2-13 マチルダと船長
目的地まであと少しの所でマチルダは気を抜いてしまった。
荒い呼吸は耳を覆い、頭の中を直接満たしている。そのせいで背後から迫る足音に気付くのが一瞬遅れてしまったのだ。
「きゃっ!」
ケイティー・マクスウェルが悲鳴を上げる。振り返ると、夫人が若い男に羽交い絞めにされていた。
「あっ! あんたは確か……ヴィンセント!」
シージャック犯の男は夫人の喉にナイフを当てながら、不機嫌そうに言った。
「お前誰だ? なんで俺の名前を知ってるんだ?」
「はあ? あんた、あたしのこと覚えてないの? こんなにチャーミングな顔を忘れるなんて最低のオトコね」
「ごちゃごちゃ五月蠅い女だな――ああ、変な所ほっつき歩いていたウェイトレスだ。思い出したぞ」
ヴィンセントは「だから何だ」と言う顔でマチルダを見下ろした。
「銃を下ろしな。このご婦人が死ぬぜ」
「あら。あたし、早撃ちにはちょっとだけ自信があるのよ。痛い目見る前にその方をお放しなさいな」
「俺は撃たれてもこの人の首をへし折ってから死ぬ自信がある。よしなよ。あんたはこの人の護衛なんだろ? この人が死んだら困るはずだ」
マチルダは引き金に指を掛けたまま唇を噛んだ。マクスウェル夫人の怯えた瞳が彼女を見、それから床に視線が落ちる。マチルダは銃を下ろした。
「あんたたちの目的は何? こんなでかい船占拠したって逃げ切れるわけないわよ。港に着くなり国際警察にでも逮捕されて終わりだわ」
「説得なら無駄だぜ。そんなことは俺たちだってわかってんだ。玉砕覚悟さ。それでも、祖国が取り戻せないなら生きている意味がないんだよ」
男の眼差しは怒りに満ちて、けれど酷く悲しげだった。
彼は共感なんて求めていない。だから、確かに説得はできないだろうとマチルダは理解した。
「で? あたしに何を望んでるの?」
「銃をこっちに寄越しな。それからそこの部屋に入るんだ」
マチルダは大人しく従った。床を滑らせた銃を足で踏み、ヴィンセントが顎先で促す。彼女が部屋に入ると、突き飛ばすように夫人も中に押し込んだ。もんどりうって床に転がる二人へ拾った拳銃を向けながら、彼はゆっくり扉を閉めていく。
「事が済むまで大人しくしててくれよ。あんたにそれ以上は望まないからさ」
「ま、待って!」
マチルダは夫人を後ろに庇いながら追い縋った。
「俺が扉を閉めたら鍵を掛けるんだ。それからカギは壊させてもらうから、怪我したくなかったら扉の前から離れておくことだ。変なこと考えるんじゃないぜ?」
扉が閉まる。
マチルダは言うことを聞く気はなかったが、扉の向こうから早くしろと怒声が聞こえたため、やむなく彼の言う通り鍵を掛けた。弾丸が鋭い悲鳴を上げて鍵穴を潰す。銃声は一発では済まなかった。
銃声を聞く間、マチルダは唇を噛んで扉を睨んでいた。
今はこうするしかない。時間は掛かるだろうが、扉をこじ開けることはできるはずだ。もしくはエアロンに応援を頼んで――そんなことを考えていると、マクスウェル夫人が彼女の手を掴んだ。
「マチルダさん――」
「怖い思いさせてごめんなさい。でも、心配いらないわ。怪我はない?」
夫人は無意識に喉元を押さえたが、そうじゃないのだと首を振った。
「あの紳士はどうされたのでしょう? お姿が見えませんが」
「あ」
すっかり忘れていた。騒動のために頭から存在ごと抜け落ちていたが、例のスケベおやじが一緒に来ているはずだったのだ。
「そういえば、あたしも見てないわ」
「私の後ろを走っていた気がするのですが……無事に逃げられていればいいのですけど」
マクスウェル夫人は心配そうだ。しかし、マチルダには心底どうでもいいように思われた。時々ああいう人はいるものだ。一見頼りなさそうに見えながら、なんだかんだとゴキブリのようにしぶとく生き残る人。本能的な危機回避能力を備えている人。
「大丈夫でしょ。例えあの男に会ったって、あたしたちみたいに閉じ込められるくらいで済むはずだし――」
その時、扉が物凄い音を立てた。マチルダは咄嗟に夫人を抱き寄せて部屋の奥へ転がった。何か武器になるものはと体を探りながら、ベッドの裏から様子を窺う。誰かが扉を激しく蹴り付けている。
「もしかしたら、あなたがマクスウェル夫人だって気付いたのかもしれないわ。念のため手前のベッドの下に隠れていてくださる?」
「そんなことしなくていいわ。私が目的ならば、私さえ出ていけばあなたは――」
「あたしはあなたを守るために雇われてるのよ」
狼狽える夫人を問答無用でベッドの下に押し込む。マチルダは子供に言い聞かせるように唇に指を当てた。
「あたしが注意を引くわ。隙を見て逃げるのよ。いいわね!」
扉が蹴破られる。
廊下の明かりが差し込み、床に長身の影を映した。
マチルダは飛び掛かった。その腕が易々と掴まれ、相手がひらりと身を躱す。
青い煌めきが走った。気がした。
「待て。私は敵ではない」
間髪入れず男の胴を蹴り上げる。しかし、それは腰を抱き寄せられる形で体勢を崩され、マチルダは扉に強かに足を打った。
「いったっ……!」
「危害を加えるつもりはない。助けに来た」
マチルダはアッと声を上げた。特徴的な瞳、髪、装い。心当たりがあった。
「あなた、〈アヒブドゥニア〉号の船長さん?」
「そうだ。マチルダだな?」
「そうよ。助けに来てくれたのね、ありがとう!」
「たまたま銃声を聞きつけただけだ」
船長は体を引き、マチルダを押さえていた手を離した。無表情の瞳が一瞬彼女の武器に目を留める。マチルダは握っていたハイヒールを慌てて履いた。
「よかったわ。マクスウェル夫人を保護してほしいの」
「私はシージャックの首謀者を追っている。すまないが、自力で辿り着いてくれ」
マクスウェル夫人が這い出してきた。船長に向かって深々と頭を下げる。
「あの、息子は……ハーキュリースを知りませんか? あの子はもう保護していただいてますでしょうか?」
船長がぴくりと眉を動かしたので、二人は怪訝そうに彼を見上げたが、彼は黙って背を向けた。
「問題ない。ハーキュリースにも後部デッキに向かうよう言ってある」
マクスウェル夫人は安堵したような、していないような複雑な表情を浮かべた。
「それは……まさか、独りで……」
「〈アヒブドゥニア〉号に行けば息子さんにもきっと会えるわ。あたしたちもすぐに行きましょ!」
「気を付けろ。私が追っている男がこの辺りにいるかもしれない」
「ありがとう! あなたも気を付けてね」
二人は船長と反対方向へ走った。
遠くない客室にヴィンセントを発見した。後ろ手に縛られて転がされている。外傷は見当たらないが気を失っているようで、マチルダが腹癒せに蹴り付けても起きなかった。
「船長がやったのかしら? 可哀想だけど、いい気味ね」
二人はついに後部甲板への出口に辿り着いた。大した距離ではなかったはずなのに、えらく時間が掛かってしまった。もはや精も根も尽きていた。
「お疲れ様、ケイティー・マクスウェル夫人。もう大丈夫よ」
暗闇に浮かぶ〈アヒブドゥニア〉号が幽かに遠く見えていた。
***
〈アヒブドゥニア〉号の船長は赤いカーペットの廊下に立ち、右に行くべきか左に行くべきか決めあぐねていた。フェドロフは完全に見失った。元より追い付けるとは思っていなかったが。
無線が入ったので船長はビクリとして耳を押さえた。そういえば、エアロンに通信機を渡すのを忘れてしまった。
『こちら〈エウクレイデス〉号パーティー会場、ジャンルカ。船長、応答できますか?』
「ああ、私だ」
『パーティー会場周辺の敵は片付けまして、乗客はテオドゥロに警護を任せました。オレたちは捕まえたシージャック犯をどっかその辺に詰め込もうと思ってるんですが、船長の方は応援いりますか?』
「いや、いい。怪我人は?」
船長は答えながらパーティー会場の方へ足を向けた。
『何人かいますが、そんな危ない奴はいません。オクトがちょっと酷いかな……ま、くたばりゃしませんよ』
「そうか。まだ船内でシージャック犯の首謀者と思しき人物が逃げ回っている。壮年の大柄な男だ。見つけたら確保してくれ」
『了解っす。とりあえず合流しましょうか? 船長、今どちらです?』
数分後、船長はジャンルカ率いる数名の部下たちと合流した。全員どこかしら負傷していたが、血と汗に塗れたその顔は爽やかな達成感に満ちていた。
「大体終わりましたね。久しぶりに一仕事した気分だぜ!」
船長は部下たちを労おうと一歩踏み出したが、その拍子にぐらりと体が傾いた。ジャンルカが驚いて受け止める。
「船長! うわ、かなり出血してるじゃねえか! おい、誰か止血できるもん持って来い!」
部下たちが応急処置を施そうと慌てだす。船長はその手を拒み、無理矢理体を離した。
「そんなものは後でいい。事を治めるのが先だ」
「だめですよ、そんな怪我で走っちゃあ! 後はオレたちに任せて、船長は先に船に戻っててください」
ジャンルカは船長の耳から通信機をむしり取り、〈アヒブドゥニア〉号へ連絡を入れた。
「おい、ミナギ! ミナギを出してくれ!」
少し待たされた後、〈アヒブドゥニア〉号からミナギが応答した。
『ジャンルカ? 船長はどうした?』
「船長がかなり負傷してる。船に返すから迎えを寄越してくれ。ボートはまだ後部デッキに着けたままか?」
『船長が! ちょうど今マチルダとマクスウェル夫人が到着したところだから、これから〈エウクレイデス〉号に折り返させる。船長は大丈夫なのか? どれくらい緊急で――』
心底心配そうな航海士の声を遮って、船長が通信機に向かって声を荒げた。
「私のことはどうでもいい。着いたのは夫人だけか? 息子と――ハーキュリースとルチアは同乗していないのか?」
ミナギが答える。
『いえ、夫人だけでしたが……とにかく、すぐに迎えをやりますから、それまでどこかで安静に――』
船長は通信機をジャンルカに押し付け、長剣を掴んで踵を返した。部下たちが止めに入るが、その目はもはや周囲のことなど見ていなかった。
「船長、どこに行くつもりですか! 駄目ですよ!」
「すぐに戻る」
船長は肩越しに青い一瞥を投げた。
「ルチアとハーキュリースを探しに行かなくては」
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