2-7 エアロン、ヘルを保護する
「うわっ! ごっめん、大丈夫? 何かと思ったら……」
顔を上げたヘルを覗き込んでいたのは、猫のように吊り上った鉛色の瞳だった。前髪が鼻筋をなぞる。その青年は白いコックコートを纏っていたが、ひょろりと高い長身にはちょうどいいサイズもなかったようで、襟元は開けて袖を肘まで捲っていた。
ヘルはぶつけた額を押さえ、恐る恐る相手を見上げた。
「ご、ごめんなさい……」
「あれ? 君は……」
青年は遠慮もなくじろじろとこちらを観察している。ヘルは居心地悪く身を捩った。
「な、なんですか……?」
「ねぇ。もしかしてボク、マクスウェルくん?」
「えっ! ぼくのこと知ってるの?」
「あー、やっぱりそうか。まあ、見つけられてよかったよ」
青年は胡散臭い笑みを口元に貼り付け、少年を助け起こそうと手を伸ばす。ヘルは躊躇いながらその手を取った。
「あなた、誰ですか?」
「僕? 僕はエアロン。お父さんのお友達だよ」
「エアロン、さん?」
その名前は聞いたことがある。不思議な少女に通じる手掛かりを見つけ、ヘルはパッと顔を輝かせた。
「もしかして、ルチアが言ってた……!」
「ルチアに会ったの? どこで?」
「えっと……今図書室で一緒にいたんだけど、どっか行っちゃって……」
エアロンが「あーっ」とさも面倒くさそうに声を上げる。鉛色の髪をバサバサと掻きながら、青年は首を振った。
「時間になったら戻るように言ったのに……まあいいや。僕、君のお父さんから君を保護するように言われてるから、あんまりウロチョロされてると困るんだよね。一緒に来てくれる?」
「父さんに? なんで?」
「君もお父さんがどんな仕事してるか知ってるなら、どういう意味かわかるでしょ。行くよ」
ヘルは一度だけ頷くと、得体の知れない青年の後について行った。
***
船首に向かって歩いている途中、エアロンは足を止めた。
「変だな。船が止まってる」
「ねえ、どこに行くの? ぼくの部屋はこっちじゃないけど」
エアロンはヘルを無視して甲板に出た。外洋の強い潮風が二人を襲い、刺すような寒さに身を縮ませる。
新月の夜は天地もわからぬ程の漆黒の世界。空との境を失った夜の海にぽっかりと灯りが浮いていた。船だ。然程遠くない距離に小振りの船が浮いている。
「あれは……〈アヒブドゥニア〉号?」
二人が目を凝らしてそれを見ていると、背後から声が掛かった。
「副主任!」
甲板の向こうから懐中電灯が近付いて来る。眩しさに目を細めると、床に落とした灯りの上に日焼けた顔が覗いた。
「エアロン副主任ですよね?」
直接の面識はなかったが、過去に〈アヒブドゥニア〉号で見たことがある男だった。
「えっと、確か君は……」
「ジャンルカです。マクスウェル氏の奥さんと息子さんを迎えに来ましたよ。その子が息子さんですか?」
「そうだけど、計画では迎えに来るのは明日じゃなかった?」
ジャンルカは困り顔で頬を掻いた。
「それが、予定に無く〈エウクレイデス〉号が止まったんで、船長が今のうちに迎えに行くべきだと言うんですよ。何かあったんじゃないかと心配で」
「確かに船が止まってるのはおかしいけど……〈エウクレイデス〉号から無線で何か言ってきてないの?」
「何も。だから余計に怪しいんですわ」
エアロンは腹立たし気に頭を振った。
「勘弁してほしいね。わかった。マクスウェル氏には僕から伝えておくから、とりあえずこの子を頼むよ」
「うっす」
ジャンルカは膝に手を突いてヘルに視線を合わせた。顔をくしゃっと歪めて笑い掛ける。
「ハーキュリースだな? ジャンルカだ。よろしくな」
おずおずと挨拶を返す少年を見下ろし、エアロンは意外そうに目を見張る。
「へぇ? 顔に似合わず偉大な名前だねぇ……」
ハーキュリース少年は挑戦的に睨み返した。
ジャンルカは小さなボートを〈エウクレイデス〉号に着けており、乗り込むためには縄梯子を二階分は降りる必要があった。時化の日に比べれば穏やかな方とは言え、そこら中が塩を纏って滑りやすく、梯子も船もゆらゆら揺れる。暗い海を覗き込んだハーキュリースは、ゾッとして怖気づいてしまった。
「ぼ、ぼくちょっと無理かも……?」
「お? 梯子が無理なら飛び降りるか? オレが下で受け止めてやるよ」
ヘルはブンブンと首を振った。エアロンが呆れたように鼻を鳴らす。
「ハーキュリースなんでしょ? 勇気出しなよ。落ちたって死んだりしないって。たぶんおそらくきっと」
「はっはっは。十分危険だけどな! サメだってうようよいるぜ」
ジャンルカは冗談だ、と笑いながら少年の頭をクシャクシャに撫でると、おぶって紐で括り付けた。船乗りは風も塩も物ともせずに易々と梯子を降りていく。
二人を乗せたボートが去って行くのを見届け、エアロンは踵を返した。小型の通信機を装着し、船内にいるマチルダへと呼び掛ける。
彼は船室へ向かっていた。まずは〈エウクレイデス〉号の状況を確認し、それを〈アヒブドゥニア〉号へ伝えなければならない。
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