2-5 ハーキュリース少年の初恋

 祭りのような賑わいに見送られ、幾重もの色の筋を靡かせながら、〈エウクレイデス〉号は大西洋への遥かなる航海へ身を投じた。まるで豪邸がそのまま浮いているような巨体を水面に据え、汽笛を高らかに響かせる。


 アーヴィンド・マクスウェルは妻子を先に行かせ、自身はボディーガードを引き連れて乗船した。宛がわれた客室へ向かう途中、制服に身を包んだ客室係が声を掛けてきた。


「お部屋をお探しでしょうか。よろしければご案内いたします」


 アーヴィンドは彼を見上げて微笑んだ。


「ああ、ありがとう。よろしく頼むよ」


 客室係の青年は恭しく荷物を受け取ると先導して歩き始めた。程なくして、特等客室に案内される。船の中とは思えない快適な部屋だ。広さも十分で、大きくて膨らんだベッドと上品な机が一式備え付けられていた。妻子の荷物はあるが姿はなく、二人で見物に出掛けてしまったらしかった。


「お荷物はこちらでよろしいでしょうか」

「ありがとう。そこに置いておいてくれたまえ」

「設備のご案内は?」

「いや、必要ない。もう下がって構わないよ」

「恐れ入ります。では、何か御用がございましたらお申し付けください」


 机を見ていたアーヴィンドは、思い出したように彼を呼び止めた。


「君、ちょっと待ちなさい」


 そう言って青年の手にチップを握らせる。青年は深々とお辞儀をして退室した。


 机の上に小さなメモ書きが置かれていた。


『疑惑あり。引き続き警戒されたし』


 椅子に腰掛け、アーヴィンド・マクスウェルはゆっくりと息を吸い込んだ。

 覚悟はできていた。


***


 エアロンは空いた船室に滑り込み、小銭と一緒に握らされた紙片を広げた。殴り書きのような筆記体で簡潔に用件が述べられている。


「はぁ? 計画変更とか聞いてないんだけど」


 副主任を通さず直接〈アヒブドゥニア〉号とやり取りしたらしい。それは少しばかり面白くなかった。


「ま、いいけどね。さっさと妻子を船長に押し付けちゃった方が、僕の仕事は楽になるってもんだよ」


 夫人と息子を〈アヒブドゥニア〉号に移管するまでの三日間。とにかくその間だけマクスウェル一家を護ればいいのである。


 長い航海が始まった、とエアロンは思った。


***


 少年はベッドに腰掛け、身支度をする母親の後姿を見守っていた。鏡越しに不満そうな顔をして見せるけれど、夜会用の派手な化粧に集中している彼女は気付かない。

 母は形の良い唇に深緋を乗せる。白い肌の中でハッと目を引く色彩は、上下が離れることを惜しむように余韻を残して開いた。唇が花弁のような艶やかさで『命令』を吐く。


「――聞いてるの? ハーキュリース。いいこと? 私たちが帰ってくるまで部屋で大人しくしていなさい。もし帰ってくるのが遅かったら、先にベッドに入るのよ。わかった?」


 少年は曝け出された白いうなじに「べぇっ」と舌を突き出した。すかさず鏡の中の母親が睨む。


「ハーキュリース!」

「ちぇっ」


 いつだってそうだ。

 父さんも母さんも、いつもぼくを置いてけぼりにする。本当に楽しいことからは、いつだってぼくを隔離するんだ。


「……そうだ、ご本を読んでいていいわ。私のバッグの中、本がしまってある場所はわかるわね?」

「えー」

「――ケイト、支度はできたかい? そろそろパーティーの始まる時間だ」


 隣室からをノックして、髭面の紳士が顔を覗かせる。ケイティー・マクスウェル夫人は慌ててハンドバッグに手を伸ばした。


「ごめんなさい、あなた。もう行けます」

「よし。足元に気を付けて。ハーキュリース、いい子にしてるんだぞ」

「はぁい」

「そう不満そうな顔をするな。ダンスパーティーなんてお前には退屈なだけだろう? そうだ、特別に父さんのジグソーパズルを貸してやろう。緑のタグが付いたボストンバッグに入っている。好きに遊びなさい」


 両親は連れ立って部屋を出た。少年はその後姿を苛立ち紛れに見送った。


 なーにがダンスパーティーだ。

 なーにがジグソーパズルだ!


「ふん、オトナばっかり楽しいことしちゃってさ!」


 ハーキュリース・マクスウェル少年はベッドに体を投げ出した。ふかふかの枕に顔を埋める。


 思えばこの旅行も、決して楽しいものではなかった。

 父さんの出張は多々あることだけれども、一緒に連れて行ってもらえるのは珍しかった。始めは新たな体験を期待していたハーキュリースだったが、いざ両親と旅に出ると、楽しいことなんて一つもない。移動中は狭い車内に閉じ込められ、やっと辿り着いたと思えば、施設から出ることを禁じられた。気晴らしにと買い与えられた本も玩具もつまらないものばっかりだ。

 少年の我慢はそろそろ限界にきている。挙句の果てに三週間の船旅だなんて。巨大な船体を見た時は心躍らせたが、乗り込んでしまえば今までの檻と変わらない。その溜りに溜まったが鬱憤が、今回の『お留守番』でついに爆発したのだった。


「へへん。ぼくだって少しくらい楽しんだっていいはずだ。見てろよ。ぼくは独りで冒険してやるぞ!」


 バッと飛び起き靴を履く。興奮気味に部屋を飛び出そうとして、少年はドアノブに掛けた手を止めた。


 待て待て。

 ぼくはこの船に潜入したスパイなんだ――誰にも姿を見られちゃいけないぞ。


 乱暴に髪の毛を振り乱し、シャツをズボンから引っ張り出す。肘上まで腕捲りをして気合を入れれば、エージェント・ハーキュリースはこっそり部屋を抜け出した。


 客室エリアを抜けるまで、姿を見られないどころか多くの乗客とすれ違った。本人は観葉植物の陰に身を潜めているつもりでも、大人たちからは丸見えである。ドレスアップした婦人たちはクスクス笑って通り過ぎ、スーツを着込んだ紳士たちは見て見ぬふりで歩み去った。

 時折話しかけてくる厄介な輩には、少年らしい無垢な笑みでこう答える。


「迷子じゃないよ! トイレ!」


『トイレ宣言』という最強の武器を手に、なりきりエージェントは船内を駆け抜けた。

 

***


 豪華客船は思いの外広い。五階部分を歩き回り、疲れ切ったところで、ハーキュリース少年は独りごちた。


「大体なんだよ、『オトナしか参加できないパーティー』って! どうしてオトナはぼくらを仲間外れにするのかな? オトナだ、コドモだって、みんな最初は子供だったくせに!」


 一体何が違うっていうんだ?

 ぼくだって立派に一人で考えて行動できる。違うところなんて何もない。


「きっとあれだ。子供は体が小さいからって見下してるんだ」


 思わず足を止めて、踊り場の壁を覆う巨大な鏡を覗き込む。こちらを見返す少年は、如何にもご立腹と言った様子で立っていた

 緑の瞳と長い睫毛は母さん譲り。鼻筋と四角い輪郭は父さん譲り。両親から受け継いだ金の髪は自慢だったけれど、ふわふわの猫っ毛は収まりが悪くて、くるんと上に跳ねていた。

 要所に両親の面影を垣間見ても、やはりそこにいるのはただの小さな少年で。体の大きなオトナには、どうしても同等には見てもらえない。


「背だって、クラスでは大きい方なんだけどな」


 父さんみたいに口髭を生やそうか――不思議なことに、まだぼくには生えてこないのだけれど。

 背後で足音が鳴り響き、少年の思考は打ち破られる。下の階から誰かが上って来るようだ。ハーキュリースは慌ててその場から離れた。


 次に少年が迷い込んだのは、三階の娯楽エリアだった。機械室が近いのか、蓄音機から流れるわざとらしい音楽に紛れて低いモーター音が一層大きく響いている。シアタールームは残念ながら閉館中。カジノスペースは『未成年立ち入り禁止』と書いてあった。


 しまった、こんなエリアに来るんじゃなかった。


 途端に人の往来が増え、少年に気付く大人の数が増えた。すれ違った客室係に三度目の道案内をされそうになった時、ついにハーキュリースは近くの部屋に逃げ込んだ。

 廊下の喧騒が嘘のように静まり返った部屋だった。ここでは音楽さえ身を潜め、心地よい沈黙を部屋全体で抱え込む。適度な温もりとよく知る匂いを感じたこの部屋は――図書室だ。


「……誰? 誰かいるの?」


 てっきり無人だと思っていたハーキュリースは飛び上がって驚いた。サッと振り返るも、そこに人影はない。

 小鳥のように響く声の主を探して、少年は書架の間を歩き回った。


「……あ」


 本棚の前に蹲るようにして、小さな女の子が本を読んでいた。歳は少年と同じくらいだろうか。ふわりと顔を包んだ髪は金色で、サイドをリボンで縛っている。その髪の下では海の色をした大きな瞳が不思議そうに輝いていた。少女が手をついて身を起こすと、白いセーラー調のワンピースが花のように広がった。


「お兄ちゃん、だぁれ?」


 淡い金髪が揺れる。ぽかんと口を開けた少年を少女は首を傾げて仰ぎ見た。


「……ぼ、ぼくはハーキュリース・マクスウェル」

「は、ふ、アーキュ……?」

「なっ、長いからヘルって呼んで!」

「える?」

「ヘルだよ、ヘル!」


 少女は何度かダメ出しをされながら、なんとか彼の名前を正しく発音できるようになった。


「ルチア・フォンダートっていうの」


 ルチアはにっこり微笑んだ。あどけない笑顔は愛らしく、少年は無意識に顔が熱くなるのを感じた。


「へ、へえ。どこから来たの?」

「ナポリ。んとね、イタリアだよ」

「イタリア人なの?」


 ルチアは困った顔をした。


「わかんない。でも、たぶん違うよ。フランスに住んでたもの」

「フランス人……英語上手だね。勉強してるの?」

「うん! 船長さんに教えてもらってね。まだあんまり読み書きはできないんだけど……」


 ヘルは驚いた。


「船長さんって、この船の?」

「ううん。〈アヒブドゥニア〉号の」

「……なぁに、それ」

「えっと、海にいるナントカの名前なんだって。前教えてもらったんだけど、忘れちゃったなぁ」


 ルチアは「うーん」と声を上げて記憶を辿った。その動作一つ一つに少年の目は釘付けになる。

 直観的に、この少女は特別だと思った。いつも内緒話でクスクス笑っているようなクラスの女の子たちとは違う。落ち着いた物腰から醸し出される雰囲気は柔らかで、かつ神秘的に感じられた。

 きっとこの子は自分とは違う人間なんだ。自分とは違う世界で、自分とは違う人生を送るような――。


「ねぇ、ルチアって何歳?」


 俄然彼女に興味が湧いて、ヘルは向かいに胡坐を掻いた。


「えっとねぇ、六歳。もうすぐ七歳になるよ」

「ろ、六歳!?」


 三つも齢が離れているなんて。華奢な体は確かに幼かったけれど、その仕草はびっくりするほど大人びていて、とても年下には見えなかった。


「ヘルは?」

「えーっと、九歳」


 二人の歳の差を痛烈に意識しながら少年は答えた。


「ワン、ツー、スリー……」


 ルチアは習いたての英語を指を折って数えると、両手がいっぱいになる直前で歯を見せて笑った。


「九歳なの。それじゃあヘルの方がお兄ちゃんだね」

「う、うん」


 少女に笑い掛けられる度になぜだか顔が熱くなる。いつもの調子が出せなくて、ハーキュリースはもじもじと体を捩った。そんな少年の心境を知る由もなく、ルチアは傍に放ってあった革表紙の本を広げて指差した。


「あのね、ヘルは辞書の使い方、知ってる?」

「辞書? 何の辞書?」

「んー……フランス語を英語にする辞書。わかんない言葉があるから、なんて言うのか調べたいの」


 ヘルはルチアから仏英辞典を受け取った。ちらりと中を覗けば、訳のわからない言葉の羅列がびっしりとページを埋めている。正しく使える自信はなかったが、いいところを見せたい一心で見栄を張った。


「何を調べたいの?」

「la blessure」

「え?」

「うーん……」


 ルチアは少し考える素振りを見せた後、おもむろにワンピースの袖を捲った。手首から肘の付け根まで、細い腕を覆う真新しい包帯。ヘルはハッと息を呑んだ。


「怪我したの?」

「怪我?」

「うん、injury」

「そうなの。ちょっと待ってね……スペル、教えてくれる?」


 ルチアはまた一冊本を広げた。今度は布張りの本で、よく見れば何も書いていない。ヘルは鉛筆を受け取り、困惑した表情を浮かべた。


「ここに書くの?」

「うん、お願い」


 言われるがまま、ヘルは『怪我』のスペルを書く。ルチアはそれを確認すると、横に今日の日付を添えた。


「これね、あたしの日記帳なの。オリヴィエおばあちゃんに買ってもらったんだ。毎日書いてるんだよ。いろんなこと、忘れないように」


 その笑みが妙に印象的で。ヘルは無理矢理視線を逸らし、ぶんぶんと首を振った。


「そっか。それで『怪我』を調べてたんだね。どうして怪我したの?」

「うーんとねぇ……熱いお湯掛かっちゃったの」

「熱いお湯?! それは大変だったね……可哀相」

「うん。まだちょっとズキズキするの。でも、もう大丈夫だよ」


 ふと、しゃがんで捲れたハーキュリースの太腿に目を留めて、ルチアが白いサポーターのような物を指差した。


「それ……ヘルも怪我してるの?」

「ああ、これ?」


 ヘルは身を捩って太腿を前に出すと、帯の端をもどかしげに弄った。


「なんか悪いものができてるからって、お医者さんで取ってもらったんだ。麻酔で太い注射刺したけど、ぼく泣かなかったんだよ!」


 えっへん。

 少年は胸を張り、少女の称賛を受けた。


「わぁ! ヘルはすごいんだね。あたし注射は好きじゃないな。痛いし、怖いし……」

「うん……でも、男は簡単に泣いちゃいけないって、父さんに言われてるからさ」

「そうなんだ。ヘル、かっこいいね」


 にこりと笑うルチア。得体の知れない感覚が胸を打ち、少年ハーキュリースは思わず息を詰まらせた。

 ルチアが時計を見遣る。


「あっ。そろそろ行かなくちゃ」

「えっ、もう?」

「うん。エアロンお兄ちゃんと約束してるの。ヘルはどうするの?」

「ぼ、ぼくはもうちょっと探検する……」

「そっか。それじゃあまたね、ヘル」


 ルチアは日記帳を手に立ち上がった。ヘルも慌てて姿勢を正す。


「またねっ! また遊ぼうね!」

「うん。ばいばい」


 ふわりと広がるスカートの裾を視界に残して少女は走り去った。残された少年は呆然と床に座り込み、急激に赤くなっていく顔を手で覆った。


「か、可愛かった……」


 本物の天使かと思った。

 いやいやいや、妖精かもしれない。


 一向に静まる気配のない胸の鼓動を聞きながら、ヘルはある事実に行き当たる。


「まさかこれは……っ」


 恋だっ。


「どどどどうしよう……?」


 普段は映画ばかり見ており、年上好みのませた少年だったが、今度ばかりはいつもと何もかもが違っていた。逆上せた顔は赤みが増すばかりだし、心臓は今にも破裂しそうなほど高鳴るし――瞼を開けても閉じてもチラついてしまうあの子の笑顔が、眩いばかりに輝いていた。


「ルチア……また、会えるかな……」


 船が大西洋を渡りきるまでにもっと仲良くなりたかった。彼女のことをもっともっと知りたかった。

 ルチアから受けた『神秘的な』印象が、ここで別れたら二度と再会できないと告げていた。

 船がボストンに着いたら、彼女はどこに行くのだろう。名前だけで探し出すことなんてできるのだろうか。その後はイタリアに帰ってしまって――もう、会えないかもしれない。


 そう思った時には、ヘルはルチアの後を追って廊下へ飛び出していた。


「ルチア……っ!」


 呼び掛けた声は虚しく響く。ルチアは既にそこにはいなかった。


「諦めないぞっ」


 探そう。

 きっとまだ遠くへは行っていないはず。


 ハーキュリースは駆け出した――が、次の瞬間、角を曲がってきた人物と衝突した。


「ったぁーい……」


 盛大に尻餅をつき、蹲る少年。

 その上に長い男の影が落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る