2-3 ウェイトレスの苦労
通用口を盛大に開き、盆を掲げたウェイトレスが入ってきた。上品だが丈の短いペンシルスカートを履きこなし、ハイヒールが一歩歩くたびにフリルが揺れる。形も露わな尻の丸みに集まった視線を一睨みで散らしながら、彼女は喚いた。
「あのスケベオヤジ! なんであんなのに愛想振り撒かなきゃいけないの? いやんなっちゃうわ!」
すかさず調理係の下っ端が駆け寄り、彼女の手から空のグラスで一杯の盆を受け取る。流れるように次のドリンクが乗った盆が彼女の前に現れ、パティシエが彼女の機嫌を直すため小さなタルトを差し出した。
「そんなもんだよ、マチルダ。でも、君なら上手くあしらえるんだろ?」
「もちろんじゃない。ウェイトレスの必須スキルよ」
早速ペロリとそれを平らげ、ウェイトレスはねだるように彼に向って口を開けた。ルージュを引いた唇は飴細工のようにぷっくりと輝いており、若いパティシエは誘われるがまま、その中へチョコレートを差し入れた。
「んー、美味しい! あたしたちホール係はこーんなに頑張ってるんだから、戻ってきたらきっともっと素敵なご褒美を用意しておいてくれるでしょ? ね?」
まん丸の黒目がいたずらっぽくウィンクを飛ばす。野郎どもは「もちろんさ」と惚け気味に答えた。マチルダはプレートの上から更にいくつかのチョコレートを掠め取ると、入れ違いで入って来たウェイトレスの口に放り込んだ。クスクス笑いが口から洩れる。
「んもぅ、マチルダ! いきなりやめてよ!」
噎せつつも楽しそうな声に追い出され、マチルダは羽ばたくようにホールへと舞い戻った。
シャンデリアの煌めきが、彼女の黒髪に光の輪を落とす。シャンパン色の照明が取り巻くホールの中心では、大勢の男女がダンスに興じており、色鮮やかなドレスが大輪の花を咲かせていた。机には目も舌も楽しませる料理の数々が並び、ウェイトレスが飲み物を配り歩いている。マチルダは同僚たちに倣い、談笑する人の群れにするりと潜り込んだ。
ポルトを出港した晩から〈エウクレイデス〉号の酒宴は始まった。これから最終目的地のボストンに至るまでの三週間弱、毎晩この宴は続くのだ。
乗客たちは連日連夜のパーティーの他、ミニカジノやシアター、あらゆるパフォーマンスが楽しめる。また、数日おきに世界各国の文化をテーマにしたイベントも計画されているという。今日は航海初日の夜ということもあり、特に豪華な催しとなっていた。
マチルダは人々の間を回りながら、乗客の特徴を一人一人頭に叩き込んでいた。目は彼らの顔付きや服装から情報を得、耳は会話の断片を拾い集める。今は何かを探しているわけではない。ただ、こうして集めた情報が、後々きっと役立つであろうことをマチルダは知っていた。
「エジプトはいいですよ。ピラミッドを見ずに死ぬなんて……」
「ツェツィーリアの新しい演目はご覧になりまして? 彼女は本当に素晴らしく……」
「まったく船とは忌々しい。早く電磁波を恐れない飛行機が開発されないものか……」
「また宝石泥棒が出たそうですよ。ええ、いつも同じ手口とかで……」
「彼は将来有望です。何しろまだ二十歳そこそこだそうだ! 彼の論文を読みましたが、電磁波災害の……」
「あっ!」
マチルダはサッと身を翻した。ニヤニヤ笑う老人と対峙する。その顔を全力で睨み付けたが、相手は悪びれもせず口髭を捻った。
「ムッシュー!」
「やれやれ、鮮やかだね、お嬢さん。猫のようにすばしこい」
「伊達にこの仕事やってないのよ。ムッシュー、いきなり女性の腰に手を回そうとするのは失礼なことだってご存知なかった? それとも偶然だって言い訳をなさるかしら?」
「いいや、紛うことなく、己の卑しい下心のために手を出したとも。君があまりに魅力的な腰付きをしているんでね。明らかにこの船のウェイトレスの中では群を抜いている」
マチルダは不快な気持ちを隠すことなく態度に表した。
「あなたにとって魅力的であろうとなかろうと、失礼なことをしていい理由にはならないわ。女の子を舐めないでくださる?」
意外にも男はしおらしく目を伏せ、謝罪のために腰を折った。
「お嬢さんの言う通りだ。この哀れな老いぼれを許してくれるかい?」
「あら……いいわ。もちろんよ」
素直に謝られたので面食らってしまったが、マチルダは和解の印ににっこり笑ってみせた。
改めて見れば、意外にも品のある紳士のようだ。服装が上等なのは乗客すべてに言えることだが、特に身嗜みには気を遣っているらしい。清潔感があるところに好感が持てた。
「あたしこそ、きつく言って悪かったわ。あなたで三度目なんですもの、ムッシュー。それも今晩だけでよ」
「ふむ。君のチャーミングさに抗えないのは、私だけではないということだ。お名前を伺ってもいいかな? マドモアゼル」
「マチルダよ」
「覚えておこう。ルームサービスを頼む時に、君を指名したくなるかもしれないから」
男はそう言うとマチルダの盆からグラスを取り、すれ違い様に尻を撫でて去っていった。キッと振り返って睨み付けるも、小柄な後ろ姿は既に人の波の中に消えている。
「何よ、あのおっさん! 全然反省してないじゃない!」
一瞬でも気を許しそうになったことが余計に腹立たしい。マチルダはプリプリ尻を振りながらバックヤードに避難した。ロッカールームで上着とハンドバッグを引っ掛ける。
向かうのは後部甲板だ。乗客たちの視線から解放された星空の下、ニコチンを思う存分摂取したい。マチルダはなかなか重度の喫煙者であった。
乗組員用通路を抜ける。
船内はそこまで複雑な造りではないはずなのだが、どこも景色が似通っていて迷いやすい。マチルダも二日前にこの船に乗ったばかりで、まだ全体の構造を把握できていなかった。
手近な廊下を船尾方向だと思って直進したところ、乗組員の居住エリアに出てしまった。扉が狭い間隔でずらりと並んでいて、それぞれ乗組員の名札が付いている。この階は客室係たちに割り当てられているらしい。ということは、船首側だ。間違えた、と彼女は小さく舌打ちをする。
マチルダは暫く立ち止まって考えていた。とにかく、どこからでもいいから外へ出て、外部デッキを回り込んで船尾に向かった方が確実だろうか? 嗚呼、煙草が吸いたい……。
進む方向を決めて一歩踏み出した瞬間、廊下の角を曲がってきた青年と鉢合わせした。
「わっ」
驚いて飛び退る。相手もかなりギョッとしたらしく、目を見開いて彼女を見たが、すぐに苛立ち混じりの表情へと変わった。
「あら、ごめんなさい」
「こちらこそ……ウェイトレスがなんで今ここにいるんだ?」
見たところ、彼が着ている制服は客室係のものだ。だから、今の時間がまだパーティー中なのを知っていて、ウェイトレスがうろついていることを不審に思ったのだろう。マチルダは得意技である媚びた笑みを浮かべ、サボっていることを誤魔化そうとした。
「ちょっと休憩しようとしたら、迷子になっちゃったの。この辺りで煙草を吸えるところはないかしら?」
「部屋で吸えばいいだろ」
「あたしの部屋は禁煙なの。ルームメイトがダメって言うんだもん」
マチルダは名札を見た。
「ねえ、ヴィンセント? よかったら、外部デッキまで連れて行ってくれない? お礼に煙草を一本あげてもいいわ」
神はマチルダに圧倒的な造形美こそ与えなかったが、飛び切りチャーミングな笑顔をプレゼントした。笑窪が目立つ無邪気で甘えたような笑みを見て、心を溶かさない者は老若男女まずいない、と自負している。
ところが、青年はマチルダの顔を一瞥すると、鼻を鳴らして通り過ぎてしまった。
「まっ! なぁに、あいつ!」
感じ悪いことこの上ない。鼻筋が通っていて顔は少し好みだったけれど、次会ったら絶対に冷たくあしらってやろうと心に決めた。
先程の乗組員を追い掛けたくなかったので、マチルダは彼が来た方向へ進むことにした。が、角を曲がって困惑してしまう。部屋が二つあるだけで行き止まりだ。正確には正面に扉が一つあるが、操舵室へ向かう階段に繋がっているはずなので、外部デッキには出られない。
また見当が外れて反対へ来てしまった――と、マチルダは首を傾げる。
あのムカつく乗組員はどこから来たのだろう?
ここから先は主に航海士たちの縄張りだ。または、船長やパーサーといった上級職の居住エリア。一介の客室係に用があるような場所ではない。もちろん、船内には彼女の知らない仕事も当然沢山あるだろうけれども。
出来心で廊下の先へ進んでみた。扉の先はやはり階段だけだった。上は操舵室方面へ、下はギャレーや貯蔵庫へ繋がっている。手前の扉二つはどちらも乗組員の部屋だ。その内一つはチーフパーサーの部屋。
「ふぅん……」
マチルダは思案気に廊下を振り返った。
とりあえず、どうやって迷子から抜け出そうか。
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