1-9「――会いたかったわ、エアロン」

 リンデマン家は代々このエルブールに住み続けている古い家系だ。住宅は相応に年季が入っているが、妻のルイーゼによってよく手入れされており、傍目からも住み心地の良さそうな家に見える。

 ノッカーを鳴らすと十歳くらいの少女が出迎えた。


「こんばんは、ナタ――」

「あっ」


 そう言うなり家の中に戻ってしまう。エアロンはそのまま玄関ポーチに立ち尽くした。

 改めて、ルイーゼが応対に出る。料理中だったのかエプロン姿で、長い髪を団子にして結い上げていた。背後には娘のナターリエが隠れている。


「ごめんなさいね、エアロンさん。どうぞ入って」

「お忙しい時間帯にすみません。ご主人はもうお戻りでしょうか」

「ええ、居間にいるわ」


 ハロルドはソファーで新聞を読んでいた。エアロンに気付くと立ち上がり、好きな所に腰掛けるよう促す。木目を意識的に取り入れた暖かみのある部屋だった。


「何か飲むかね?」

「いえ、まだ仕事がありますので」

「私もだよ」


 聞けば、夕食を取ったら、また町長の捜索に戻るらしい。確かに彼は制服姿のままだった。


「ビアンカも焦り始めてね。そろそろマシューが行方不明だと公表するだろう」

「残念ながら、こちらも手掛かりは何も。部下に色々と噂話を集めさせましたが、町長に関するものは出てきませんでした」

「それは良い知らせなんだか、悪い知らせなんだか。ビアンカには悪いが、単なる浮気や不倫であってくれればと思ってしまうよ」


 ハロルドは警察による捜査状況を共有してくれた。少なくとも山に入った形跡は見られず、川に関しても滑落などの形跡は無かったそうだ。


「今夜は町中総出で山狩りを行うことになるだろうな」

「人手がご入用でしょうから、その際は僕たちもお手伝いしましょう。その前に、例の集団のことですが……」


 そこでエアロンは口を噤む。ナターリエがお茶を運んできたのだ。彼女は下を向いたまま茶器を押し付け、逃げるように出て行ったかと思いきや、退室後は入り口から片目を出して覗いている。ルイーゼに扉を閉めるよう言われて渋々引っ込んだ。

 ハロルドが苦笑する。


「悪いね。娘は君に少々お熱らしくて。父親としては誠に遺憾なんだが」

「ははは、おませな娘さんですね。そんなに何度も遊びに来たことはないと思うんですが」

「少女というのはそういうものらしいよ。ルイーゼが諦めろと言っていた」


 気を取り直し、エアロンは先程グウィードから聞いた話をすべて報告した。あえて明言は避けたが、彼らがマシュー・ドレルムを誘拐した可能性も匂わせる。話を聞いたハロルドは、深刻な顔で考え込んだ。


「部下を再度ホテルに向かわせました。一晩見張らせておきます」

「誘拐、か。しかし、どんな要求も受けていないぞ。何が目的でマシューを?」

「まだそうと決まった訳ではありません。今晩確認が取れるはずですが」


 ハロルドはがっくりと肩を落として頭を振った。


「ありがとう。進展があればすぐに警察署に連絡をくれ」

「もちろんです。こちらは任せてください。その代わり、明日の朝のことを頼みます。何があるかわかりませんので、巡回を増やすなりして十分に警戒しておいてください」


 例の機械のことはハロルドにもわからなかったが、明朝については善処すると約束してくれた。

 キッチンから香ばしい匂いが漂ってくる。時刻は十八時を回っていた。日没の早いエルブールではもう夜と言っていい時間だ。外も大分闇が濃くなっている。


「夕飯を食べていくかい?」

「いえ、もうお暇します」

「残念だ。いや、よかったのかな? これ以上娘が君に熱を上げても困るからね」


 不穏な空気を吹き飛ばすように、ハロルドが声を上げて笑う。釣られてエアロンも笑みを溢した。


「マシューが見つかった後でちゃんと食事に招こう。ルイーゼは最近創作料理に凝っていてね。元の腕が良いからなかなか美味しいんだ」

「楽しみにしてます。その時は娘さんに花束でも持ってきますよ」

「……やめてくれ。君を招くのは中止だな」


 ハロルドはエアロンを戸口まで見送った。ナターリエはやはり陰に隠れている。去り際に手を振ってやると、真っ赤になりつつも振り返していた。



*** 


 不穏な夜だった。


 空には雲一つなく、満天の星空に半月が煌々と光る。澄んだ空気は肺に取り込むにも気持ち良く、本来なら散歩にふさわしい夜だと言えよう。それなのに、耳に入るのは飛び交う罵声。あちこちの民家から甲高い怒鳴り声が響き、乱暴に何かを叩く音が聞こえる。

 皆、無意識に何かを感じ取っているのだ。その正体がわからないから、落ち着かないまま夜を迎えている。


 いつの間にか町に広がっていた緊張は、エアロンの胸中にもさざ波を起こしていた。無意識に歩調が速くなる。戻ればまた書類の山が待ち受けているので、いつもなら帰りたくないと思うのだが。なぜだか今日は外にいるのが耐え難かった。見慣れた景色が違う世界にすら感じられる。ねっとりと絡み付くような息苦さに襲われた。


 はた、とエアロンは足を止めた。前方に人影があったのだ。

 それは交差する道から唐突に現れた。まっすぐに彼を待ち受ける、黒い服の若い娘。


「こんばんは」


 ふわりと耳元を掠める柔らかい声。

 その顔を見た時、なぜかエアロンは息を呑んだ。闇に溶け込む黒い髪。白く浮き上がる肌は幽鬼のようだ。しかし、何よりも彼を惹き付けたのはその瞳。紫を帯びた青い瞳が鬼火の如く燃えていた。


 彼女は囁いた。


「――会いたかったわ、エアロン」


 エアロンは眉根を寄せて歩み寄る。彼女はまだ少女と呼べる歳なのだろう。整ってはいるが幼さの残る顔に、微笑を浮かべて佇んでいた。


「君は誰だ? どうして僕の名前を知ってるの?」


 すると彼女は愉快そうに笑った。


「名前だけじゃないわ。ずっと前から知ってるのよ、あなたのこと」


 数歩、彼女と距離を置く。

 ただの女の子だ。体格差を考えれば、エアロンなら片手で押さえ付けてしまえるだろう。武器を隠し持っている素振りも見られない。だが、彼の全神経が警戒すべきだと叫んでいた。


「僕は君を知らないんだけどね。いつどこで会ったのか教えてくれる?」

「先月ベルモナで見かけたわ。でも、ちゃんと会えたのはこれが初めて」


 今度は彼女から一歩近付いた。


「あたしの名前はメルジューヌ。メルジューヌ・リジュニャン」


 更に一歩。また一歩。

 すぐ目と鼻の先だ。薄闇の中でさえ、睫毛の一本一本まで見える距離。

 無意識に後退りしそうになるのをぐっと堪えて、エアロンは正面から彼女を見下ろした。


「笑い掛けてくれないの?」


 彼女は拗ねたように上目遣いをした。エアロンはムッと眉を寄せる。


「なんで僕がそんなことしなくちゃいけないんだ? 悪いけど、君は一体――」

「そうよね。初めましてだもの。あなたがあたしに優しくしてくれる理由なんて無いわね」


 でも、とメルジューヌは手を伸ばす。


「あたし、あなたに会えて本当に嬉しいのよ。ずっとずっと、エアロンに会うことだけを夢見てきたんだもの」


 少女の指先が彼の胸に触れる。伏せた瞳は確かに彼には理解できない悦びで満ちていた。エアロンはその手を掴んで退けた。理解できないことへの苛立ちが募る。


「質問に答えてくれないか。なぜ君は僕のことを知っているのか、僕に何の用なのか」


 一瞬、メルジューヌは悲しそうに顔を歪めた。


「ごめんなさい。詳しいことは言えないの。ただ、あたしはエアロンにお願いがあって来たのよ」

「お願い?」

「ええ、そうよ。あのね……」


 メルジューヌが背伸びをして身を寄せる。咄嗟に下がろうとしたが、素早い動きでネクタイを掴まれ逃げられない。眼前に迫った桃色の唇が妖艶に動いた。


「――あたしを殺してほしいの」

「なんだって?」


 耳を疑った。けれど、聞き間違いではないらしい。メルジューヌはにっこり笑いながら繰り返した。ゆっくりと、甘い声で。


「あたしはあなたに、殺されに来たの」


 エアロンは何も言えなかった。

 覗き込んだ瞳に映る狂気、気迫、哀愁。それから――……?


「ふざけるのも大概にしてくれ」


 腕を掴み、押し退ける。華奢な体は抵抗も無く離れた。


「……そうよね」


 メルジューヌはくすりと笑った。


「それじゃあ仕方ないから、もう一つのお願いごと。今晩中にこの町から出て行ってほしいの。一日離れるだけでもいい。あなただけでもいいし、お仲間を一緒に連れて行ってもいいから、この町を離れて」


 エアロンは顔を顰めた。


「なぜ」

「それは秘密。でも、このままここにいたら、きっと明日あなたは嫌な目に遭っちゃうわ」


 合点がいった。彼は睨んだ。


「ああ、君があの集団にいたっていう女の子か。君たちは何をするつもりなんだ?」

「うふふ、色々聞きたくなった? 残念だけど、これ以上は教えられないの。とにかく、エアロンはこの町にいちゃダメ。これは善意の忠告よ」


 そう言うと少女は黒髪を翻した。追い掛けるエアロンの質問には答えない。手の届かないところまで離れたところで、彼女は一度だけ振り返った。


「ねえ? あなたはあの警察の人と仲が良いの?」


 脈絡の無い質問にエアロンは曖昧な声を漏らす。メルジューヌは疲れた顔で微笑んだ。


「あたし、本当はもう限界なの。だからね……あなたに殺してもらうためなら、なんだってするつもりよ」


 夜の闇が濃くなっていく。

 メルジューヌ・リジュニャンは溶けるように姿を消した。

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