2-9 少年の覚悟
制圧されたパーティー会場は、誰一人口を開く者はいないにも関わらず、静寂とは程遠かった。興奮した息遣いや落ち着かない布擦れの音で満たされている。啜り泣く者、貧乏揺すりが止まらない者、頻りに足を踏み変える者、爪を噛む者――張り詰めた空気は、ただ待つことしかできない人々の精神を摩耗させる。時折小さな諍いが起こったが、それらはすぐシージャック犯によって鎮圧された。
マチルダはマクスウェル夫人の傍に控えたまま、周囲の様子を窺っていた。
マクスウェル家の護衛たちも動きを見せない。夫人の前に立っている一人には接触できそうだが、他の三人は反撃の隙を窺っているのか、入口に近い位置へ移動してしまっていた。彼らと連携を取ることは難しそうだ。
突然、マチルダの耳元で雑音が鳴り響いた。近くにいるマクスウェル夫人がビクリとして振り返る。マチルダは両耳を押さえ、周囲の人間に気付かれないよう料理テーブルの裏にしゃがみ込んだ。
『……ダ、聞こえるかい?』
マチルダは大胆に制服の前を開け、隠してあった小型の通信機を取り出した。
「副主任?」
『うん、僕だ。今はパーティー会場にいるの?』
「はい。シージャックです、副主任。銃を持った男たちが現れて、他の乗客たちと一緒に会場に閉じ込められてます。狙いはやっぱり例の機密文書ですよ。マクスウェル氏が連れて行かれました」
受信器の向こうで舌打ちが聞こえた。
『それで船が止まっているわけだ。夫人の身柄は?』
「確保してます」
『よかった。後部デッキに〈アヒブドゥニア〉号からの迎えが来る。なんとかして夫人をそこに連れて行けるかい?』
マチルダは顔を顰めた。
「ちょーっと厳しいですよ。出口は二箇所とも見張りがいるんです。廊下側から何かで注意を引いてもらえません? そしたら、その隙に抜け出すくらいはできると思うんですけど」
『オッケー。〈アヒブドゥニア〉にやらせよう。僕はアーヴィンドを助けに行く。犯人について他に情報はない?』
マチルダは見聞きしたことを報告したが、あまりに情報が少な過ぎてエアロンの助けにはなりそうになかった。
『……まあいいや。動きがあったらすぐ抜け出せるように出口の傍で待機しておいて。頼んだよ』
「了解しました。あたしに任せてくださいな」
通信を終えて顔を上げると、マクスウェル夫人が無言のままこちらを見つめていた。ケイティー・マクスウェルは気丈な女性だ。本当は主人と息子のことが心配で堪らないだろう。ハンカチを握る手は震えていたが、その動揺を表に出すことはしなかった。
潤んだ緑の瞳がマチルダに問う。彼女は力強く頷き、夫人の手を取ってじりじりと移動を開始した。
***
〈アヒブドゥニア〉号は漆黒の世界にぼんやりとその姿を浮かび上がらせた。〈エウクレイデス〉号に比べれば随分と小さいが、夜空を覆うように聳える白い船体は高貴で美しい。
ジャンルカはボートを固定し、再び軽々と縄梯子を登った。転げるように甲板に降り立つ。船酔いに戸惑いながら動けずにいるハーキュリース少年の目の前に、重たいブーツが立ちはだかった。
「〈アヒブドゥニア〉号へようこそ」
低く落ち着いた声が降り注ぐ。
青い。
ハーキュリースは思った。
くすんだ蒼の外套を翻し、長身の男が立っていた。風に靡く髪は僅かに夜空よりも青く輝き、面長の輪郭を撫でるように縁取っている。とりわけ目を引くのはその瞳。何の表情も浮かべずこちらを見下ろした双眸は、薄明りの中でもそれと分かるほど印象的な、深い海の色だった。
「ジャンルカ、エアロンには会ったか」
男はそれ以上少年に関心を示すことなく、部下に顔を向けた。
「へい。副主任は船に残りました。船内の状況が判明し次第、連絡を寄越すそうですよ」
「わかった。念のため出動の用意をしておけ。テオドゥロにも伝えろ」
それから男は踵を返した。
「ミナギ、船室に案内しておけ」
船長の背後から若い船乗りが進み出る。ヘルは飛び上がって呼び止めた。
「あっ、あのっ!」
「なんだ」
肩越しに振り返った瞳はやはり冷たく無表情だ。
「あなたが船長さんですか?」
「いかにも」
「〈アイボドルニア〉号の?」
「〈アヒブドゥニア〉だ。それがどうした」
「やっぱり! ってことは、ルチアもこの船に乗ってるんですか?」
改めて口にした「ルチア」という名前に思わず胸が高鳴った。
ルチアに――初恋のあの子に、もう一度会える!
ところが、〈アヒブドゥニア〉号の船長は眉間に皺を寄せた。
「ルチア? そういえば、ルチアは一緒ではないのか」
「えっ? うん……図書館で会ったけど、その後は見てないです」
「……ジャンルカ」
船長が立ち去りかけた乗組員を呼び止める。
「ルチアはどうした」
「ルチアですか? 見てないっすね」
「エアロンは何も言っていなかったか?」
「いえ、何も」
無表情の男の顔に、僅かに不安の影が過る。ヘルは船長の気を引こうと精一杯背伸びをした。
「あの! ぼく、ルチアと別れた後にエアロンさんに会ったんだ。二人は待ち合わせをしてたけど、ルチアが来なかったみたいで、それでエアロンさんが探してるところだったんだよ」
「……そうか。ミナギ、私は一度エアロンと連絡を取る。場合によっては私が〈エウクレイデス〉号に向かうとジャンルカに伝えておけ」
「わかりました」
ミナギと呼ばれた青年は早足に去った。
船長は船室へ入った。ヘルも慌てて後を追う。殺風景な白い廊下を進み、二人は船長室に入った。廊下とは様相の違う特別な内装に少年は目を見張る。船長はそんな彼の様子など眼中にないようで、真っ直ぐ机に向かうと無線機を付けた。チャンネルを合わせ、マイクの通信ボタンを押す。
「こちら〈アヒブドゥニア〉号、船長室。エアロン、聞こえるか」
音声メーターは一瞬の間を開けて、静かに上下に動き出した。
『……はいはい? ああ、船長。ちょうどいいところに』
「今話しても構わないか?」
『うん。でも先に僕から話してもいいかな? 〈エウクレイデス〉号についていやーなお知らせがあるんだ』
エアロンは〈エウクレイデス〉号がシージャックに遭っていることを知らせた。
『あんた、英断だったね。ま、どうせ娘可愛さに先走っただけなんだろうけど』
「ルチアはどうした?」
『ルチア?』
無線機が一瞬口を噤む。船長は無線越しにエアロンを睨んだ。
「エアロン」
『ルチアなら、見てないよ。さっきから探してるのに見つからないんだよね』
「……なんだと?」
思わず声を荒げる船長。スピーカーから腹立たしげな声が流れた。
『ったく、僕は通信機を耳に挿してるんだ。耳元でおっきな声出さないでくれる?』
「いないはずはないだろう。ルチアは船慣れしている。夜迂闊に甲板に出たりはしないはずだが――」
最悪の事態を思い描き、無表情が微かに曇る。船長は改めてマイクに向き直った。
「もう一度探してくれ」
『あのさぁ、僕の仕事は調停官の身辺警護なの。子守だけに集中してらんないんだよ。わかる? まあ、さっきは部屋にいなかったけど、もう戻っているんじゃないかな。後でもう一回見てみるよ』
「……すまない」
エアロンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
『連れて来たのは僕だからいいけどさ。で、さっきの話の続き。パーティー会場を襲撃してくれない? マチルダたちを逃がすための陽動だから、派手にやっちゃってよ。好きでしょ? そういうの』
「好きではないが。承知した」
『ルチアが見つかったら、マチルダにそっちへ連れて行かせるよ。僕はアーヴィンドを救い出さなきゃいけないからね。手が空いたら、あんたも手伝いに来てくれると嬉しいんだけど』
「と、父さん? 父さんがどうしたの?」
ハーキュリースは咄嗟に身を乗り出した。今更その存在に気付いたのか、船長が驚いて彼を見る。抱えて部屋から追い出そうとするも、ヘルは机に貼り付いて離れなかった。
『ん……? その声はマクスウェル氏の御子息かな?』
「ねえ、エアロンさん! 父さんに何があったの? 救い出すってどういうこと?」
『だーかーらー、大声出さないでよ……君のお父さん、人質にされてるっぽいんだよ。でも、心配しなくて大丈夫だよ。これからこの僕が体を張って救い出しに――』
突然の破裂音。
ダンダンッという騒がしい音が続き、何かが崩れ落ちる大きな音。
銃声に混じって響く男の叫び声。
――そして、突然の沈黙。
黙り込んだ無線機に手を置き、船長がマイクを引っ掴む。
「エアロン? エアロン、応答しろ」
返事はなかった。
「船長さん? ねぇ、どうしたの? 何があったの?」
ハーキュリースが外套の裾を引っ張る。船長はその手を乱暴に振り払い、壁に立て掛けてあった長剣を掴んだ。早足で外に出る。
「ミナギ!」
「はい? ……どうか、したんですか?」
振り返った航海士は、その緊迫した様子に身を硬くした。
「私は先に〈エウクレイデス〉号へ向かう。エアロンが敵の襲撃に遭ったようだ。ジャンルカに準備が整い次第乗船し、パーティー会場へ陽動を仕掛けるよう伝えろ。テオドゥロには第二部隊を率いて船内の乗客を保護するように言え。ミナギ、〈アヒブドゥニア〉号のことはお前に頼む」
「承知しました。お独りで……大丈夫ですか?」
「ああ」
「ぼくも! ぼくも行くよ!」
ハーキュリースは転げるように船長の脚に縋り付いた。
「ぼくも船長さんと一緒に行く。お願い、一緒に連れてって!」
「黙れ、小僧。これは遊びじゃない。お前はこの船に残れ」
掴んだ手を引き剥がすも、少年は諦めなかった。小さな体から力を振り絞る。
「嫌だ!」
捕まえようと伸ばされた航海士の腕を掻い潜り、ヘルは船長の前に立ちはだかった。拳を握り、仰ぎ見た表情には、強い決意が表れていて。
「あの船には父さんと母さんが乗ってるんだ! 船長さんは誰かを助けに行くんでしょう? ぼくだって父さんと母さんを守りたい。助けたいんだ! ここで待ってるだけなんて絶対に嫌だ!」
甲板中の視線が二人に集まっていた。
無表情の青い目が威圧的に少年を見下ろした。迎え撃つ緑の双眸は力強く、気高い。船長はゆっくり一度瞬きをすると、背後の航海士を振り返った。
「ミナギ、携帯用の通信器を」
「あ、はい」
ミナギが装置を差し出し、船長がそれを装着する間、ヘルは歯を食い縛って船長を睨んでいた。ポケットから取り出した白い手袋をはめながら、船長はぽつりと呟いた。
「……ハーキュリースか。ギリシャ神話の英雄の名前だな」
「そ、そうだよ」
友達に何度も馬鹿にされた名前。
自分には大きすぎる、この名前。
ぼくは英雄じゃないけれど。
――でも今は、この名に負けぬ勇気が欲しい。
船長は外套を翻し、少年の横を通り過ぎた。
「好きにしろ」
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