2-6 シージャック
パーティー会場は緩やかな音楽で満たされ、婦人たちの鮮やかなドレスが犇めきあっていた。そのドレスの間を区切るように立つ紳士たちも、ポケットチーフに個性を託し、会場に彩りを添える。
ダンスフロアでは沢山の男女が一時の娯楽を共有していた。交わされる視線は親しげな笑みを湛える一方で、相手がどんな人間なのか、自分のこの先に有益な人間なのか、鋭い観察を忘れない。
「おや、あなたはマクスウェルさんではありませんか?」
「バーンズ先生! こんなところで会うなんて、奇遇ですね。お仕事ですか?」
調停官は歩み寄ってきた大柄な男に笑いかけた。がっちりと手を握り合う傍らで、連れの婦人たちが挨拶を交わす。バーンズは豪快な笑い声で答えた。
「いやいや、ただのバカンスですよ! カリブ海こそ地上の楽園です! あなたもロンドンから乗船されたのでしょう? いやはや、あなたがいらっしゃるなんて全く気が付かなかった!」
「緊急の仕事がありましてね。ずっと部屋に籠っていたので、それで今までお目に掛れなかったのでしょう。しかし、カリブ海とはいいですな。我々はそこまで足を延ばす予定はないのです」
「パナマはいいですよ!乗り継ぎこそ面倒ですが、船旅もまたいいものです。実はエンバルド氏が素晴らしい別荘を持っておりまして……」
バカンスに始まり共通の知人へと発展する会話の隣で、婦人たちもまた得意の家庭自慢に華を咲かせていた。
バーンズ夫人はシャンパングラスに口を付けて朗らかに笑った。
「嫌ですわ。うちの主人は相変わらずで……お宅の御子息はどんなご様子? ええと、お名前はなんと言ったかしら?」
「ハーキュリースですわ。あの子も来年で十歳になりますの。本当に落ち着きがなくって、手が掛りますわ」
「あら、一番可愛い年頃じゃないの。お父様に似てさぞ優秀でしょう?」
「いえいえ、とんでもない! 主人が張り切って付けた名前が悪かったみたいですわ。完全な名前負けですの。あまり勉強熱心な方でもないし、人前に出ることも苦手なようで。困ったものだわ」
手袋をはめた手で口元を隠し、マクスウェル夫人がホホと笑う。しかし、バーンズ夫人はそんな夫人に指を振って異論を唱えた。
「そんなことありませんわ。あたくしも甥の成長を見てきましたけど、あの年頃の少年というのはどんな力を秘めているかわかりませんことよ。今にお父様を越えてしまうかも」
「そうだといいんですけど」
二人の婦人は互いに顔を見合わせる。そしてまた、ホホホと笑い声を上げるのであった。
***
社交辞令の飛び交う情報交換の中で、アーヴィンド・マクスウェル調停官は絶えず人混みの中に視線を走らせていた。目の前で笑う大柄な紳士に微笑みかける傍ら、その背後を行くウェイターの顔も忘れない。和やかな会話の内容に反し、グラスを握る手の平はびっしょりと汗で濡れていた。
事は突如起きた。
小さな悲鳴が会場の入口から上がり、動揺が波紋のように広がった。入口付近にいたはずの乗客が追い立てられるように内部へ駆け込み、ダンスフロアにいた客たちは一斉にホールの奥へと押し合った。
突然の出来事に、誰も事態を呑み込めないまま、伝染する恐怖が場を支配する。
「何事だ?」
乗客に紛れていた護衛たちが、サッとマクスウェル夫妻を取り囲む。アーヴィンドは護衛の二人に妻を奥へ避難させるよう指示し、自身は他を伴って人混みを掻き分けた。十分に人垣に隠された地点から、問題の起こった場所を窺う。
重厚な白い扉の前には警備員が立っていたはずだった。クルーズを楽しむ大物の乗客たちを警護するに相応しい、がっしりとした体格の男たち。彼らの姿が消えていた。
廊下から銃声が響く。その度に上がる悲鳴に迎えられ、作業服姿の男たちが会場内へ躍り入った。
「静かにしろ! この場は我々が占拠した!」
銃口が会場内を舐める。人々は恐怖に駆られ、我先にと会場の奥へ退いた。グラスの割れる音。料理が床に零れ、いくらかの怒声は悲鳴の輪唱に掻き消される。
シージャックだと全員が理解するまで、時間は掛からなかった。質の悪いジョークだと不満の声も上がったが、実弾が威嚇のために床を削ると静まり返る。作業服の男たちはそれぞれが大型の銃を構え、少しでも不審な動きを見せたらすぐに殺すと宣言した。
アーヴィンドはできるだけ目立たないように身を潜め、犯人グループを観察した。会場内にいるのは二人、廊下にも二人いる。少し遅れて会場内の別の場所からも悲鳴が上がったので、恐らくウェイトレスが出入りしている通用口にも一人か二人控えているようだ。
誰かが叫ぶ。
「な、なんだ! お前たちは何が目的なんだ? 金か?」
この場のリーダーらしき男が怒鳴り返す。
「我々の目的は、虐げられた祖国の民の自由と尊厳を取り戻すこと! お前たち全員人質だ。大人しくしていれば悪いようにはしない。だが、誰か一人でもここから逃げ出そうとした場合は、全員容赦なく撃ち殺す」
男は会場を見渡し一人一人を睨み付けると、要求を述べた。
「この中に、アーヴィンド・マクスウェル国連調停官がいるだろう。前へ出て来い!」
どよめきが走る。誰もが我が身可愛さにあたりを見回し、件の人物を差し出そうと躍起になって探しだした。
アーヴィンドがぴくりと反応すると、護衛の一人が彼を押し留めた。
「いけません。ここは私が身代わりに」
「だめだ。私は顔が割れているだろう。それはできない」
「行かせられません。あなたを護るのが我々の仕事です」
「私の仕事は戦争を調停し、人々の命と平和を護ることだ。私のために誰かを危険に晒すことはできない」
「アーヴィンド・マクスウェル! 早く投降しろ。名乗り出ないのであれば、一分ごとに一人乗客を殺すぞ!」
アーヴィンドは躊躇わなかった。護衛が止めるのを振り切り、前へ進み出る。人混みは簡単に左右に割れた。安堵と憤りの混じった視線が彼を突き刺し、見送った。
「あなた!」
マクスウェル夫人の小さな叫びは誰かの手によって封じられた。夫の眼差しが人垣を越えて妻を射る。彼女は羽交い絞めにされたままグッと声を殺し、シージャック犯に銃を突き付けられながら廊下の向こうへ消えていく夫の後姿を見届けるしかなかった。
「大丈夫ですよ」
後ろから若い女が囁いた。口を押えていた手を放し、夫人の横顔を覗き込む。
「ご主人はうちの上司が救い出します。奥様のことはあたしが守りますから、安心してくださいな」
ウェイトレスが微笑んでいる。マクスウェル夫人は蒼褪めた顔で頷いた。
夫の眼差しはこの娘と同じことを言っていた。
大丈夫だ、と。
ならば信じるしかない。ケイティー・マクスウェルは腹を決めた。
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