2-11 マチルダがんばる

 騒動は突然だった。

 雄叫びが聞こえ、銃声が立て続く。廊下側で何かが起こったのだ。


 パーティー会場は再び恐怖の渦に飲み込まれた。悲鳴や嗚咽が四方から溢れ、何が起こったのかと互いに叫び合っている。奥に逃げようとする者や引き返す者が入り乱れ、場は一瞬にして混沌とした。

 マチルダがマクスウェル夫人の腕を掴む。


「今よ!」


 エプロンの下から小さなリボルバーを抜き出し、人混みの中を一目散に従業員通用口へ走った。見張りの男に銃口を向ける。が、彼女たちを押し退けて前へ躍り出る影があった――マクスウェル夫人のボディーガードだ。見張りの男が反応するより速く銃身を掴み、照準を天井へと向けさせる。


「頼むぞ! 行け!」


 マチルダは躊躇わなかった。揉み合う二人を横目に通用口を突破する。無人の調理室は煮詰まった料理と吐き気を催す油の臭いで満ちていた。排水溝を踏んで足音が響く。

 廊下へ通じるドア。その手前で呼吸を整えた。


「覚悟はいいですか、マクスウェル夫人。もしかしたらちょっとだけ危ない目に遭っちゃうかもしれませんけど」


 緑の瞳は揺るがない。


「あなたに命を預けます」

「ありがとう。それじゃ、行きますよ!」


 二人は廊下へ飛び出した。


***


 暫くの間、障害はなかった。二人が走るハイヒールの足音だけが、白い廊下の先へ消えていく。角を曲がるたび、階段を上がるたび、二人は極度の緊張を味わった。


 夫人の息が切れる。ドレスの下はぐっしょりと汗で濡れ、結った髪は解け始めていた。しかし、ケイティー・マクスウェルは泣き言一つ言わなかった。心配したマチルダが時折休憩を提案するが、ほんの数呼吸で彼女は再び顔を上げる。


 人の気配を感じたのは客室のあるエリアに出てからだった。見える範囲には何も無いが、廊下の向こうから銃声が反響している。近づけば、硝煙の臭いが鼻を突いた。


 マクスウェル夫人を近くの客室に待機させ、マチルダは銃を構えて前へ進んだ。

 エリアを区切る水密扉は開かれたままだが、その境の前後で激しい銃撃戦が繰り広げられていた。境界に近い客室からシージャック犯と思しき男たちが銃身を覗かせ、一呼吸撃っては引っ込めるを繰り返している。当然その合間には、応戦する銃弾がマチルダの前を横切っていく。

 このままでは先へ進めない。マチルダは玩具のような銃をしっかりと握り直した。


 銃弾が途絶えた隙に身を乗り出す。同じく廊下へ身を晒しているシージャック犯へ一発。弾丸が男の肩を撃ち抜いた。ギャッと短く悲鳴を上げて銃が落ちる。シージャック犯の仲間がすかさずこちらに銃口を向けるが、弾丸がマチルダを狙うよりも先に、前方からの別の銃弾が男を倒していた。

 マチルダは突進して、落ちた銃を蹴り飛ばした。一歩遅れて三人の船乗りが男を取り押さえに駆け付ける。


「助かったよ! あんたがマチルダか?」


 黒髪の男が歯を見せて笑う。赤く焼けた鼻と髭面が如何にも船乗りといった容貌だ。


「もしかして〈アヒブドゥニア〉号の人?」

「おう! ってことは、ジャンルカたちは上手くやったんだな。奥さんは無事かい?」


 マクスウェル夫人はおっかなびっくり薬莢を踏み越えてやってきた。

 武装した〈アヒブドゥニア〉号の船員たちは数人の乗客を連れていて、その中にはマチルダも見覚えのある顔がいくつかあった。彼女は狼狽える老婦人に愛想よく笑い掛け、憎きエロ紳士に冷たい一瞥を送った。


「やあ、マドモアゼル」

「あなたはあの時の――」


 スケベおやじ、と言い掛けたのは咳払いで誤魔化し、マチルダはテオドゥロと名乗る船乗りに向き直った。


「お客さんたちも保護してくれてるのね」

「ああ。俺たちは仲間を手伝いにパーティー会場へ向かうよ。もし他の乗客や乗組員を見つけたら、パーティー会場に避難するか、船室に立て籠もっているよう伝えてくれ」


 テオドゥロが言う。


「わかったわ」

「ボートは後部甲板に着けてある。本当は送ってあげたいけど、こっちも人手が足りなくてさ……あんたなら一人で大丈夫だよな?」

「夫人一人なら守ってみせるわ。お互い頑張りましょ」


 マチルダは男たちにウィンクを送り、また夫人の手を取って走り出した。



***


 戦闘の跡は大なり小なり至る所で見受けられた。〈アヒブドゥニア〉号の船員たちはかなり派手にやったらしい。息を整えるための小休憩の間、マチルダは呆れたように呟いた。


「やっぱり船乗りって荒っぽいのね。これじゃあどっちがシージャック犯なのかわからないじゃない」

「やだやだ、まったくだね」


 気が付くと隣に小男が立っていた。僅かに息は上がっているものの、身形は相変わらずきちんとしている。老紳士はにっこり笑うと、茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せた。


「スケベおやじ!」


 今度はついうっかり口に出てしまった。マチルダは彼に指を突き付けた。


「あなた、テオドゥロたちに付いて行ったんじゃなかったの?」


 紳士は肩を竦める。


「お嬢さんたちが脱出する算段を立てているようだったからね。脱出できるならここに残るより安全だろうと思って付いてきたのだ」


 マチルダは額に手を当てて首を振る。


「だめ。悪いけど連れて行けないの。パーティー会場に避難しててもらわないと困るわ!」

「まあまあ、お嬢さん、君の手を煩わせたりはしないつもりだよ。若い娘さんに迷惑を掛けるような老人にはなりたくないからね」

「もう十分掛けてる!」


 マチルダは苛立ちを感じた。

 他の乗客に彼女らの計画を聞かれたのは迂闊だった。駄々を捏ねられて騒ぎになり、その結果目立ってしまったならば本末転倒だ。しかし、当然この男性を〈アヒブドゥニア〉号に乗せるわけにはいかない。


「もうっ。あたしたちの計画はあなたが思っているようなものじゃないのよ。付いて来た方がむしろ危ないんだから」

「それなら猶更、レディだけにするわけにはいかないね? 私もいつかは可憐なお嬢さんのナイトになってみたいと思っていたんだ」

「勝手なこと言わないで! だからってここに置いても行けないし……どこか安全な客室を探してあげるから、そこでじっとしていてくださらない?」


 紳士は澄まし顔で首を振った。


「それはお断りだよ、マドモアゼル。だが、まあ――」


 彼は怒り心頭の若い娘、そして困惑気味で様子を伺っている貴婦人を見比べ、深い溜息を吐いた。


「わかったよ。ご婦人方を困らせたいわけではないからね。船室から必要な物を取ったら、ちゃんとパーティー会場に帰ると約束するよ」


 マチルダは安堵に頬を緩ませた。


「ありがとう。そうしてくれると助かるわ」

「それでも、途中までは同行させてもらうよ。その方が安全だろうから」


 紳士はにこやかに握手を求めた。


「ケインズだ。よろしく、お嬢さん」

「マチルダよ」


 マチルダは仕方なく手を握り返した。


「君たちは後部甲板に向かっているんだろう?」

「ええ、そうよ」


 ケインズは微笑んだ。


「逆だよ」

「えっ」

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