を歪める。
「ああ、あの子か。大丈夫、向こうのベッドにいるよ。呼んで来よう」
アーヴィンドが席を立つ。
程なくして、カーテンが開かれた。振り返った少女は紺色のワンピースに着替えており、奥のベッドにいる男を見舞っている。ルチアはハーキュリースと目が合うと顔を輝かせて駆け寄って来た。
「ヘル! 目が覚めたんだね!」
「うん。心配掛けてごめんね。ルチアは怪我はない?」
「うん。ヘルがね、ちゃんと守ってくれたから、あたしは大丈夫だよ。ありがとう」
天使のような笑みをふわりと広げ、ルチアが笑う。ヘルは顔が熱くなるのを感じた。
「う、ううん。だってぼく、何もしてないし……ねぇルチア? ぼく、あの後の記憶がないんだ。あの後何があったの? どうしてぼくらは助かったの?」
「あのね。船長さんが駆け付けて、助けてくれたんだよ。それで悪い人をやっつけたの」
「ああ、そうだったんだ……」
その船長はというと、奥から二番目のベッドに寝かされていた。隣のベッドにはエアロンが腰掛け、二人で何やら話し込んでいる。二人とも救護室にいるということは無事ではないのだろうが、会話ができる程度の傷の具合だとわかりほっとした。
「この子のこと庇ったんだって? お前も男らしいところがあるじゃないか。見直したぞ、ハーキュリース」
アーヴィンドが息子の髪をくしゃくしゃに撫でる。ケイティーが笑い、涙が一滴流れた。
家族。一瞬でも、これを失いそうな瞬間があったなんて。そう思うだけで息が苦しくなり、背筋が凍る。しつこく撫でる父親の手を掻い潜りながら、ハーキュリースは考えた。
戦場で知らなかった『恐怖』を少年が知った瞬間だった。
***
「楽しそうだね、あっち」
エアロンがマクスウェル親子を眺めて言った。彼はもう普段のワイシャツ姿に戻っていた。ベストだけはいつもの細身のものをやめ、ゆったりしたラペルドベストに着替えている。
話し相手の船長はエアロンより遥かに重傷で、脇腹を中心に包帯を巻いた裸体を枕に預けて横たわっていた。顔色はいつも以上に蒼白だ。実際のところ体調はかなり悪いらしく、お馴染みの無表情こそ保っていたが、顔は正面を向いたまま目だけで相手を捉えていた。
「そうだな」
「いやー、間一髪じゃない? 駆け付けるのがあと一歩でも遅かったら……」
「考えたくもない」
船長は目を伏せた。運良く回避できた最悪の事態が、残酷な映像を伴って脳裏に浮かぶ。鉛色の瞳はそんな男の思考を見透かそうとするように、スッと細い筋になった。
「何か言いたげじゃない? 気のせいかな?」
〈アヒブドゥニア〉号の船長は真新しい包帯にぼんやりと指を走らせた。長く躊躇ったのち、ぽつりと疑問を口にする。
「聞かせてくれ――あの時、なぜルチアを連れて来いと言った?」
エアロンが目を開く。青い瞳はこちらを向いていた。
「なぜって……言ったじゃん。あの子には色んな経験をさせたいし、一緒に来ればあの子はあんたと一緒にいられる」
「本当に?」
「……何が」
聞き返す声に警戒が混ざる。船長は一瞬の間を空けて、言った。
「本当に、他意はなかったのかと聞いている。今度のようなことを想定していたわけではないのか? フェドロフが間違えるように――単刀直入に言おう。ルチアをハーキュリースの身代わりとして用意したのではないのか」
重たい沈黙が流れた。青年の顔から笑顔は消えた。対する青い瞳にも、疑いの色は既にない。そこには確信と微かな怒りだけが宿っていた。
エアロンが首を傾げる。
「あんたがなんでそんなことを言うのかわからないな。僕はフェドロフがルチアを連れ去ろうとした理由もわからないし、そもそもハーキュリースが『重要機密』を持っていたなんて知らなかったんだ。今回の事は不幸な偶然だよ。妙な疑いを掛けるのはやめてほしいね」
船長はじっとエアロンを見ていた。エアロンも真っ直ぐに見つめ返す。
やがて、船長は視線を前に戻した。
「……そうか。すまなかった」
「まったくだね」
「船長さん!」
ルチアが駆け寄って来た。
「ヘル、目を覚ましたよ。もう元気になったって!」
「そうか」
金髪の少女がにっこりと笑う。二人は何食わぬ顔を装ったが、そこにはやはり、解消しきれない蟠りが残っていた。
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