エピソード2「カフェ・ノーラのとある一日」
1-1.とりあえず、今日も生きてみよう
血に爆薬、それと励起された魔素の匂い。いろんな匂いが立ち込めている中で私は立ち尽くしていた。
多くの味方将校がいたはずの前線指揮施設。テントや軍用車両が立ち並んでいたそこは、今は穴だらけの地面が広がる場所に成り果てている。
少し前まで忙しく動き回り、私にも命令していた人たちがあちこちに転がって動かない。通信機器類は壊れて散らばり、爆発した軍用車両の残骸が攻撃の激しさを明示している。それを私は無感動に眺めていた。
みんな、死んだ。
それ自体、特に私が感じるものはない。これまで私が出会った人たちもみんな死んでいった。良い人も、悪い人も。戦争とはそういうものだ。
被っていたヘルメットを外せば、まだ半分黒いままの髪が風に揺られて目に入った。少し離れたところからはまだ大砲の音、そして爆発音が響いてくる。
そんな場所にあってヘルメットを外すのは危険な行動と理解している。けれど、もうどうだっていい。私の役目は、終わりだ。
(お兄さんも――)
この状態ではきっと生きてはいない。私に命令を下してくれるお兄さん――エドヴァルド・カーサロッソ中尉はもういないんだ。
ならこのままここで砲弾に撃たれて壊れても構わないだろう。頑丈な体だけど、精霊の力を使わずに無防備で砲弾に吹き飛ばされれば、私でもきっと死ねる。
そんなことを考えていると、風が吹いて立ち込めていた煙が流れた。次第に晴れていく景色をただ眺めていたけれど、少し離れたところで一台だけ小型の車両が残っているのを見つけた。フロントガラスも割れて、全体が焼け焦げているものの、かろうじて原型は留めている。
そして、私は思わず目を見張った。
「お兄さん……?」
破壊された車両の側面にもたれかかる一人の男性。遠目でも私の視力なら分かる。それが誰か。そしてまだ――その人が生きていることも。
喉が一瞬震えた。それからゆっくりとその車両の方へ向かった。
エドヴァルドお兄さんの荒い呼吸音がだんだんと大きくなっていく。やがて手の触れられる距離で立ち止まると、お兄さんは私を見上げて口の端を吊り上げ笑った。
口の端から血が流れてて、お兄さんのお腹の辺りも真っ赤に濡れてた。砲弾の破片が突き刺さったのだろうか。やっとのことで生きている状態で、もうたぶん治療も間に合わない。
なのにお兄さんの顔に悲壮感はない。辛そうではあるけれど、こんな状態でも私にいつもどおり笑いかけてくれている。
(どうして、お兄さんは……?)
笑っているのか。そんな疑問を抱く私に向かってお兄さんの口が動く。が、激しく咳き込む。血しぶきが飛んで、私の強化された聴力でもお兄さんの声は聞き取れなかった。
ちゃんと聞き届けなくちゃ。そんな衝動が私を押す。お兄さんの口元へ顔を近づけ、そして今度こそ、お兄さんの声をハッキリと拾うことができた。
「――生きろ」
そんな短い言葉と同時に。
エドヴァルドお兄さんの指先が、私の胸に突き刺さった。
パチリ、と目が覚めた。
濃い色合いの天井板が目に入り、私はベッドから体を起こした。二、三度目を擦ってベッドを降りる。ふらつきつつも洗面台に向かい、歩きながら義足の状態をチェック。特に軋みなどはなくスムーズに動いていて、どうやらクレアの整備は必要なさそうだ。
蛇口をひねり、水をすくって顔に掛ける。金属である右手からひんやりした感触が伝わり、それで今日も意識が覚醒していく。
(お兄さんの夢、久々だ)
歯を磨きながら先程の夢を思い出す。
あの日あの時、私はお兄さんと一緒に朽ち果てるつもりだった。戦争に敗北して所属していた国――ヴォルイーニ帝国の消滅が確定し、さらにお兄さんも死んだその時に軍の生体兵器である私も存在意義を失ったと理解したから。
「……」
クローゼットからクレアが決めたカフェの制服を取り出し、鏡を見ながら着替える。パジャマをベッドの上に放り、焦げ茶色をしたメイド服に袖を通す。細く赤いリボンタイを首元に巻きつけ、頭に白いレースの付いたカチューシャを乗せて慎重に位置を整えていく。なぜだかリボンタイとカチューシャの歪みにはクレアはうるさい。
うん、問題なし。
鏡に写った私の全身を確認。特におかしなことはなく、いつもどおりの姿が再現できた。戦争が終わって五年が経っても変わらない自分の姿を見て、また夢のことを思い起こす。
存在意義を失い、私は機能を停止しようとした。お兄さんに寄り添い、隣で静かに果てようと思った。
けれど、死ぬ前にお兄さんは私に言った。生きろ、と。
それはお兄さんの最後の命令だ。だから私はそれに従った。
だから――私は生き続けている。
「行こう」
つぶやき、クローゼットを閉じて鏡の中の私が消える。部屋を出て一階の店へ続く階段を降りていく。
とりあえず、今日も生きてみよう。
そう思いながら私は店の扉を押し開けたのだった。
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