1-18 吊り橋の上で

 吊り橋に向かっている、とエアロンは気が付いた。

 住宅街を過ぎ、閑散とした別荘区を走り抜ける。どの家も堅く閉ざされ、二人の足音と息遣いだけが反響していた。


 朝の冷涼な空気が興奮を幾らか洗い流し、ただ事実だけを彼に突き付けた。ルイーゼが、ナターリエが、殺されたという事実。ハロルドが死の淵を彷徨っているという事実。そして、それがおそらく「彼のために」為されたのだろうという事実。

 怒りを押し退けて顔を出したのは、もっと強く、窒息しそうになる程の。罪悪感と憎悪と困惑が入り混じり、彼を責め苛む激情だった。


 やがて、二人の息も切れた頃、耳が水流の音を捉えた。視界を狭めていた家々が途切れ、川沿いの並木道が前方に横たわる。黒髪は芽吹き始めた枝の下を掠めるように走っていく。

 エアロンの予想通り、メルジューヌは吊り橋に向かって道を逸れた。その吊り橋は車両用の大橋が整備される以前からあったそうだ。今では一部の観光客が渓谷を覗き込むためだけに訪れる、歩行者用の古い橋。


 その橋の上で、とうとう二人は直線に並んだ。


 揺れる視界の中央に彼女の影を捉え、ピタリと焦点が合う。黒髪の下に咲く青紫の双眸が見えた瞬間、衝動的な怒りが首をもたげた。

 引き金を、引いていた。

 弾丸が腹を貫く。背面から噴き出した血と弾丸は彼からは見えなかったが、足元に飛び散った血の雨は鮮やかに彼の眼を刺した。


「追い詰めたよ」


 堪え切れず倒れ込んだ少女に、エアロンはゆっくりと歩み寄った。


「痛いじゃない、酷い人」


 メルジューヌは血の滲む腹部を庇いながら、手摺りに縋って立ち上がった。乱れた黒髪が顔に掛かる。


 それは可憐な少女の顔ではなかった。

 冷酷で無感動な殺人鬼の顔。


「酷いのはどっちだ? 罪の無い人間を何人も殺しておいて、それぐらいで許されると思うなよ」


 エアロンの顔が怒りに歪む。対する少女は涼しい顔で彼を見た。


「あなただって、躊躇無く引き金を引いたじゃない。もっと抵抗があるのかと思ってた。でも、全然そんなことないのね? あなたの会社は人殺しを禁止してるんじゃなかったの?」

「……うるさい」

「じゃあ殺す?」

「黙れ!」


 銃口を向ける。

 メルジューヌは微笑んだ。


「そう、それでいいのよ」


 その微笑みはエアロンを酷く戸惑わせた。殺人鬼の表情から一転、柔らかい聖母のような笑み。狂おしい程の愛しさを宿した笑みだった。


「……なん、なんだ」


 呟く声が揺れる。


「メルジューヌ、君は誰だ? どうして彼らを殺した? 何が目的で僕に近付く?」

「やだ、そんなに一度に質問しないで。答えはあなた自身が言ってるじゃない――」


 ふいに、メルジューヌがエアロンに近付いた。向けられた銃口に臆することもなく。背伸びした顔は蒼白で、吐息の荒さから、彼女の体力に限界が迫っていることが窺えた。それでも彼女は止まらない。


「あたしの名前はメルジューヌ。メルジューヌ・リジュニャン。彼らを殺したのはあなたに近付くため。そしてあなたに近付いた目的は――」


 血で塗れた両手が、青年の手ごと銃身を包む。突然の行動にエアロンは身を捩るが、少女は強い力で放さなかった。そのまま真っ直ぐ、銃口を胸に当てる。


「――あなたに、殺してもらうためよ」


 あたしは、あなたに。殺されに来たの。

 

 呼吸を忘れた。その瞳に魅せられた。


「さあ、撃って。あたしはあなたの友人を殺した凶悪な殺人鬼よ。仇を討ちたいでしょ? もう一度引き金を引くだけでいいの。ちょっと力を込めるだけよ」


 徐々に残酷な響きを孕むその声が、血の気の引いた唇から零れる。それは蛇のように彼を絡め取り、じわじわと締め付けていった。


「い、やだ……」

「何を恐れているの? エアロン、あなたならできるわ。あたし、知っているのよ。あなたには簡単なことだって。だってあなたは、他人の命なんてこれっぽっちも――」

「やめろ!」


 メルジューヌの笑みが憎かった。小さな手の温もりが憎かった。

 歯の隙間から荒い息を漏らし、エアロンが全身を震わせる。怒りに支配された彼の目には、もはや彼女の心臓しか見えていなかった。


 しかし、彼は手を引いた。銃を収める。


「どうしたの? やらないの? あたしのことが許せないんじゃないの?」


 メルジューヌが初めて動揺を見せた。エアロンはよろけそうになる彼女の腕を掴み、狼狽える瞳を覗き込んだ。


「許さないさ」


 鉛色の瞳が睨む。


「だけどね、メルジューヌ。僕は茨野商会の副主任だ。僕のすべては会社にある。会社がそれを禁じるならば、僕はそれに従うまでだ」


 エアロンが口角を吊り上げる。


「残念だけどね……僕は君の挑発に乗ってあげる程、安い男じゃないんだよ」


 突き放された少女を風が包み、黒い髪が靡いた。沈黙が腰を据え、水の音だけが山間に響く。大地を削り過ぎ去る急流が、この世界で動き続ける唯一のものだった。


 メルジューヌが顔を上げる。その笑みは穏やかで――深い悲しみを湛えていた。


「それがあなたの結論?」

「ああ。だから、君は警察に受け渡す。とにかく病院に――」

「だめ。それはできないの」


 避ける隙も無かった。後退りする青年の腰に腕を回し、メルジューヌは微笑んだ。


「それじゃあ、仕方がないわね。一緒に逝きましょ。怖くなんてないわ」

「メル……っ」

「大丈夫、あなたは死なない。あたしの愛するエアロンはこんなところで死んだりしないもの。だけど、あたしは違う――」


 べっとりと血の付いた体を押し付け、二人の距離は零になる。微かな温度と共に彼女の血液がシャツに染み込む感触が伝わってきた。


「――あたしは死ぬ。濁流に呑まれて死ぬ。あなたが殺したのよ、エアロン。あなたのせいであたしは死ぬの」


 あなたのせいで。

 僕のせいで。


「さようなら、エアロン。きっとこれは始まりよ。あなたの物語が、ここから始まるの」


 青年の長身を手摺りに押し付ける。ハイヒールが橋を蹴り、二人の体が浮いた。抵抗しようと伸ばした腕は手摺りを掠めて宙を掻いた。


 落ちる。落ちる。落ちる。


 硬い空気の塊を突き破って、二人の体は落ちて行った。

 黒い髪が視界に流れた。水の音が耳を覆う。水面が迫った。


 衝撃。激流。酸欠。


 天地もわからぬ苦しさの中、胸に感じていた温もりが去っていくのを感じた。


 そして、エアロンは深い闇に堕ちた。

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