第2章「海原の英雄」

 2-1 マクスウェル調停官からの依頼

 〈ホテル・グランシエスタ〉のロビーに一人の青年が入ってきた。

 すらりとした長身は、駆け寄ってきたポーターより頭一つ分高く、身のこなしは猫のようにしなやかだ。服装も高級ホテルに相応しく洗練されていて、磨き上げられた革靴にシャンデリアの明かりが映り込んでいる。ポーターを軽く受け流し、吹き抜けを見上げる視線は鉛色。淡い橙の照明の中で、唯一冷たい金属の光を放っている。


 彼は二階のラウンジへと足を向けた。ラウンジは踊り場の反対側に位置し、吹き抜けからは豪華絢爛のエントランスが、突き当りの大窓からは庭園の眺望が楽しめる。ロビーから響くピアノの生演奏が静かに会話を掻き消していた。


 待ち合わせの名前を告げると端の席に案内された。約束の相手は既に席に着いていて、彼を見ると立ち上がって迎えた。二人は笑顔で握手を交わす。


「お久しぶりです、アーヴィンド」

「エアロンくん。変わりないかね? エルブールは大変だったと聞いているが」

「そりゃあもう。聞いてらっしゃる通りですよ。町長は殺され、電磁波災害が起き、挙句の果てに僕には殺人の容疑が掛けられています」

「エルブール警察は無能らしい。私ならすぐにでも君を逮捕するよ。あの田舎町に君以上に胡散臭い人間がいるとは思えないからね」


 アーヴィンド・マクスウェルは整えられた口髭の下で皮肉な笑みを見せた。

 国際連盟に属する名うての調停官である彼には、落ち着きと貫禄、そして他者を圧倒する活力が漲っている。その眼差しは一見穏やかな印象を与えるものの、時に冷徹な色を帯びることをエアロンは知っていた。


 二人は商談のために集まった。

 普段であれば、その役職柄、エアロン自身が客の依頼を遂行することは珍しい。副主任としての彼の職務は事務や調整業務が主であり、自身が現地に赴くことは、昇進前に比べて減っていた。それにも拘らず、彼が今日ここに呼び出されているのは、依頼主であるアーヴィンド・マクスウェルが茨野商会にとって非常に重要な顧客であるからに他ならない。


「君に直接連絡しようとしたんだがね。椿姫さんが電話に出たので驚いたよ」

「はあ、そうですか」


 上司の名を聞いて、思わずエアロンが嫌な顔をする。調停官はニヤニヤ笑いを隠さない。


「ははは。相変わらず尻に敷かれているらしい。無理もないと思うがね。あれは君のような若造の手に負える女性じゃないよ。正真正銘のレディというやつさ」

「あれがレディですって? 僕とは定義が違うようですね! レディと呼ぶにはもっと淑やかで慎ましく可憐な――」

「そんな女性はエルフやユニコーンと同じだよ」

「ふん。あなたの国では妖精もドラゴンも実在するでしょう?」

「いるよ。ただし、その資格がある者しか出会えない」


 君は選ばれし者ではないらしいね、と哄笑するアーヴィンドを尻目に、エアロンはこの店で一番高い紅茶とケーキを注文した。


「ご活躍の程は伺っていますよ、アーヴィンド。例の紛争、和平条約まで漕ぎ着けたそうじゃないですか。お手柄ですね」

「私だけの功績じゃない」

「ご謙遜を。あれだけ難航した丘陵部の線引きを実現させるなんて、誰にでもできることではありませんよ」


 調停官は紅茶に伸ばした手を止めた。


「――待て。エアロンくん、君は何か『余計なこと』を知っているな?」


 声に微かな緊張が走る。形勢逆転だな、と今度はエアロンが嫌らしい笑みを浮かべた。


「いやぁ? 我社では『情報』も重要な交易品ですので。あ、もちろんどこにも漏らしたりしていませんよ。今のところは」

「……頼むよ。あの紛争は終戦を望まない者も多い。これ以上規模が拡大する前に治めたいんだ――何人たりとも邪魔はさせない」


 付け足した言葉には、調停官としての強い意志が表れていた。


「なるほど。では、このタイミングのご依頼ということは、それに関連することなのでしょうか?」

「イエスともノーとも言えるな。依頼の概要は聞いているんだろう?」

「ええ」


 ウェイターがエアロンの注文品を運んでくる。彼は早速ケーキを一口頬張りながらクライアントに向かって首を傾げた。


「航海中のボディーガード、ですよね?」

「そうだ。私はとある重要なモノを輸送する役目を担っている。表向きは家族旅行と偽ってね」


 アーヴィンドは暗褐色の瞳を一瞬周囲に走らせた。ラウンジは静かではあったが、どこも商談やゴシップのひそひそ話で盛り上がっている。こちらに注意を向けている人間はいない。


「〈エウクレイデス〉号は五日後にポルトを出発し、ロンドンに寄港したのち、大西洋を渡ってボストンまで行く。我々一家はロンドンから乗船する予定だ。君はポルトから乗船して船内の様子を探っておいてくれ。もし怪しいことがある場合は事前にそれを知らせてほしい」

「承知しました」

「当然、私たちには乗船時から専任のボディーガードが付いている。とは言え、彼らの任務はあくまで私が運ぶ機密文書を守ること。君には特に家族のことを気に掛けてほしい」


 アーヴィンドは忌々しそうに眉間の皺を揉んだ。


「こういう節目の時期には、調停官の親族が狙われる事件が珍しくなくてね。自分たちに不利な協定を結ばせないよう、悪事を企む輩がいるわけだ。私は今回の件でかなり重要な立場にあるから、家族も危険に晒される可能性がある」

「その辺りはこちらで手段を考えておきました」


 実際に手を回したのは椿姫主任だが、エアロンはさも自分が機転を利かせたかのように自信に満ちた態度で言った。


「ロンドンからは弊社の船に追跡させます。もしあなた方を狙う者が現れた場合、その船で安全に脱出していただくためです」


 アーヴィンドは興味深そうに片眉を吊り上げた。


「船? 茨野商会は船も持っているのかね?」


 エアロンは得意げに鼻を突き上げる。


「ええ。〈アヒブドゥニア〉号と言います。平時はナポリを拠点に活動しております」

「ほほお。茨野商会の『商会』にあたる業務は、そのアヒ、ア……なんだっけ? そのみょうちきりんな名前の船が担っているというわけだったのか」


 船の名前がみょうちきりんだという点については、エアロンも同意見だ。「アヒブドゥニア」と繰り返しつつ、調停官がこの名前を覚えることはないだろうなと思う。斯く言うエアロンも、船の名前を正確に発音できるようになるまでにそれなりの時間を要した過去がある。


「そうですね。あれは比較的まともに商売をやっていると言えるでしょう。小さいですが、乗り心地は悪くないと思いますよ。ちょうど昨年、新造船に替えたばかりですから」

「それは楽しみだ。いや、乗らないで済むに越したことはないんだが」

「〈エウクレイデス〉号には、そちらから話を通しておいてくださるんですよね?」

「もちろん。君には私に近い部屋を用意しておくよう頼んであるよ」

「では、〈アヒブドゥニア〉号が後続することもお伝え願えますか。当然、航行に支障が出ないよう距離は空けますので」

「わかった。伝えておこう」


 エアロンは礼を述べた。


「ご家族も今日はご一緒に?」

「いや、今は然るべき安全な場所に預けている。それがどこかは君にも言えないがね」


 アーヴィンドは折り畳んだ小切手を差し出した。受け取って、ちらりと中を確認する。紙片越しに見る調停官は澄まし顔で紅茶を啜った。


「えらく気前がいいですね」

「もっと喜ばせてあげようか? 君の活躍次第ではもっと上乗せする用意がある」

「それって、お互いそれだけ危険な目に遭うってことじゃないですか。勘弁願いたいですね」


 その後二、三の確認をして、商談はお開きとなった。互いの近況についてもう少し会話を続ける。

 エルブールの事件については、アーヴィンドもいくらか関心を持っているらしく、町を訪れた『怪しい集団』について真剣に耳を傾けてくれた。


「機械、機械ねぇ……」


 顎を摘まみながらふぅむと唸る。


「蓄音機のような、と言っていたね」

「ええ。僕も実物は見ていないんですが」

「拡声器だったとは考えられないか? 大規模な街頭演説をするつもりだったとか。例えば、政治的な活動家か、最近流行りの宗教団体」

「〈天の火〉新派ですか?」


 エアロンは無意識にベルモナのことを思い浮かべた。


「それだけじゃない。ほら、数年前から盛んだろう? ヴァチカン教会に新しい聖人が現れたとか言って。あれも熱狂的な人気ぶりだよ」

「宗教家が町長を殺しますか? かと言って、あんな片田舎で活動家というのも」

「ドレルム町長が政治闘争に巻き込まれていた、なんて可能性は――さすがにないか。やはりエアロンくん、町長は君たちが殺したんじゃ……?」


 エアロンがキッと睨む。アーヴィンドはクックッと笑った。


「機械については私の方でも調べてあげよう。機械方面に詳しい友人がいるから。その手のことは専門家に聞くのが一番だ」

「ありがとうございます、アーヴィンド」

「さて、それじゃあそろそろ行こうか」


 アーヴィンドが会計を求めるジェスチャーをする。すぐにウェイターが勘定を持って来た。支払いを済ませる間、彼はふと思い出したようにエアロンを振り返った。


「そういえば、君の会社に子供はいるかい?」

「子供、ですか?」


 エアロンはきょとんとして彼を見た。


「社員の子供……というか、うちで面倒を見ている子ならいますけど」

「へえ。いくつなんだ?」

「六歳くらいだったと思います」


 アーヴィンドは満足げに微笑んだ。


「それは丁度いい。その子も今度の任務に連れてきてくれ」

「ええっ?」

「なに、危険な事態になったら私たちと一緒に避難させればいいから」

「それは、まあ、可能ですけど……なぜです?」

「息子がそれくらいの歳なんだよ。長い航海だし、息子にも遊び相手がいた方がいいだろうと思ってね。豪華客船なんて子供には退屈なだけだろう?」


 エアロンは尚も怪訝そうにクライアントを見たが、調停官は涼しい顏をしているだけだった。


「おや? そのおチビさんの分も人件費がかかるかな?」

「いやいや! それくらいなら構いませんよ。あの子も喜ぶと思います」

「それはよかった。何分息子は内気でね。友達が少なくて心配なんだ。私の転勤に付き合わせてしまったのがいけないんだが……」


 二人は連れ立って外へ出た。一分と待たずにタクシーが横付けされ、アーヴィンドがそれに乗り込む。エアロンは腰を屈めて車内を覗き込んだ。


「では、よろしく頼むよ」

「こちらこそ。次回は船上でお会いしましょう」

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