1-17 人殺しの少女
その沈黙は、彼が一足遅かったことを物語っていた。
息を切らせて玄関を駆け上る。鍵は破壊されていた。扉の先は暗闇だ。
耳が物音を聞きつけるより早く、澄んだ空気の中で鼻が臭いを嗅ぎ分けていた。これはよく知っている――血の臭いだ。
エアロンはコートの前を払い、隠し持っていたハンドガンを取り出した。満足に視界の利かない闇の中、深く息を吸って呼吸を整え、聴覚に全神経を集中させる。そして、リンデマン邸へと身を躍らせた。
『ソレ』はすぐに見つかった。
廊下に倒れ込む女。髪の房が額に零れ、鈍く光る液体がべっとりとこびり付いていた。
エアロンは身を屈め、リンデマン夫人の顔をこちらに向けた。首元から新たに血が溢れてエプロンを濡らす。見開かれた瞳はもはや何も映しはしない。恐怖の色を浮かべたままで、窓から射し込む明け方の光を受ける。
彼女は死んでいた。
正面から喉を掻き切られて。
彼がそっと瞼を閉じさせる間にも、彼女の肉体は温もりを失っていく。
「……ろ……」
静寂の中から擦れた声が耳に届く。エアロンはサッと銃口を向けた。
「やく……ナタ……」
「ハロルド!」
階段の下にハロルド・リンデマンが這い蹲っていた。口の端から血を流し、片手は腹を押さえている。
その指先から覗くのは。
精巧な装飾を施されたナイフの柄。
エアロンは傍に駆け寄り、血溜まりの中に膝をついた。もう体は言うことを聞かないにも関わらず、ハロルドは這い進もうと腕を伸ばし続ける。ナイフの柄から新たに血が滴った。
「ハロルド」
「エア……ロン……? よか……はや……」
「しっ。喋っちゃだめだ。今医者を呼ぶから、もう少しだけ頑張って」
刺さったナイフを動かさないよう、力を失った男の体を介抱する。応急処置を試みるが、ヒルトまで深く刺さっているところを見ると、内臓への損傷は大きいだろう。直ちに病院に運んで適切な処理を行ったとしても、助かる見込みは薄いことがエアロンには見て取れた。そして、ハロルド自身にも。
「ナタ……を……頼む、ナターリエを……」
ベストの襟元を掴み、エアロンの顔をこちらに向かせる。その腕に込められた力も一瞬で果てた。崩れる腕を包み込み、エアロンはハロルドの口元へ耳を寄せた。
「なに、ハロルド? ナターリエ?」
「ナタ……リエ……はや、く」
「彼女も襲われたのか? どこ?」
「あの子は、二階……に……たの……ナタ、リエ――……」
「わかった。僕が見てくるから、ハロルドはもう少し頑張るんだ。いいね?」
「ナタ……リエ、ルイー、ゼ」
エアロンが立ち上がる。その瞳には、抑え切れない怒りが表れていた。
二階への道程はここで起きた惨劇ををすべて物語っていた。その道を辿る毎に、少女がどんな風に逃げ惑い、よろけ、追い詰められたかが見て取れる。
少女は子供部屋で眠っていたはずだ。そして、一階の騒ぎで目を覚ます。耳に入ったのは謎の侵入者への怒号か。亡き妻を呼ぶ悲痛な叫びか――しかし、エアロンにはわかる。少女が聞いた最後の声はきっとこうだ。
逃げろ、ナターリエ。
少女は逃げた。階段を駆け上ろうとして、足を縺れさせ壁に手をつく。その弾みで掛けてあった絵が落ちた。殺人鬼は冷酷に追い続ける。ナイフを持った手が上がる。投げられたナイフが空を切り、少女を捉えた。
踊り場に倒れ込むようにして息絶えた少女を、エアロンはそっと跨ぎ越した。銃を構え、開け放たれた子供部屋を見る。そこに人影は無く、沢山のぬいぐるみが小さな主の遺体を眺めているだけだった。
犯人はまだこの近くにいる。怒りと緊張で手汗が滲み、グリップの凹凸が滑る。
廊下の反対側、もう一つ扉が開いている部屋があった。窓も開いているのか、風でカーテンが擦れる音がする。
そして、何者かの気配。
「動くな!」
銃身が煌めく。
黒髪が広がった。少女が振り返る。
「嗚呼、エアロン。思ったより早かったわね?」
くすりと笑う。
メルジューヌ・リジュニャンがそこにいた。
黒いワンピースを血に染めて、片手には血濡れたナイフを握っている。間違いない。それはほんの数分前、幼いナターリエの命を奪った凶器だ。
「君が……っ」
怒りが言葉にならない。引き金に掛けた指が震えた。メルジューヌは穏やかに微笑んでいた。
「ここじゃダメ。もっと静かな所に行きましょう?」
そう言うなり、メルジューヌは踵を返した。制止の間も無く窓から飛び降りる。エアロンは窓に駆け寄り、人気の無い町を見下ろした。周囲の家々はこの惨事にも気付かず、白み始めた空の下で落ち着かない朝を過ごしている。メルジューヌは華奢な体からは想像もつかない身体能力を見せ、裏の通りへと降りていた。こちらへ手を振っている。
「くそっ」
悪態を吐く。しかし、誘いに乗らずにはいられなかった。エアロンは彼女を追って窓枠を越えた。
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