1-21 エピローグ―バルセロナ港にて
商船〈アヒブドゥニア〉号はバルセロナに停泊していた。
埠頭に並ぶ船舶の中では、遥かに小さい部類に入るけれども、まだ新しい船体は白く眩しい。長旅を終えた船は荷下ろしの最中で、マストに止まる海鳥たちが、おこぼれはないかと目を光らせていた。
乗組員のテオドゥロは重たい箱を埠頭に降ろし、ふーっと長い溜息を吐いた。金を払えばクレーンで纏めて降ろしてもらえるが、〈アヒブドゥニア〉号が取り扱う嗜好品やアンティーク類はデリケートな物が多い。毎度結構な量を手作業で上げ下げする必要があり、その度に腕や腰が悲鳴を上げるのであった。
「おい、また俺らだけ重労働かよ?」
テオドゥロは汗を拭いながら不平を言った。隣では、日焼けで赤く頬を火照らせた別の船乗りが闊達な笑みを見せている。
「いいじゃないか。荷下ろし後の酒は旨いだろ?」
堪らずよく冷えたビールの喉越しを想像してしまう。やはり陸で飲むビールは旨い。おまけに豊満で見目麗しい娘が一緒に卓を囲んでくれれば、それ以上の至福は無いだろう。
テオドゥロは親友のジャンルカにニカッと歯を見せながらも、離れた所で港の作業員と立ち話をしている航海士を見て顔を顰めた。
「ミナギの奴、自分は指示だけ出して汗一つ掻かないってか? ガキの癖に舐めやがる」
これにはジャンルカも腰に手を当てた。
「まー……あいつはなぁ。あいつにしかできねぇ仕事も多いし、そこは目を瞑ってやろうや」
「あいつはものの言い方が気に食わねぇんだよ」
ジャンルカはこの航海中に起きたミナギとテオドゥロの口喧嘩を思い出して苦笑した。一度や二度ではなかったのだ。
「違ぇねえ。ま、陸にいる間は忘れようぜ、相棒」
と、彼は悪い顔をして友の肩を抱いた。
「バルセロナと言えば、『あの店』だろ?」
つられてテオドゥロも顔を緩める。が、すぐに咳払いをして体裁を繕った。
「お前はすーぐそれだ」
「ハハハッ、たまには派手に騒いだっていいさ。何しろ次の任務は長いし――」
「戦いがあるかもって?」
ジャンルカは興奮で目をギラつかせている。血気盛んな親友を見てテオドゥロが呆れた笑みを溢す。
「怪我をするのは御免だぜ」
「そりゃもちろん。だけどよ、船長の剣技が見られるかもって思えば、それだけで楽しみにする価値はある」
二人は揃って振り返った。
いつの間にか、航海士の傍に長身の男が立っている。五月と言えども、既に地中海の太陽は十分に夏を予感させる。その日差しの下でも顔色一つ変えず、蒼い古風な外套を纏ったあの男こそが、〈アヒブドゥニア〉号という珍妙な船を統べる長であった。
***
航海士ミナギは汗でずり落ちた眼鏡を直し、隣に立つ男を見上げた。
「荷下ろしは完了です。運送会社には連絡してくれました?」
「ああ」
〈アヒブドゥニア〉号の船長は低い声で端的に答える。
「引き渡しは正午だ。私が立ち会う」
「俺も行きます。その頃には設備点検も終わっているはずなので」
ミナギは船長が持つ新聞に目を留めた。
「買ったんですか?」
船長は黙って一面を広げて見せた。
『和平交渉成立か――国境紛争に終止符』
見出しにはそう書かれている。戦況を説明する地図の下に写真があった。向かい合う二人の男を取り持つように立つ、三人目の男。如何にも紳士然としたその男性は、胸に国際連盟のシンボルを付けていた。
「もしかして、この人ですか?」
ミナギが問う。
「次の依頼人って言うのは」
「そうだ」
名をアーヴィンド・マクスウェルという。国際連盟の名の下に国家間の諍いを和平へ導く、国連治安維持局所属の調停官。そんな男が一つの紛争の終局に持ち込んだ依頼とは。
ミナギはまた眼鏡を直した。少年の面影を強く残す横顔が陰る。
「これはかなりきな臭いですよ」
「何を今更」
〈アヒブドゥニア〉号は決して単なる貿易船ではない。それは何より、船長を務めるこの男が携えた金の長剣が物語っていた。
「どんな依頼であろうとも、我々はただ任務を忠実に遂行するだけだ」
「……はい」
ミナギも倣って視線を落とす。そこで彼は気が付いた。
「あ。よかったですね、船長。この新聞『クロスワード増量中』って書いてありますよ」
船長は無言でそれをポケットにしまった。
「……あれ? もしかして、最初からそれを目的にこの新聞買いました? 一面の記事ではなく?」
「……だが、今聞いている限りでは、任務の中心となる部分はエアロンが担うことになっている。懸念しているような事態にはならないだろう」
「船長? なんで話続けたんですか?」
〈アヒブドゥニア〉号の船長は大股で船へと歩み去った。ミナギもしつこく後を追う。
イベリア半島を越え、遥か西の大洋へ。
深く青い海原が彼らの船出を待ち構えている。
ーーーーーー
第1話 終わり
→第2話「海原の英雄」へ続く
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