1-19 事件の終息
「――きて、ねえ……エアロン!」
分厚い壁の向こうから彼の名を呼ぶ声がする。
――ら、エアロン。
「……っ!」
急激に戻る記憶。飛び起きたエアロンは胸に流れ込んだ新鮮な空気に咽返り、途端に激しく咳き込んだ。すかさず誰かが体を支え、そっと背中を撫で摩る。
「……か、はっ……」
飲み込んだ水を吐き出した。寝かされていた岩がじっとりと濡れる。頭がズキズキと痛み、眼振が止まらない。その肩を抱くように柔らかいタオルで包まれた。アンの水色の瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「よかった。目を覚まさないかと心配したのよ。気分はどう?」
「……最悪」
流されている時に打ち付けたのか、全身の至る所が痛んだ。とにかく寒い。前髪から滴った水が鼻筋を伝った。
「グウィードが駆け付けなかったら、あなたどうなっていたか……ねえ、これはあなたの血じゃないのよね? 怪我はしてない?」
エアロンはハッと顔を上げた。
「あっ、まだ動いちゃダメよ! すぐにお医者様に診てもらって――」
アンの制止を振り切り、エアロンが立ち上がろうと身を捩る。すぐ近くでグウィードがシャツの水を絞っていた。視線に気付いて振り返る。
「ああ、エアロン――」
「グウィード! メルジューヌは? 彼女はどうしたんだ?」
「メルジューヌ? 誰だそれ」
「リンデマン家を襲った犯人だよ。長い黒髪の女の子だ。腹に怪我をしていて――」
「いや、俺が見つけられたのはお前だけだ」
グウィードが首を振る。
「ねえ、エアロン? とても言いにくいんだけど」
アンがそっと肩を抱く。エアロンはその抱擁を拒むことなく、呆然と彼女の声を聞いていた。
「その子、怪我をしてたのよね? それならまず助からないと思うわ……この川の流れだもの。あなただって死んでいたかもしれないのよ」
脳内に響く少女の声。
――さようなら、エアロン。
***
病院に連れて行かれたエアロンは、そこで上司からハロルド・リンデマンの死を知らされた。
「あんたの指示でヴィズがすぐ通報したんだけどね。〈天の火〉の被害で警察もすぐに動けなかったんだ。駆け付けた時にはもう息絶えていたそうだよ」
「〈天の火〉? エルブールで?」
エアロンは驚いて聞き返した。
「あんたは気付かなかったのかい? 町中の人間が酷い頭痛に見舞われたんだ。本当に頭が捩じ切れるかと思うくらいで――それで、きっとリンデマン氏も」
目の前が真っ暗になった心地がした。頭の中で得体の知れない感情が渦巻いていく。ドロドロと濁ったそれは、脳を支配してゆっくりと体に回る。全身から汗が吹き出し、視界が揺れた。
「あたしとグウィードは橋の所まで奴らを追ったんだが、やっぱり逃げられてしまってね。そこでグウィードがあんたたちに気付いて――」
主任は尚も説明を続けていたが、エアロンの耳には届かなかった。
***
燭台の明かりが赤い室内を照らし出す。慣れ親しんだ応接室も薄明りの中では姿を変える。マントルピースの上に並べられた高価な食器類や、使い古されたコート掛けさえ、塞いだ心に威圧的な影を投げ掛けていた。
その後の一日は瞬く間に過ぎた。診察を受け、警察の聴取に応じ、気が付いたら夜になっていた。その間も、ずっと耳に入る音がすべて水を通したかのようにくぐもっていて、心は何も理解しようとしなかった。
エアロンは顎の下で指を組み、独りで感傷に浸っていた。鉛色の瞳が蝋燭の光を受け、金属さながらに鈍く光る。その瞳に映るのは虚ろな少女の白い顔だけだった。
メルジューヌが死んだ。
――あなたのせいよ。
激流に呑みこまれて死んだ。
――あなたのせいで、あたしは死ぬの。
「僕のせい、なのか?」
結局あの少女が何者だったのかはわからない。彼女の目的も不明なままで、すべてはその命と共に激流の中に葬られた。
メルジューヌはなぜリンデマン一家を殺害したのだろうか。何か彼らに都合の悪いことがあったから? しかし、メルジューヌが本当に『エアロンに恨まれて殺されるために』一家を殺したのだとしたら、その責任は誰にあるのだろう。
「僕が、彼らを殺したのか?」
眩しい程の月光が、昨夜のことを思い出させる。
暗い部屋。床に倒れた女の死体。最期まで娘に呼び掛ける友人の顔。事切れた少女。
エアロンは腕に顔を埋め、全ての光から目を背けた。
廊下で微かな声が聞こえた。扉越しなので内容まではわからなかったが、声の主はアンとグウィードだとわかる。何やら話し合った後、顔を覗かせたのはグウィード一人だった。
「エアロン、入るぞ」
影のような相棒の姿が淀んだ視界に映る。彼は一人掛けソファーに縮こまるエアロンの前に座り、躊躇いがちに口を開いた。
「大丈夫……じゃあなさそうだな」
エアロンは睨んだ。
「何か用?」
「お前の様子を見に来ただけだ」
「ほっといてよ。アンは? なんでお前だけ入ってきたのさ」
「お前のために飯作りに行ったよ。昼も夜もろくに食べなかったらしいじゃないか。アンが凄く心配してる」
「そんな気分じゃないんだよ。ねえ、何しに来たの? 様子を見たなら帰れよ。今は誰にも会いたくないんだ」
「エアロン――」
「出てって」
グウィードは黙り込んだ。再び俯いたエアロンには彼がどんな顔をしていたのかわからない。ただ、長年の付き合いから、彼が掛けるべき言葉を探して視線を泳がせる姿が容易に想像できていた。
「じゃあ、俺は行くけど……なあ、ハロルドが亡くなって辛いのはわかるよ。お前が親しくしていたのは知ってるし。でも、お前のせいじゃないだろ。全部あの女が悪いんだ。お前が気に病むことなんて――」
「うるさいなぁ! 出て行けって言ったのが聞こえなかったのか?」
グウィードはぐっと声を詰まらせた。しょ気た様子で立ち上がる。
「……わかった。何かあれば言えよ」
エアロンは答えなかった。
ところが、グウィードを追い出しても、エアロンは独りにしておいてもらえなかった。入れ替わりでハイヒールの足音が近付く。閉まりきらない扉の向こうから狼狽える相棒の声が聞こえた。
「今は入らない方がいい。あいつ、物凄く機嫌が悪いみたいだ」
「いつものことじゃないか」
扉が盛大に開け放たれる。エアロンは騒々しさに顔を顰めながら、入ってくる女上司に向かって悪態を吐いた。
「悪かったですね。いつも機嫌が悪くて」
「まったくだよ。部下の身にもなってやりな。あんた、昇格して何年目だい?」
「余計なお世話です。僕は独りにしてくれって言ってるのに、そっちがわざわざ来たんじゃないか。放っておいてくださいよ」
「それはできないね」
「また出掛けるんですか?」
「昨日言ったじゃないか。ゴタゴタしすぎて遅くなったけどね」
エアロンは縮こまっていた長身を伸ばし、不遜な態度で脚を組んだ。
「その挨拶で?」
「そうだよ。あたしが不在にしている間、あんたがうじうじして働かないせいで会社の運営に支障を来したら困るからね。喝を入れに来たってわけさ」
「ホント、余計なお世話ですね!」
「……なんなんです?」
「マシュー・ドレルム町長の検死結果が出たそうだよ。低ナトリウム血症だった。溺死じゃなくて水中毒だってことだね。溺死に見せかけるために遺体を川に遺棄したんじゃないかと警察は見てる」
「グウィードの報告通りですね。それで? 警察は例の集団の逮捕に動きましたか?」
「……残念ながら、悪い知らせだ」
彼女は一度息を吸い直した。
「グウィードがあんたを助けに行って、あたしとヴィズが警察を伴って戻った時にはもう、トラックもあの変な装置も残っていなかった。きっと騒動の間に回収されたんだろう。目撃者くらいは探せば出てくると思うけど、警察から情報は入ってきていない」
「はあ」
エアロンは彼女の顔に浮かんだ緊張の意図が理解できず、苛々と相槌を打った。
「エルブール警察は規模も小さいし平和ボケしてますからね。暫く待つしかないんじゃないですか」
「警察は動かない。彼らは例の集団のことを疑っていないんだ」
「えっ?」
思わず声を上げて身を乗り出す。椿姫は微動だにせず、ただ彼を見返していた。
「証拠が無いのさ。彼らは明らかに不審な装いをして、なんだかわからない機械を組み立てたりはしていたけど、それらは全く犯罪行為ではない。そして、彼らの仲間がドレルム町長やリンデマン一家を殺害したという証拠も無い――あんたやグウィードの証言以外は何も、ね」
「馬鹿な! だって、そんな……」
「これがどういう意味かわかるかい?」
彼女の声は沈み、冷徹な響きを帯びている。感情の無いの黒い瞳に見据えられるうち、エアロンは全身から血の気が引いていくのを感じた。目を見開く。冷汗が流れた。
「――まさか」
「第一発見者が疑われるのは当然だろう? リンデマン巡査部長に『川辺を探せ』と言ったのはあんただ。そして、一家の遺体を最初に発見したのも、エアロン、あんたなんだ。川から助け上げられたあんたの服は血で汚れていて、あんな朝早くにリンデマン家を訪れていた納得できる理由も説明できない」
「……『僕が』殺したって言うのか?」
「その通り。残念ながらね」
内臓がすっぽり抜け落ちたような心地がした。
そうだ。マントの集団が殺害したという証拠も無ければ、エアロンが無罪であるという証拠も無いのだ。町長殺害について彼らが疑われなかったのは、ハロルド・リンデマンからの信用があったから。その彼がいなくなった今、非合法な会社に勤める人間の証言を信じる者はいない。
「殺したのはメルジューヌだ」
「それもあんたの証言だけだ。むしろ、そんな若い娘が何人も殺したんだと言われて、信じられると思うかい? その娘の遺体が発見されないのはむしろ不幸中の幸いだ。彼女にはあんたに撃たれた傷があるんだろう? もし遺体が発見されたら、それこそ決定的な証拠になり得る」
エアロンは硬直していた。
メルジューヌの死も、リンデマン一家の死も、彼に責任の発端があるのかもしれない。それは彼の罪悪感が認めていた。しかし、警察に疑われることはまた別の動揺を与えた。
違う、と声に出して言いたかった。手を掛けたのは自分じゃなくて。でも、殺害の動機となったのは自分自身かもしれなくて。
――嗚呼、もう何も受け入れたくない。
「……彼らを、捕まえなくては」
エアロンは掠れた声で呟いた。主任が淡々と問う。
「どうやって? 当ては何も無い」
「それは……会社が持つ人脈を総動員して――」
「私怨だね。あんたのせいではないとはいえ、結果的に会社に不利益を与えたんだ。これ以上この件であたしたちが動けば、状況が悪化する可能性だって否定できない。それは認められないよ」
「……じゃあ、どうしろって言うんだ? 主任、あなたにはもう考えがあるんでしょう。それを僕に宣告しに来たんだ、そうだろ? だったらさっさと言ってください!」
エアロンが食って掛かる。
「……あんた、かなり参っているね」
「はい?」
「リンデマン一家の死がそんなにショックだったかい? それとも、メルジューヌとかいう娘のことがそんなに気になるのか――どっちにしても、いつものエアロンらしくない」
「だから何だと言うんです」
「誰に何を言われたかは知らないけど、今のあんたは正常な判断ができないように見える。そんな奴に会社を任せておけないよ」
彼女はコートの胸ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
「エアロン、これが次の仕事だ。あんたのよく知っているクライアントからの依頼だよ。一ヵ月くらい船に乗ってもらうことになる」
エアロンは驚いて聞き返した。
「はあ? 船って、〈アヒブドゥニア〉号ですか?」
「詳細はこれに書いてある。港に向かう前にクライアントと連絡を取るように。〈アヒブドゥニア〉号のスケジュールは押さえてあるけど、詳細が決まったら船長にはあんたから連絡しな」
エアロンは受け取った紙を見もしなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください! エルブールは? 警察の方はどうするんです?」
「警察の心象的にあんたは暫く町にいない方がいい。グウィードにも違う仕事を頼むつもりだよ。その間のことは、社長に任せる」
「……社長? まさか、サイモン・ノヴェルが直々に対処するって言うんですか?」
「そう。今回の件は証拠が挙げられない以上、容疑を晴らすことはできそうにないから、誰か関係する有力者を懐柔するしかないだろう。そういったことはあの人の十八番だからね。あたしたちは下手なことをしない方がいいんだよ」
エアロンは信じられないという顔で主任を凝視した。
会社の代表を務めるサイモン・ノヴェルという男は、まずエルブールに顔を出さないし、会社の運営に直接関わることも珍しい。会社を創ったのは彼の姉にあたる人物で、彼自身はその代役としてトップに立っているだけなのだ。その彼が会社のために表に出てくるというのは意外に思えた。
「それは社長が言い出したんですか?」
「まあね。一応会社の存続に関わる事態だ。報告を入れたよ」
「そう、ですか……」
エアロンは背凭れに崩れ落ちた。怒涛の出来事の末、モヤモヤした罪悪感は残したままで、事件は彼の手から取り上げられてしまったらしい。
「ま、あんたは潮風にでも当たって頭を冷やしてくるんだね。一度冷静になれば立ち直れるさ。エルブールのことは暫く忘れな」
そう言って椿姫は出て行った。
独り残されたエアロンは、放心したまま宙を見ていた。
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