2-10 激闘〈エウクレイデス〉号

 エアロンはハンドガンの弾を再装填し、静まり返った廊下の向こうを盗み見た。シージャック犯の男が倒れ、塗装の剥げた内壁に血が飛散する。無残に空いた弾痕と漂う火薬の臭いが先程までの銃撃戦の激しさを物語っていた。


 敵が一人逃げようとするのを彼は見ていた。追わなければ、と思うのだが。壁に背中を預ければ、緊張の糸が切れてずるずると座り込んでしまう。擦り切れた腰巻エプロンの裾が粉塵を撫でた。


 衰えたものだ。

 見た限り、敵は素人同然だ。そんな相手に苦戦するなんて、やはり事務方に移って長いからだろうか。


 頬に走る掠り傷を拭う。


「焦るな。焦るんじゃない」


 声に出して自身に言う。

 僕は副主任だ。この程度で音を上げては部下に示しがつかないじゃないか。


「僕は、副主任だ」


 スライドを引き。

 赤い廊下に身を躍らせて。

 副主任エアロンは引き金を引いた。



***


 ダンッと大きな音を立てて、ナイフの刃が突き刺さる。

 ルチアは身を縮め、乱れた髪の間から恐る恐る前を見た。事務机にナイフが突き立てられ、表面に短い亀裂を作っている。ワンピースの切れ端が舞い落ち、切り付けられた右腕に痛みが走った。

 マクシム・フェドロフはナイフを鞘に納めると、少女の腕を掴んだ。


「おい、この包帯はどうした?」

「いっ……」


 患部を強く握られて、青い瞳に涙が滲む。ルチアは相手を睨み付けながら答えた。


「『怪我』したの!」

「怪我だと……?」


 千切れた袖の隙間から覗く、真新しい包帯。フェドロフは考え込む素振りを見せた。やがて手を放して部下を振り返る。


「ガキを適当な所に繋いでおけ。この子については後で調べる」

「えっ! でも、条約を手に入れないと、交渉が……」

「わかっている。だが、気になることがあってな――あの男が船内のどこかにいるはずだ。ヴィンセントなら顔がわかるだろうから、探し出してここへ連れて来させろ。もう一度詳しく話を聞く必要が出てきた」


 ルチアは大人しく机の脚に縛り付けられた。


「マクシム、大変だ!」


 銃を手にした男が飛び込んで来る。男はボロボロで、衣服には彼のものではない血痕が付着していた。


「どうした?」

「船内各所で交戦している。こちらが圧されているぞ!」

「何だと?」


 フェドロフは信じられないという顔で部下を受け止め、楽な姿勢で座らせた。


「船は制圧したはずでは?」

「そのはずだったが、どこかから銃を持った集団が現れたんだ。自分がやりあったのはコックだった」

「馬鹿な? コック? 調停官の護衛か?」

「なんでもいい! とにかく、このままではまずい。どうする?」

「くそっ。だが、乗客を人質に取っている限りはこちらが有利だ。計画も遂行できる。パーティー会場はまだ確保できているのだろうな?」

「わからないんだ。すまない……」


 フェドロフは激しく頭を搔き乱した。想定外の事態に動揺が隠せない。


「いい。悪かった。私が直接指揮を執りに行く」


 フェドロフが武器に手を伸ばした時だった。

 気怠い声が行く手を阻む。


「もう行っちゃうの? せっかくだから僕とお話ししようよ。僕、あんたたちに聞きたいことがあるんだよね」


 操舵室の入り口に長身の青年が立っていた。片足に体重を預け、コックコートの前で腕を組む。乱れた髪の下では猫のそれに似た三角の瞳が怪しく光っていた。その色はまるで鉛のような、冷たい金属の色。


「貴様……何者だ?」

「気にしなくていいよ。しがない会社員さ」


 フェドロフの部下が叫んだ。


「そいつだ! さっきのコック!」

「会社員だってば。あんたたちが何者なのか、目的は何なのかにも興味はあるんだけど――とりあえず、アーヴィンド・マクスウェル調停官をどこにやったか教えてもらおうか」

「調停官のボディーガードか……答える義理はない」


 副主任エアロンは室内を見渡し、捕らわれた少女を見つけると、にこやかに手を振った。その目が糸のように細くなり。


「あんたたちさぁ、こんな小さい子に酷い事して恥ずかしいと思わない?」

「……コックだか会社員だか知らないが、随分余裕があるじゃないか。多勢に無勢だぞ。自分の状況がわかっているのか?」

「だって、余裕だもん。今からそれを証明してあげる」


 お互いの手が、それぞれの武器に伸びる。エアロンはニタリと笑みを浮かべた。


「どうせあんたたち寄せ集めでしょ。格の違いってのを見せてあげるよ」


 銃身が煌めく。

 交戦の火蓋が切って落とされた。



***


「動くな!」

 

 労働者風の屈強な男たちが小銃を水平に構える。ところが、視界を蒼が覆った刹那。長剣が抉るように肉を裂く。男たちは悲鳴を上げて廊下に崩れ落ちた。


 藍色の剣士は返り血を拭い、背後に控える少年を振り返った。


「もう出てきて構わない」


 正直なところ、九歳の少年が大人の男に遅れずに付いて走るのは相当の苦難を強いられた。呼吸は荒く、脇腹が刺すように痛む。


 それでも、今は走ることしかできないから。

 少年ハーキュリースは汗ばんだ手の平をズボンで拭い、前を行く船長を仰ぎ見た。未だ名も知らぬ〈アヒブドゥニア〉号の船長は、戦場においても無表情を一切崩さなかった。青い目は油断なく周囲を警戒し、口は真一文字に結ばれている。

 長剣という古風な武器は銃に対して一見不利に思えたが、この剣士の場合にはそうではないようだった。彼には速さがあった。そして、痛みを恐れぬ度胸が。敵の姿を捉えた瞬間に間合いを詰め、有利な近距離戦に引き摺り込む。切っ先は決してぶれず、無駄な動きのないその軌道は、狭い通路という悪条件すらものともしなかった。


 ハーキュリース・マクスウェルは藍の剣士が敵を切り倒す姿を、その幼い瞳にじっと焼き付けていた。

 初めて聞いた銃の音は、映画館で聞くより遥かに無機質だった。軽く、なんの圧力もない。初めて味わった返り血の味は、何度吐き出しても決して消えず。まるで持ち主がそのまま圧し掛かってきたかのように、少年を掴んで放さない。


 戦場は決してかっこよくなんてない。

 興奮も激情もそこにはない。


 目の前の剣士はただ淡々と長剣を構え、行く手を遮る者を倒す。それは薙ぎ払うという表現がぴったりで、彼には相手が同じ人間だとは見えていないのだろう。


「殺したの?」


 少年は足元に倒れた男をしげしげと眺めた。


「いや、急所は外している」

「本当に?」

「……突いて確かめてみるか?」

「……やめとく」


 船長が血の滲んだ手袋を外す。微かに湿った手の甲でヘルの額に触れた。汗で貼り付いた髪の毛をひんやりした指が拭う。


「大丈夫か」

「……うん」

「休む暇はないぞ」

「わかってる。ぼくは大丈夫だよ」


 早く行かないと、父さんが。母さんが。ルチアが。

 血溜りで呻くこの男のようになってしまうから。


「行こう。船長さん」


 視界の隅で捉えた、カーペットに伸びる影。

 ヘルは叫んだ。


「船長さん!」


 船長の反応は、目にも止まらぬ速さだった。

 突如現れた巨体が壁のように覆い被さる。ヘルの叫びが聞こえるや否や、船長は膝を折って片手を床についた。その手に重心を置き、間髪入れず振り返る。


「危な――」


 ヘルが警告の終いを言うまでには、長剣が肉壁を貫き、強襲者は床に膝をついていた。追われないよう敵の両足首を突き刺しながら、船長が感情のない視線を寄越す。


「かった、ね……?」

「そうだな」


 船長は切っ先を拭うと剣を鞘に納めた。


「〈エウクレイデス〉号の乗組員たちの姿が見えないということは、この船は完全に敵の手に落ちたということだ。恐らく要所である操舵室を拠点にしているだろう。敵の本拠地に乗り込むぞ。準備はいいか」

「うん」


 そしてまた、二人は走り出す。

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