2-2 〈アヒブドゥニア〉号

 生温い潮風が汗ばむ額を掠め、貼り付いていた髪を吹き上げた。その一瞬、靡く頭髪に藍色の輝きが走る。

 パラパラと独りでに捲れた紙束から数枚が空に舞い、海鳥の如く白い翼を羽ばたかせていった。反射した日差しが海面に散り、飛沫と共に波間に消える。その一枚を飛び上がって掴む若者を横目で見ながら、藍色の男はクロスワードの升目を埋めた。


「船長!」


 若者は腹立たし気に声を張り上げた。汗でずり落ちた眼鏡の向こうから、暗い緑の瞳が覗く。息子ほど歳の離れた航海士に叱咤され、〈アヒブドゥニア〉号の船長は渋々デッキチェアから腰を上げた。


 彼を見た者の多くが、まるで海を体現したような男だと言う。それは鋭い青の眼差しのためかもしれないし、彫刻のような顔立ちためかもしれない。彼の纏う色は確かに海の色だった。浅瀬の澄んだ色ではない。大洋の果てなき水平線を彩る、深い、深い青。

 彼と同じ青を背に、商船〈アヒブドゥニア〉号はロンドンへ向け航行している最中だった。


「紙はしっかり留めておいてくださいって、何回言ったらわかるんですか?」


 航海士ミナギは拾い集めた紙束を船長の胸に押し付けるなり、噛み付くように説教を始めた。対する船長は明らかに反省する気がなく、無表情で部下を見下ろしている。もっとも、彼が表情らしい表情を見せたことはないのだが。常に不動の無表情を仮面のように被っている。


「何かあったのか」

「ええ、まあ。副主任からあなた宛てに無線が入ってます」


 副主任、という単語を言う際、ミナギは更に不機嫌になったように見えた。船長は「そうか」と答え、自室へと足を向けた。


〈アヒブドゥニア〉号は三本のマストを携えた最新鋭の機帆船だ。白い船体は錆もなく輝いていて、切れ上がった舳先や紡錘形の船体が見事な曲線美を見せている。

 昨年造船されたばかりのこの船は、板張りのデッキをはじめ、持ち主のこだわりが随所に見られた。そのうちの一つが、旧〈アヒブドゥニア〉号――完全木造のやや時代遅れな船だったが――から移転させた船長室である。

 扉を開ければ、そこは旧式の木造船室そのままであった。部屋を飾るのは交易の最中に出会った一級の調度品の数々。近頃特に古物商染みてきた船長が、わざわざ手元に残した選りすぐりだ。家具に合わせて壁も天井も木の内張がされており、床には落ち着いた色調のペルシャ絨毯が敷かれている。


 無線機は書き物机の隣、低い本棚の上にあった。電源を入れて周波数を合わせる。間もなく馴染み深い声が流れてきた。


『せんちょー? ……ん? 応答したかな?』


 このやや弾んだ人の神経を逆撫でる話し方は、間違いなく茨野商会の副主任、エアロンである。船長は機械的に――だが一瞬嫌がるような間を開けて――応答した。


「……私だ。待たせてすまない」

『本当だよね。今ちょっといい?』

「構わない」


 経験上、エアロンの話は無駄に長い。船長はこれからの長丁場に備えてグラスに赤ワインを用意した。


『そろそろポルトを出港するよ。今どこ? 予定通り行けるだろうね?』

「問題ない。〈エウクレイデス〉号より一日早く着いている予定だ」

『よしよし。もしできそうだったら、港で不審な奴らがいないかそれとなく聞き込んでおいてほしいんだけど』

「わかった」

『それじゃ、計画のおさらいといこうか。もっとも、何事もなければ、あんたたちはただ海の上でプカプカしてるだけでいいんだけどね。ホント、僕だけ仕事重くない? で、まず――』


 無線機が赤色のランプを灯して喋り倒すのを聞き流しながら、船長はワイングラスに口を付けた。かなりの頻度で挟まれる愚痴にも、慣れているので動じない。エルブールでの事件によって、エアロンがかなり参っていると聞いていたのだが、それは真っ赤な嘘だったらしい、としみじみ考えていた。


『――と、言うわけで、オーケー?』

「ああ」

『おい、おっさん。あんた、ちゃんと話聞いてなかっただろ』

「ああ」

『はー????』


 憤慨したエアロンが無線機越しに抗議の声を上げる。それを適当なタイミングで遮って船長は尋ねた。


「〈エウクレイデス〉号に乗船するのはお前一人だけか?」

『あ? いや、マチルダが一緒。彼女と仕事したことあったっけ?』

「ない……と思う」

『マディはうちで雇われてまだ三年だからね。元気で刺激的な……なんていうか、とにかくグイグイ来る女の子だよ』


 船長はできるだけマチルダとは会わないようにしようと決めた。


「今回はグウィードは参加しないのだな」

『うん。あいつは主任に別の仕事を頼まれてどっか行ってるよ。代わりにルチアを連れて来たから、仕事が終わったらそのまま〈アヒブドゥニア〉号に乗っけてってあげてね』


 続く言葉は何食わぬ風を装っていたが、そこに不自然さを感じたのは気のせいではないだろう。それを聞いた船長は僅かに目を見開き、持ち上げたグラスを机に乱暴に戻した。


「……なんだと?」

『だ、か、らぁー、ルチアだよ。あんたの娘でしょ?』

「娘ではない」


 反射的にそう返す。傍目には視線以外の変化は見られないが、船長は遺憾に思っているらしく、語気が僅かに強さを増した。


「ルチアを〈エウクレイデス〉号に乗せると言うのか? クライアントの言うことが正しければ、その船には調停官を狙うテロリストが乗船している可能性があるのだろう。そんな危険な場所にルチアを連れて行くなんて――」

『大丈夫だって。狙われてるのは調停官だもん。船に乗っているだけなら問題ないさ』

「ある。そもそも――」

『ふん。もう連れてきちゃったんだからどうしようもないでしょ。今さらこの子一人でナポリまで返せって言うの? それとも港に置き去りにする?』

「〈アヒブドゥニア〉から人を出し、ナポリまで送り届けさせる。もしくはロンドンでこっちの船に乗り換えさせる」

『くっどいなあ!』


 明らかに船長の懸念は正しいと思うのだが、エアロンは全く悪びれる様子もない。むしろ、無線機越しの声は苛立っているのか段々と高くなる。終いには、船長に喋ることを許さず、一方的に捲し立てた。


『乗船し次第出航なんだ、そんなやり取りしている時間ないんだよ。別にいいでしょ? ルチアだっていつかは茨野商会で働いてもらうことになるかもしれないし、色んな現場を経験させるのは悪くないはずだ。あの子だって、仕事が終わればあんたに会えるって喜んでたし? 育児放棄して海に出っ放しの奴が今更何言ってるの?』

「……いや」


 痛い所を突かれてしまい、船長は口籠る。その様子を察したのか、エアロンは語調を心なしか柔らかくして付け加えた。


『……ま、心配ないって。何かあっても僕やマチルダがいるし、なんだったらあんたが駆け付ければいいだけでしょ? ね?』


 納得はいかないが、受け入れるしかない。これ以上ごねても副主任はどんどん機嫌を損ねるだけで、最終的には「上司命令だ」と突っ撥ねるに違いない。お決まりのパターンを身を以って知っている彼は、溜息を押し殺すことしかできなかった。


「……わかった」

『それでいい。じゃあ、次はロンドンに着いたら連絡を入れるね』


 通信は終わった。船長はグラスのワインを一気に空けると、背凭れに身を預けて長く息を吐き出した。


 ルチア・フォンダート。

 娘、と言うのは若干の抵抗がある。ルチア・フォンダートは彼の血の繋がった娘ではない。更に言えば、戸籍上の繋がりもないから、義理の娘とも呼べなかった。


 そもそも〈アヒブドゥニア〉号の船長には戸籍がない。彼にはこの十年より前の記憶がないため、自分の国籍も年齢も名前すらわからないのだ。


 だから、偶然にも彼女がマフィアの抗争に巻き込まれていたのを助けてしまった時、孤児の彼女を養子にとってやることはできなかった。ルチアはリベラトーレ・フォンダートという架空の男の娘になった。以後、ナポリ郊外に住まわせながら、〈アヒブドゥニア〉号の船長と彼が懇意にしている古物商が面倒を見ている。


 ルチアに会えるのが嬉しくないわけではない。航海が続くと、なかなか会いに行ってやれないことを申し訳なく思う気持ちもある。しかし、今度の任務が何事もなく終えられるとは考えられなかった。


〈アヒブドゥニア〉号の船長は、船室を出て食堂に向かった。食事の時間でない今は談話室代わりになっており、ワッチに当たっていない船員が飲酒やカードゲームに興じている。彼らは船長を見るなり姿勢を正した。


「誰を探してるんです?」

「ジャンルカ」

「あ、オレですか。はいはい」


 無精髭を生やした逞しい船乗りが立ち上がる。日焼けた肌に白い歯が眩しい。年齢層が比較的若い〈アヒブドゥニア〉号において、彼はそこそこ年長者に見えた。


「銃火器の準備状況はどうだ」


 それ聞いて船乗りたちの表情が変わる。緊張半分、興奮半分といったところだ。

〈アヒブドゥニア〉号の武器庫番は鼻を擦りながらニッカリ笑った。


「万端ですよ。で、やっぱり戦うんですか?」

「わからない。だが、念には念を入れるべきだろう。何か不足があればロンドンで買い入れておけ」

「はい、船長」


 甲板に戻る。

 航海士ミナギが待っていた。


「予定に変更はありませんでしたか?」

「ああ。だが……ルチアがいる」

「はっ?」

「エアロンが連れてきたらしい。帰りはこの船に乗せる」


 若い航海士は腑に落ちない顔で船長を見ている。


「……何も言うな」

「言ってませんよ。まあ……何も起きないといいですね」


 無理な相談だ。それは発言したミナギ自身にもわかっているらしい。


 名前のない男は舳先を見遣る。薄く靄が掛かった海の彼方に陸が黒い染みのように見えていた。


 ロンドンは遠くない。

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