1-10〈ホテル・フルメン〉

 同時刻。

〈ホテル・フルメン〉の地下階客室は借りられなかった。その階は例の集団がすべて押さえており、空いているのは三階のスイートだけだという。

 人相の悪い労働者風の男が一人でスイートに泊りたいなどと言うものだから、宿の主人には心底不審そうな目で見られてしまった。


「〈ホテル・エルブール〉は高すぎるんだよ。他の部屋が空いてないなら仕方ないだろ」


 言い訳がましく呟いて、主人の手から鍵を引っ手繰る。


 部屋に着くなり、グウィードは窓を開けて下を覗き込んだ。すぐ目の前を流れる川の音に掻き消されて下の階の音は届かない。逆を言えば、こちらの物音も気付かれないだろう。

 持参したトランクには着替えの類は一切入っていなかった。その代わり、使い込まれた仕事道具が詰められている。その中から鉤の付いたロープを取り出して窓枠に引っ掛けた。外れないようしっかりと固定する。反対の端を窓から垂らし、グウィードはそれを伝って外壁を下りて行った。


 二階。どの部屋もカーテンが閉められていて中の様子は覗けないが、明かりと共に微かな匂いが漂っている。食事を部屋で取っているのだろう。


 目的は地下階だ。造作無く下りていく。

 地下階も窓の配置は変わらない。電気が点いているのは右端の部屋だけだ。この部屋はレースのカーテンしか閉められておらず、照明によって中の様子が透けて見えていた。気付かれないよう窓枠から目だけを出して盗み見る。

 黒い髪の娘がいた。照明の加減なのか、幾分印象が違って見えるが、昼間見たあの少女だろう。ゆったりと寛いだ様子で向かいに座る男に話し掛けている。男の顔は背になって見えない。


 グウィードは真ん中の部屋に移った。カーテンが細く開いている。覗き込んだ室内に人影は無く、ベッドには使われた形跡も無い。

 しかし、彼はある物に目を留めていた。

 硝子瓶が卓上に置かれている。グウィードにはそれが日中に若い男が運んでいた物に見えた。もしそうであれば、この部屋に目当てのモノがある可能性は高い。


 じっと耳を澄ませる。やはり人の気配は無い。

 グウィードはロープを腰で縛って両手を空け、窓の鍵を丹念に調べ始めた。古めかしい木の窓枠は擦り減って僅かな隙間が出来ている。鍵は簡易な板状の掛け金だけだ。金属片を差し込んで持ち上げれば、いとも容易く外すことができた。


 念の為に窓から退いて様子を見る。隣室の二人は相変わらず話に夢中らしい。このまま続行しても問題は無さそうだ。そっと窓を開けてみる。漂い出てきたのは爽やかな香り――と、微かな異臭が鼻腔を駆ける。


 全身の筋肉が緊張した。長年の経験が警鐘を鳴らす。

 洗剤の臭いで掻き消そうとしているが、そこには確かに汚物の臭いが混じっていた。


 ロープを解いて中に入る。

 誰もいない。


 卓上にはやはりミネラルウォーターの瓶。大瓶だが、十本近く空になっている。他にも薬瓶などが雑多に置いてある。それらをよく見ようとグウィードは一歩踏み出した。ぴちゃり、という水音と共に、ブーツの爪先が柔らかいモノに突き当たる。足元を見下ろした。月光が差し込む薄明かりの中、濁った両眼と目が合った。声を上げそうになるのをグッと堪える。


 相手は何の反応も返さなかった。

 当然だ。もう事切れているのだから。


 マシュー・ドレルムがそこにいた――いや、あった。

 両腕を大の字に広げてばったりと床に倒れている。ぼんやりと浮かび上がる肌は蝋のように白く、変色した唇の端からは液体が流れた跡がある。胸元を中心に服が濡れ、失禁の形跡もあった。見たところ外傷は無い。


 この男は殺されたのだ。

 グウィードは確信していた。


 死因は何だろうか。毒物にしても何らかの痕跡はあるはずだ。調べようと屈み込んだところで、視線が腹部に留まる。シャツのボタンがはち切れんばかりになっていた。

 嫌な予感がした。そっと触れてみる。湿った布の感触の下に、パンパンに膨らんだ風船のような腹が。少し力を加えると、死んだ男の口から水が溢れた。


「……っ!」


 反射的に身を引いた。ゾッとした。あまりに惨い仕打ち。全身から汗が噴き出した。


 水の空き瓶が示す意味。

 マシュー・ドレルムは、何リットルもの水を無理矢理飲まされて殺されたのだ。


 ここにいてはいけないと思った。早くこの場を立ち去りたくて堪らなかった。胸をざわつかせるのは恐怖心ではない。死体なんて戦時中に山程見た。人殺しを相手取って渡り合ったことだってある。そうではなくて、彼はただ本能的に嫌悪しているのだ。こんな拷問のような殺し方をし、それを知っていながら尚、無邪気に談笑できる人間が理解できなくて。


 グウィードは踵を返した。入ってきたと同じようにロープを掴んで窓から出ていく。掛け金が落ちるよう器用に窓を閉めたその時、ドアノブが回されるのを見た。

 咄嗟に窓の脇へと身を隠す。

 誰かが入ってきた。すぐにでも報告に戻りたいが、今は物音を立てるべきでない。忍耐強く息を潜めて相手が出ていくのを待つ。


 その人物は窓のすぐ前で立ち止まった。一瞬横顔が見えた。あの少女だ。彼女はこちらに背を向け、男の死体を見下ろしながら言った。


「彼にはもう一日猶予があるはずだったのよ。でも、見つかっちゃったんだから仕方ないわね。見逃してあげたって結局は同じことなんだもの」


 独り言にしてはやけにはっきりした口調。ロープを掴む手に汗が滲んだ。


「ねえ? エルブールって素敵な町ね。あたし、ここに来れて本当によかったわ」


 それだけ言うと少女は出ていった。こちらを振り返ることもなく。


 嫌な後味の悪さがあった。

 彼女がこちらに気が付いていたのかどうかはわからないが、明らかに誰かに聞かせるために話していたのだ。彼は見逃されたのだろうか。もしそうであるならば、泳がされているようで気持ち悪い。


 グウィードは頭を振った。考えるのは彼の仕事ではない。

 一秒でも早く、エアロンに報告しなくては。

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