2-4 計画の変更

 エアロンの船室がノックされたのは、深夜を過ぎてからだった。そっと扉を開ける。マチルダの黒い瞳が見上げていた。


「ああ、ご苦労様」


 マチルダがするりと中に滑り込む。


 部屋の電気は消えており、小さな卓上照明だけがぼんやりと室内を照らしていた。男性用の香水にありがちな爽やかな香りが漂っている。他の船室と違わぬ狭い部屋だが、ベッドが二つ詰め込まれており、一つには小さな女の子が寝息を立てていた。

 エアロンはマチルダにベッドを指し示し、自身はそれまで作業をしていたらしい机に収まった。卓上には〈エウクレイデス〉号の船内図や乗客名簿が散らばっている。


「初日を終えて、どうかな」

「まだ何とも言えないですね。思ったより悪くない仕事だわ。お客もスタッフもお上品で。酒が出る所には必ずスケベオヤジがいるもんだけど、ここのはお上品なスケベオヤジよ」


 マチルダは脚を組んで座ると、大きく開いた胸元から棒付きキャンディーを取り出して舐め始めた。エアロンにも一本投げて寄越す。


「誰か気になる奴はいた?」

「うーん、あんまり。ちょっとでも気になった人を挙げるとすれば、船酔いでぐったりしている宣教師、取り巻きを連れた超絶金持ちそうなマダム、手癖の悪いスケベ紳士、豪華客船には場違いな階級の男たち……」


 エアロンは興味なさそうに頬杖をついて聞いていた。


「スタッフの方は?」

「ギャレーとホールのスタッフはみんな良い人よ。あたし以外にも今便から働き出した子は沢山いるけど、船に乗る前はみんな似たり寄ったり。学生だったり、飲食店だったり、ホテルだったりって感じですね。裏がありそうな子はいなかったなぁ」


 ただ、とマチルダは飴を唇に押し当てて考え込む素振りを見せる。


「ちょっと無愛想な一団がいるんですよね。あまり他のスタッフとつるまなくて、あたしが話し掛けても素っ気ないの。めちゃくちゃ感じ悪いわ」

「へえ。マディに靡かない男もいるんだねぇ」

「そうそう、中でもとびっきり嫌な奴がいたの! 聞いてくださいよ、ヴィンセントって言うんだけど――」


 マチルダは迷子中に出くわした客室係の話をした。その青年に腹を立てたこと、顔はちょっと好みだったこと、彼がチーフパーサーの船室付近から現れたこと。


「変だなって。チーフパーサーって、ホテルでいう支配人みたいな人ですよね? 今日みたいな大事なパーティーの最中に、自室で休んでるわけないと思うんだけど」

「考えすぎじゃない? ちょっと、睨まないでよ。そんなに言うなら見てみようか」


 エアロンは乗組員の名簿をマチルダに見せた。仕事の部門と階級ごとに並べられており、ヴィンセントという名前は確かに客室係の欄に載っていた。


「とりあえず、船の乗組員であることは確かだね」

「あいつ、絶対怪しいですよ。賭けてもいいわ」

「その根拠は?」

「女の勘よ」


 エアロンは心底呆れた顔をした。対するマチルダは至って真剣な顔で、話を聞かない上司に飴を突き付けて抗議する。


「もうっ、副主任! あたしの勘は当たるんですからね! ああいうちょっと影のあるハンサムな男は、何かしら悪いことしてるって相場が決まってるんだから」

「わかったから、ちょっと声を抑えてくれる? ルチアが起きちゃう……ああ、ほら」


 小さな呻き声がベッドから漏れた。慌ててマチルダが口を押さえて振り返るが、既に少女は眠りから覚め、ゆっくりと体を起こしていた。


「んん……エアロンお兄ちゃん? どうしたの?」


 見事なトゥヘッドの髪に青い目を持つ愛らしい少女だ。幼いながらもはっきりとした目鼻立ちは将来の美貌を予感させ、無垢な眼差しは絵画から抜け出してきた天使のよう。ルチアは眠そうに目を擦りながらエアロンを見た。


「ごめんね、ルチア。マディがやかましくって」

「ううん。お水飲みたいの」


 ルチアはもぞもぞとベッドから這い出した。エアロンが水を汲んでやろうとするが、生憎水差しは空だった。


「あれれ。ごめん、入ってないや。マディ、もらって来てくれる?」

「はいはい、喜んで」


 マチルダは水差しを受け取ると軽い足取りで廊下へ出て行った。

 エアロンはルチアに向き直った。


「退屈してないかい?」

「大丈夫だよ。ご本持って来てるから」

「偉いね。ロンドンを出港したら少し出歩かせてあげられると思うよ。この船、〈アヒブドゥニア〉号より大きいでしょ? 図書室まであるんだ」


 エアロンに頭を撫でられて、ルチアは嬉しそうに目を細めた。


***


 その少し前のこと。

〈アヒブドゥニア〉号の船長は甲板から埠頭を見下ろしていた。


〈アヒブドゥニア〉号は予定通り〈エウクレイデス〉号より先にロンドンに着き、明日からの航海に備えていた。船員たちは殆どが街へと繰り出している。残っているのは船長と航海士ミナギ、それから早々に酔い潰れて船に強制送還されてきた者たちだけだ。


 船長が気にしているのは一台の車だった。灯りを落とした埠頭の闇に溶け、黒い車が音もなく〈アヒブドゥニア〉号の前で停車する。助手席から男が先に降り、恭しく後部座席のドアを開けた。降りてきたのは金髪の男。彼はこちらを仰ぎ見た。


 数分後、船長は〈アヒブドゥニア〉号の客室でアーヴィンド・マクスウェルと対峙していた。船長の後ろにはミナギが、アーヴィンドの後ろには護衛が一人控えている。

 アーヴィンド・マクスウェルは船長に握手を求め、自分が今回の依頼主であると挨拶した。


「エアロンくんにはいつも良くしてもらっています。この度はお世話になります」

「こちらこそ」


 船長は短い返答だけで、後は相手が喋るに任せた。


「お名前を伺っても?」

「……リコ・メリライネンだ」


 船長はしれっと偽名を吐いた。ちなみに、リコ・メリライネンはエアロンが事務処理上勝手につけた名前であり、彼自身はできるだけ使わないようにしている。


「どうぞよろしく、メリライネン船長。実は計画の一部変更を考えておりまして。事前に顔合わせもしておきたいと思っていましたので、こうして伺った次第です」

「内容を聞こう」

「〈エウクレイデス〉号はロンドン出港後三日目の晩に、一時的にエンジンを止めます。その際に、私の妻子を〈アヒブドゥニア〉号に乗り換えさせ、ボストンまで送り届けてほしいのです」


 船長はちらりとミナギを振り返った。航海士は明らかに怪訝そうな顔で頷いている。船長はアーヴィンドに向き直った。


「承知した……が、変更の理由と、いくつかの質問に答えてもらえるだろうか」

「もちろん。私が運ぶ機密文書を狙っている輩がいることはお聞き及びでしょう。どうやらその連中が、我々が〈エウクレイデス〉号を利用することを嗅ぎ付けたらしいのです。何としてでも家族の安全は守りたい。だから、途中で家族だけでも避難させたいというわけです」

「あなた自身は?」


 アーヴィンドは肩を竦めた。


「私は〈エウクレイデス〉号に残ります。私さえいれば、家族に矛先が向くことはないでしょうから」

「〈エウクレイデス〉号が三日目の晩に停止するというのは間違いないだろうか」

「ええ。〈エウクレイデス〉号の船長とは話をつけてあります」

「では、エアロンには?」


 調停官が一瞬言葉を詰まらせる。船長はその間を見逃さなかった。


「……知らせていないのか」

「何分今日になってわかった情報でしてね。急な計画変更で、彼に伝える術がなかった。だが、もちろん、明日〈エウクレイデス〉号に乗船したら彼にも話しますよ。追加の費用のことも、その時相談しましょう」


 青の視線は鋭かった。迎え撃つ暗褐色は酷く落ち着いていて、何か揺るぎないものを秘めている。しばらくの沈黙ののち、船長は小さく答えた。


「……わかった」

「ありがとうございます。航行中の〈エウクレイデス〉号との連絡は無線で行いましょう。それでいいですね?」

「問題ない」


 話が終わると、アーヴィンドは長居をせず立ち上がった。別れ際にもう一度握手を交わす。


「では、よろしくお願いします」

「ああ」


 車は去って行った。

 いつの間にか隣に立っていたミナギが、心配そうに船長を見る。


「案の定、きな臭いことになりましたね」

「そうだな……ルチアも同じタイミングで〈アヒブドゥニア〉号に乗せる」

「やっぱり真っ先に考えたのはそのことですか」


 船長が黙ってミナギを見るので、彼はニヤける顔を背けた。


「明朝一番で船員たちに計画の変更を伝える」

「今すぐ呼び戻さなくていいですか?」

「いい。今晩くらい自由にさせておけ」



 

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