2-8 彼らの目的

 〈エウクレイデス〉号操舵室にて。


 マクシム・フェドロフはその瞬間、故郷にいた。狂おしいほど愛おしい、景色、人々、匂い、音、感触。多少雑多ではあれど、活気に満ちたあの町の空気を五感が思い出していた。望郷の念が込み上げ、喉の奥を締め付ける。

 やがて、それは怒りに変わった。

 故郷が戦地へ変わったのと同じように。

 フェドロフは憎しみの籠る眼差しで部下を見た。彼の部下もまた、彼と同じ目をしている。


「船内の制圧は済んだか」

「滞りなく。パーティー会場を占拠し、他の乗客も見つけ次第そこへ連行しています。また、乗組員たちはそれぞれ少人数に分け、地下の倉庫に監禁いたしました」

「ご苦労。特に変わったことはなかったかね?」

「はっ。不審な子供を発見したとの報告がありました。乗客リストに十五歳以下の子供はおりません」

「乗組員の子供だろう」

「いえ、それが違うようなのです。『自分は別の船に乗るのだ』『すぐに助けが来る』等、意味不明なことを主張しています」


 フェドロフは満足げに唸った。


「ほう、それは……いい拾い物をしたかもしれんな。ここに連れて来るよう伝えろ」


 部下は敬礼をして退出した。入れ替わりで、口髭の紳士が引っ立てられて来る。男に後ろから突き飛ばされ、拘束されたアーヴィンド・マクスウェルが膝をついた。


「ご機嫌よう、調停官殿。我々が何者だかわかるか?」

「わからないな。薄汚いテロリストなんて、記憶の一片にも留めたくないのでね」


 フェドロフは調停官を引っ叩いた。赤く手の跡が残る横面に、布切れを押し付ける。


『この旗に見覚えがないとは言わせない。引き裂かれ、失われた我が祖国の恨み、貴様の身で果たさせてもらうぞ』


 耳元で囁かれた言葉に、アーヴィンドはハッと目を見開いた。聞き覚えのある言語。もう操れる者は極少数になってしまった、小国の言葉だ。彼はすべてを理解した様子で真っ直ぐにフェドロフを見据えた。


「そうか、君たちは……」

「国連の仲介は我々国民にとって希望の光だった。我々は疲弊し尽くしていた……大戦は終わったんじゃなかったのか? なぜ我々だけが尚も戦火の中で苦しまなければならない? 飢餓と殺戮に怯えながら不条理を嘆くだけの毎日が、やっと終わるのだと涙を流した者もいた」


 フェドロフは再度調停官の横面を叩いた。乱れた金髪を掴み、自分の顔を覗き込ませる。


「それなのに、国連がもたらしたのは更なる不条理でしかなかったのだ! 祖国は解体され、今や我らは故郷と呼べる地を失った。何が平和だ? 平等だ? 貴様が取り澄まして垂れ流した演説は、すべて空虚な絵空事だった!」


 殴られて鼻血を垂らす調停官の視界に、彼を取り囲む男たちの憎しみの籠った眼差しが映る。アーヴィンドは目を伏せ、掠れた声で答えた。


「すまないことをした、と思っている。だが、これ以上の犠牲を出さないためには止むを得なかった。それ程までに両国の主張は対立していて、我々は彼らの強硬姿勢を変えることができなかった……」

「なぜ加害者に有利な調停を行う? 祖国は巻き込まれただけだった!」

「悪いが、国際連盟では、君たちの国を独立国家とは認めていないのだ」


 複数の拳が調停官を襲う。十分に痛みを与えたのちにフェドロフが制止を掛けたが、調停官は自身が流した鼻血の池に顔を押し付けられたままだった。


「貴様らが法ではない。国は国民のためのものだ。国民によって成り立つはずだ」

「言いたいことはわかる。だが、我々は国家間の共通認識を土台として成り立つ組織だ。加盟国同士の合意を受け、その枠組みの中でしか何も為し得ない――わかってくれ。理不尽は承知の上だ。それでも、これ以上死者を出さないためには、早期解決を求める他なかった。もう誰も死なせたくないと思う気持ちは、君たちも私も同じはずだ」

「ふざけるな。貴様は我らの痛みがわかるのか? 失ったのは国名だけではない。歴史が、文化が、我ら民族を形作るすべてのアイデンティティが否定されたのだ! 我らの中には、親族であっても国境で分断されて会うことが許されなくなった者もいる。その痛みは貴様らにはわかりえまい。そのくせ、自分たちのことはわかってくれなどと!」


 マクシム・フェドロフの声には数千の悲しみが滲んでいた。彼らの民族すべての悲哀だ。 アーヴィンドは這い蹲ったまま噎せることしかできなかった。

 やがて、双方が呼吸を整えて少し落ち着きを取り戻した頃、調停官は訊ねた。


「……それで、君たちの要求はなんだ? 私を捕らえたところでどうにもならないだろう」

「決まっている。調停書の内容を改めろ。祖国を国家として認めてもらう」

「そんなことは不可能だ。私の一存で決められることではない」

「乗客全員の命を犠牲にするつもりか? 我らは今船に乗っている人数以上の同胞を殺されている。ここで数百人海に沈めたってなんとも思わん」


 アーヴィンドは唇を噛み、その間から血と共に言葉を吐き捨てた。


「……両国の合意は進んでいる。私を含め何人を人質に取ろうと、国際連盟は動かない。一度結んだ和平条約を――」


 すると、フェドロフの顔に笑みが広がった。残忍な笑みだ。先ほどまでの激昂からの反転に、調停官がぞくりと身を震わせる。


「まだ結ばれていない、そうだろう? 何故ならその原案は今この船に乗っているのだから」

「何……?」


 調停官の顔に浮かぶ驚愕の表情を見て、テロリストは満足そうに頷いた。


「あの男の情報は本当だったらしいな。ということは、我らの行動も無駄ではなかったというわけだ。それを頂こう」

「断る。卑しい脅迫犯風情に渡せる物ではない。私たち国際連盟は、お前たちのソレより遥かに重要な大義のために行動しているのだ」


 キッと睨む暗褐色の瞳。フェドロフは冷たい目で彼を見返した。


「それが貴様の答えか? 貴様の『大義』は家族よりも大切なモノなのか?」

「……当然だろう。私は君たちにそう求めた。だから、私も同じようにして然るべきだと理解している」


 フェドロフは拍手した。


「さすが気高いものだ! では、その言葉が本心なのか見てみることにしよう」

「……まさか」


 アーヴィンドが絶望に顔を上げる。フェドロフは満足そうに頷いた。


「そのまさかだよ、調停官。おい、連れて来い」


 操舵室の扉が開き、作業服の男が顔を出す。腕に小さな女の子を抱えて。

 少女の抵抗は虚しく空を掻き、口を塞いだ男の手に苦い涙が垂れていた。少女は大きな青い目で室内を見回すと、自分と同じように囚われの身であるアーヴィンドに目を止めた。その縋るような眼差しに調停官が無言の合図を送る。

 床に下ろされた途端、少女は叫んだ。


「帰して! あたし何も悪いことしてないもん!」


 すかさず作業着の男が少女の髪を引っ張り、乱暴な仕方で黙らせた。


「そうだな、君は何もしていない……が、君のお父さんは沢山したのだよ。そして、それを大義などと言う。今から我々は君に酷いことをするのだが、せいぜいうんと父親を恨むがいい」

「やめろ! その子は関係ない! 放せ!」


 アーヴィンドが抵抗を試みる。フェドロフはニヤリと笑って首を振った。


「さすがの調停官殿も、娘のこととなると態度が変わるな。我々は本気だ――私だってこんなことはしたくないんだが、我々の大義のためには止むを得ない。さあ、何から始めようか。初歩的なことから始めるなら、指を一本一本折る……というのはどうだね?」

「やっ……いやぁ!」


 少女が身を捩る。アーヴィンドが声を荒げた。


「だめだ、やめろ! 子供に手を出したら条約は手に入らないぞ!」

「脅しかね? 効かんよ。殺された同胞には、この子よりも幼い子供も沢山いた。知らんだろう、調停官。祖国を奪われる痛みは、爪を剥がれるよりも辛い」


 フェドロフが目配せすると、部下の一人が進み出て少女の腕を押さえ付けた。武骨な手が細い指に掛かる。怯えて泣き叫ぶ声が操舵室に反響した。


「くそ…っ、卑怯者め!」


 調停官が赤い絨毯に唾を吐く。


「いいだろう、教えてやる。ただし、その子の身の安全は保障してもらうぞ」

「誤解するなよ。我々だって好きでこうしているわけではない。貴様がそうさせているんだ」

「下衆野郎が……私はもう情報は与えたぞ。『子供に手を出したら条約は手に入らない』、そのままの意味だ。私は我が子に原本を託した――我が子を殺せば、永遠に貴様の手には入らない方法でな!」


 アーヴィンドの気品に満ちた髭面が歪み、有らん限りの悪態を吐いた。思わず耳を塞ぎたくなる言葉の数々にフェドロフも顔を顰める。


「なるほど……つまり、この娘さえいれば貴様にはもう用はないというわけだな? お前たち、こいつを下の階に閉じ込めておけ」

「なっ? 馬鹿、やめろ! 放せ! この……っ」


 男たちがアーヴィンドを連行する。鳩尾に拳の一撃が加えられ、意識を失った調停官は、ずるずると廊下を引き摺られていった。


 残された少女と男は視線を交わし、無言のうちに力の差を理解し合った。怯える少女を見下ろしてフェドロフが口を開く。


「安心したまえ。条約さえ手に入れば解放する」

「お願い……あたしを帰して。あたし条約なんて知らないもの。そんなもの、あたし持ってないもん。あたし、何にも知らない……っ」

「そうだろうな。マクスウェルとて馬鹿ではない。持たせるとしても本人に知らせず、病原体を運ぶドブネズミのように、知らず知らずのうちに運ばせているはずだ」


 控えていた部下が少女の横に立ち、ワンピースの裾に手を掛けた。


「脱がしますか?」

「いや、いい。見てわかるような場所に仕込んでいるわけがない。ということは――お嬢ちゃん、名前は」

「ルチア」


 ルチアは名乗りながら男を睨みつけた。突然見せた強気の姿勢に、フェドロフが意外そうな顔をする。


「どうした。急に泣き止んで」

「あなたたち、悪い人ね。怖くないよ。悪者は負けるって、どのご本を見ても書いてあるもん」


 フェドロフは興味深く顎を撫でる。


「我々が悪、ね……さすが調停官の娘は言うことが違うな。社会的に『悪』のレッテルを貼られても、我々においては『善』といえる場合もあるのだよ。きっと君にはまだわからないだろうが、物事を多面的に見ることのできる大人に育ってほしいものだ」

「わかんない……わかんないけど、あたしは何も悪いことしてないもん。悪いことしてない人に酷いことをしようとしているあなたたちは、間違いなく悪い人だわ!」


 幼女とは思えないほどの気迫を見せて、ルチアが叫ぶ。フェドロフは悲しげに笑った。


「我々も何も悪いことはしていなかったのだよ。だが、それにも拘わらず酷いことをされたのだ。だから反発したら、今度は我々が悪者扱いだ。まったく酷い話だよ」


 フェドロフはベルトの吊り具からナイフを抜き払った。刃渡り二十センチはあろうかという大振りなナイフは、よく手入れされて切っ先も鋭い。舐めるように刃に視線を落とし、男は部下に指示を出した。


「彼女を机の上に張り付けろ。さあルチア、最後に食事をしたのはいつかな?」

「何……するの……?」


 照明を背景に浮かび上がる凶悪なシルエット。ルチアは青い瞳を見開いて、震える睫毛に涙を溜めた。


「想像の通りだとも。怖いかね? なんで私がこんな目に、と思うか? それが不条理というものだよ。我々が散々味わってきたものだ」


 フェドロフが嘲笑う。気高い少女は息を呑み、涙を堪えて歯を食い縛った。


「泣いたりなんて、しないよ! きっと船長さんが助けに来てくれるもん!」


 切っ先は無情にも少女の上に振り下ろされた。

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