月命恋詩(げつめいのバラッド)

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月命恋詩(げつめいのバラッド)

 運命という見えない歯車の刻みが刻々と噛み合い始め、未来へと動き出す。


 明治。文明開化とは名ばかりの山村の小さな集落で、一頭の牝馬めすうまが産まれた。

 まだ幼く、とおにも満たない少年は両手を広げ、自分の何倍もある馬の親子の前へ出ると立ちはだかった。眉間に筋を立て、凄んでみせる先に居るのは一回りも歳の離れた兄だった。

「兄さん、殺さないでぇー!! お願いだ、ぼくが最後まで面倒をみるから!」

「無理を言うな、楢馬しょうま。ここで始末してやるのもこの馬の為だ!」

 産まれて数時間。本来ならば立ち上がり、母馬の乳を飲んでいる。だが子馬は目を開けることもせず、か細い脚で立ち上がることも出来ない。

「でも、まだ生きてるっ!」

 小さく動く肺は生きようと必死に呼吸をする。楢馬の気持ちに応えようとするように、長いまつ毛ののった瞼をゆっくりともたげて開いた。そのひとみは確かに生きている。

「お願いだ!」

「出来ん」

 楢馬の兄桜太郎おうたろうは、早世した父親に代わり一家を支える家長として、母親を始め妻や二人の妹弟達を養う義務があった。

 決して良いとは言えない家業の商い、その傍ら行う農作業。運搬農耕で使う牛や馬は大事に扱われていたが、虚弱で産まれ、馬として致命傷でもある脚の具合の悪さ。役に立たない馬など、余計な食いぶちを増やすようなことは、ぎりぎりの今の生活で出来るものではなかった。

「嫌だっ!」

「離れろ、楢馬!」

 蒼白い満月を背に、月明かりを反射させ不気味に砥がれた鎌を振り上げる桜太郎。影を落とし、兄とは思えぬ形相となった男を前に、楢馬は子馬を抱え込むと離れようとはしなかった。恐怖などという思いは無かった。だが震えるからだ、そして溢れる涙を流し必死に嘆願する。

「離れるんだ! いう事をきけ。きけなければお前ごと斬るっ!」

 更に強く子馬に抱き付き、抱え込む楢馬。桜太郎に容赦はなかった。

 いななきが稲妻の如く空気を切り裂き夜空を貫いた。

 尋常ではなかった馬の鳴き声に、馬屋に駆け付けた母親と桜太郎の妻が目にしたものは恐ろしい光景だった。

 馬屋から母屋にまで届いた嘶き。それは子馬の傍にいた母馬から発せられたものだった。我が子の危機を察した母馬は息を荒げ何度も後ろ脚で立ち上がっては桜太郎を威嚇する。暴れ抵抗する母馬の様子に子馬も自らの身におころうとしている危険を察知し嘶いた。この世に生を受け、初めて発した鳴き声は悲痛な叫びだった。

 子馬は力の入らない片前脚を折り、ふらつくからだを何度と打ち付けては必死に立ち上がろうとする。その姿は楢馬を庇おうとしていた。だが桜太郎が降り下ろした鎌は庇った楢馬の顔側面を傷付け、吹き上げた返り血は辺りを紅い血の海へと変えた。が、子馬の命を奪うことは出来なかった。

「楢馬っ!」

 駆け寄る母親をも馬は威嚇し、近付けまいと不自由な胴で子馬は楢馬を庇った。


 *     *


 ガチン、ガチン、ガチン…………。

 規則的に続く強固な音が響き、巨大な歯車が目の前で噛み合っていく。

「楢馬……」

 まだ幼い少女がしくしくと泣いていた。見えない顔に手を伸ばそうとすると、少女はどんどん離れていく。

 歯車は更に回り続け、音が激しさを増した。

 

 *     *


 痛みに目を覚ますと布団の中だった。どれだけ寝ていたのだろう。家業に出たのか農作業に出たのか、部屋の中には誰も居ない。

 被われた片方の視界に、頭から顔側面に巻かれた布へ手を伸ばした。その時、兄に逆らい子馬を庇って斬り付けられたことを楢馬は思い出した。

 子供が負うには重すぎる傷だった。なかなか止まらない血。下がらない熱。三日うなされ続けていたことを楢馬本人は知らない。

 楢馬はうようにして馬屋へ向かった。

 痛みにふらつく體。視界がぼやけ、思うように物が捉えられない。だがその視界は馬屋に射し込む光によっていっきにひらけた。

「…………良かった」

 子馬は生きていた。母馬に寄り添いそこに居る。楢馬に気付くと、渡された柵の隙を抜け、ぎこちない足取りでゆっくり近付いて来た。愛くるしいひとみを楢馬に向け、じっと見詰める。それはまるでお礼を言いに来たようだった。

 立ち上がった子馬は自分と変わらない背丈だった。楢馬はそっと手を伸ばし、銀色にも見える毛並の背を撫でてやった。

「良かった……良かったな…………」

 ここで子馬と共に奪われてもいいはずの命だった。だが楢馬も子馬も生きている。

「名前を付けるんだな」

 馬屋へ入る楢馬を見掛け、後を追って来た桜太郎だった。

 逆らった楢馬を許した訳ではない。だが苦しい生活とはいえ、弟に斬り付けた罪悪感もあった。

「兄さん……ありがとう」

 楢馬の痛々しい姿、子馬の黒く輝くひとみに見詰められ、桜太郎の胸は酷く痛んだ。同時に憎しみが湧いた。

「満月の夜に、今にも消えてしまいそうな三日月のような命で産まれた牝馬ひんば。お前の名は満月姫みかつき!」

 

 *     *


「遠くへ行くなよー、満月姫!」

 楢山ならやまを駆け上がる満月姫は生命に満ち溢れていた。産まれた時からある脚の具合の悪さなど、殆ど見受けられないほど立派に育っていた。

 楢馬は枝打ちに上がった楢の木の上から駆ける満月姫を眺め、嬉しさに片側しかない目を細めた。

 たくましい山の男に成長した楢馬はあの夜、命と引き換えに片目を失ない、かぶった手ぬぐいで隠す頭から顔側面には、髪も生えないザックリと削ぎ落された大きな傷が深く残った。

「楢馬、今日はこの辺にしておこう」

「はい。富爺とみじぃ

 山を少し下ると、粗末な小屋のような、けれどしっかりした造りの家と、炭焼き窯の小屋があった。そこは炭焼きの爺の名で通る、富吉とみきちの家だった。

「お帰り」

「姉さん…………。ここへ来たらまた怒られるよ」

 出迎えたのは楢馬の姉、タマだった。村では評判の美人でありながら、だいぶ年頃を過ぎた二十三歳にも関わらず嫁に行かずにいた。夕餉ゆうげの仕度を口実に度々黙って山を登って来ては、弟の様子を見ている。そのことで、家では見付かるたび、家長である桜太郎に叱られ虐げられていた。

「暗くなる前に送るよ」

「大丈夫よ。何が出るって訳じゃなし。逆に山道で人を見たりしたら、相手の方が驚いて逃げてくわよ」

「爺」

 構わないタマを心配し、楢馬は『何とか言ってくれ』と言わんばかりに爺に承諾を求めた。

「そうしてやれ」

 陽が落ちた山は木々の影に暗くなるのが早かった。

「満月姫に乗りなよ。夜の山道は足場が悪い」

「でも満月姫は脚が……」

 心配するタマの着物のたもとを噛み、満月姫は自分の胴へと優しく引き寄せる。

「満月姫も乗れって言ってる」

「うん……ありがとう、満月姫」

 わらで編んだ粗末な手綱を楢馬は手にする。何も言わずに通じる満月姫には必要ない物だった。だがタマの安心の為には満月姫も嫌がらず手綱を着けることを許し、鞍の代わりの敷物を背に敷くのを許した。

 ランプのぼんやりとした灯りを頼り、静かな山道に満月姫の蹄の音だけが響く。

 暫く黙っていた楢馬はぽつりと口を開いた。

「姉さん……生活は苦しくないか?」

 満月姫は楢馬の言葉を聞き脚をゆっくりと止めた。タマの體に反動がいかない優しい足取りで。

「大丈夫よ」

「困ってるなら言ってほしい。俺はいつでもまた街に出られるよ!」

「楢馬!!」

 タマは悲しさと怒りを混ぜ合わせた顔で首を振る。その目が駄目だと訴える。

 楢馬を傷付けたのが実の兄桜太郎だと知ったのは、十五歳になってからだった。まだ幼かったタマには、事実は知らされなかった。

 

 *     *


 満月姫が産まれて三年、楢馬十一歳。


 楢馬は黙って村を出た。自らを見せ物にする為に。

 村から街までは切通を抜け、そこから更に汽車に乗る程の距離。楢馬は脚の具合が悪い満月姫に乗り、半日かけて街へ出た。

 賑やかな街頭でかぶっている手ぬぐいをはずせば、ただ立つだけでかねを稼げた。楢馬の深く惨い傷、脚の具合が悪い馬。どちらもそれだけでいい見世物になれた。

 稼いだその銭で満月姫の餌を確保し、家族の生活の一部にあてた。何度も黙って村を出ては銭や食糧を持ち帰る。楢馬を訝しがる大人達がいないはずはなかった。親類の大人達は理由を知っても手放しで喜ぶばかりだっただろう。だが兄桜太郎だけは違った。楢馬が銭を稼いでいる方法を知った時、自らの罪悪感と家督問題に理不尽な腹を立てた。

「お前は更に恥をさらすのかっ! ただでさえその顔で、周囲から何て言われてると思ってるんだ!!」

 満月姫と共に三日納屋に閉じ込められ、四日目、楢山へ連れて行かれた。

 とうとうその時が来たと子供ながらに楢馬は覚悟した。思いが分かるのか満月姫の眼には涙が潤み、瞼を閉じると決壊した涙が長いまつ毛に滲み、雫となって頬へ伝った。

「満月姫、山道は慣れていないだろ。足は大丈夫か?」

「…………。」

 桜太郎は後ろを来る楢馬を黙って睨み付けた。その目は憎しみや苛立ちが混じり、冷やかに嘲笑っている。

 満月姫は楢馬の気持ちに応えるように、一歩も脚を止めることなく動かしにくいその脚で山道を歩き続けた。

 山道を進むと、忽然と一軒の小さな家が現れた。まだ使われていない造られたばかりの馬屋もあった。家の向こう側からは白い煙が木々の合間をぬって空へと立ち込めていく。そこは炭焼きの富吉爺の家だった。

 富吉爺は村の者とはあまり係わりを持たず、一人楢山の中腹で炭を焼き暮らしていた。変わり者と村では言われているが、実際、どこの何者なのか知る者はいない。ただそれだけだった。

「来い」

 桜太郎は富吉爺と二言三言話すと、嫌がる満月姫の手綱を曳き、造られたばかりの馬屋へ連れて行き繋ぎ留めた。そのまま楢馬の横を通り過ぎ、何も言わず山を下りて行った。

 捨てられたことだけは分かった。


 爺は余計なことは一切言わなかった。「入れ」「食え」「寝ろ」何の説明も無いまま、自分の立場に楢馬は素直に黙って従った。家の中へ招かれ、夕餉や寝床まで出される。さもすれば自分の家より良い物だったかもしれない。だが不安で眠れなかった。


 木陰の合間から月が僅かに見えていた。ふくろうらしき鳥が鳴く。山の気温は麓より低い。楢馬は寝床を抜け出し、馬屋に繋がれた満月姫の元に居た。撫でてやり、抱き付く満月姫は優しく暖かい。

「寂しいのか?」

 不意に掛けられた声は、爺の人間らしい心のこもった問いかけだった。寝床から抜け出し、探すまでもなく楢馬の居所を見付けた爺。

 楢馬は不安な気持ちを口にする。

「お爺、満月姫を殺すの?」

「満月姫? 馬か……否。馬は買った。買ったらお前が付いて来た」

「じゃ、満月姫は殺さないんだね! 良かった。良かったね、満月姫」

「自分の身は案じないのか?」

「満月姫が生きていれば、俺は死んでもいい。でも俺も死なない。満月姫を守る為に」

 子供ながら愛馬を守ろうとする楢馬の確固たる姿を爺は見て取った。

「守るなら働け。働く為には良く食って寝ろ。今は寝る時間だ」

 次の日から楢馬は爺の仕事を手伝い始めた。教えてくれることはなく、見よう見真似で手伝っては邪魔だと叩き出され、それでも楢馬は何度も何度も食い下がり、仕事を覚えた。

 暫く経って、楢馬の母タキと姉タマが訪ねて来るようになった。

 母に連れられ黙って付いて来るだけだったタマは、兄に逆らった楢馬が山へ連れて来られたのは仕方無いことだと、何の疑いもなく、不思議に思うこともなかった。それどころか、当然のことだとさえ思っていた。


 かめの水を汲み上げ顔の汗を流す楢馬の耳に、物が落ちる音が聞こえ振り返った。

「楢馬」

「姉さん」

「……ッ!」

 後退り、驚くタマの飲み込んだ息が喉の奥から口へと漏れた。楢馬の恐ろしい傷を見るのは初めてだった。怯えるタマを気遣い、十三になった楢馬は慌てて手ぬぐいを被る。

「ね、姉さん。そこに居たのか……」

「その傷……怪我じゃ、ないの?」

 楢馬の傷は明らかに刃物によって削ぎ落とされて付いたものだった。

 タマは、楢馬が足を踏み外し、転んだ場所が悪く酷い怪我を負った。と母親からずっと言い聞かされていた。初めて見た傷に、初めて、疑いを持った。

「…………。」

「楢馬?!」

「姉さん……知らないなら、知らないままがいいよ……」

 深く問い詰められるのを恐れ、楢馬はその場から逃げ出した。仲良くしてくれる姉に嫌われるのが怖かった。自分の傷の理由を姉のタマが知らない。もし、理由を知ったら? それを考えると衝撃的で、悲しさや辛さが激しく心に突き刺さった。それはタマも同じだった。自分だけが知らない隠された事実がある。

 山からの帰り道、タマは母を問い詰めた。

「貴女はまだとおになったばかりだったから……」

「どうして私に黙ってたの! 私だけが知らなかったのっ!?」

 聞かされた事実は半信半疑で、家に帰ることが恐ろしくなった。母が足繁く山へ来て楢馬を心配する理由も分かった。それだけに、自分にだけ知らされていなかった事実に腹も立て、怒りも湧いた。いつからか、タマがこっそり一人で山へ来るようになったのは、その時真実を知ってからだった。

 

 *     *


「じゃ、姉さんおやすみ」

 村の明かりが見える所までタマを送ると、そこで別れた。

 楢馬は満月姫の背に跨がり、腿を絞め込むのを合図に満月姫を走らせた。陽はすっかり落ちている。こうしてタマを村まで送り、満月姫と一緒に思うまま山道を走り抜けることが、一時の楽しみでもあった。

 枝葉の青い色付きや紅葉、鳥のさえずりや獣の気配。川を歩き、雪山も走り抜けた。満月姫と共に楢馬は長い年月の季節を肌で捉えた。

「脚は痛くないか? 明日は炭を駅まで運ぶんだぞ。いっぱい食って休めよ」

 馬屋に戻り餌をむ満月姫の胴を、藁を丸めて作ったくしで丹念に丹念に毛繕いしてやった。胴から蒸気を上げ、満月姫はそれを嬉しそうに受けた。


 爺や楢馬が焼いた炭は街へ出荷される為、駅へ運ばれ貨物に積まれる。山から運ぶのがもちろん満月姫の仕事だった。

「恐ろしい顔だなぁ」

 無事、炭を運び終え帰る道すがら、駅から楢山までは村を通らなければ帰れなかった。行きは早朝山を出て、村人に会うことはほとんどなかった。だが帰りはどうすることも出来ない。

「アレが例の奴だよ。いい年して馬の尻追っ掛けてるっていう」

「あぁ」

「おい、聞こえちまうぞ」

「かまうかよ!」

 楢馬のことを知らない若い村人もいた。山で暮らすようになってもう十年になる。

 隠しても目立つ姿は悪い噂を立たせた。

「胸を張れ」

「爺」

「言いたい奴には言わせておけばいい。言われて嫌だと思うなら、己の道を見直せ」

「嫌なことあるかよ! でも姉さんには迷惑をかけてるんじゃないかって……」

「姉さんがそう言ったのか?」

「…………。」

「思ってるかもな。迷惑だって」

 揺らぐ楢馬の思いを爺は見抜き、辛く突き放した。

 

 *     *


「楢馬ーっ、楢馬~!」

 さぼる楢馬を呼ぶ爺の声が、下の炭焼き小屋の方から聞こえていた。満月姫のピンと立った耳は警戒し、前後する。

「もう少し休んだら戻るから、心配すんな」

 どこか寂しげに山の麓を見ている楢馬の背中を、満月姫は鼻先で押し出した。

「何だよ、満月姫?!」

 更に満月姫は鼻先で楢馬の背中を強く押す。その間にも爺が呼ぶ声が満月姫の耳には入ってきていた。爺は楢馬に届かない声で満月姫の名を呼んでいたのだ。

 楢馬の背中を強く一押しすると、満月姫は身を返し先に山を降りて行ってしまう。

「何だよ満月姫、裏切るのか!」

 爺の作戦勝ちだった。満月姫を追いかけ、楢馬も山を降りて来たのだった。


「あれ? 姉さん」

「どこ行っていたの? 楢馬。さぼってたんでしょ」

 今まで続けてタマが来ることはなかった。家に居づらいことは知っているが、タマも我慢している。そのことは知っていた。

「今日も来たの? あんまりここへ来ちゃ駄目だって母さんも……」

「そうだけど、夕餉の仕度は私がやった方がいいでしょ。ね、お爺」

 爺はタマの顔を一瞬見るが、また直ぐに一日の片付けへと手を戻してしまう。良いとも悪いとも口にしなかった。

 それから毎日やって来るようになった。夕餉の仕度どころか昼にはやって来て、畑仕事を手伝ったり、手が空けば楢馬と無駄話しをして過ごす。

「アンタは良いじゃない! 楢山に馬が居るのが見えたから楢馬しょうま。私なんて田んぼに馬が居たから田馬タマよ。猫じゃあるまいし」

「馬屋に馬が帰ってるのを見たら、馬々ばばだったかもな!」

「子供の頃からおばばなんて名前、嫌よ!」

 他愛ない話しで笑い合うタマや楢馬を見るのを爺も嫌ではなかった。成長を見届けて来た爺はそんな何気ない家族や姉と過ごす時間を、人間として楢馬に味あわせてやりたいと思っていたからだ。

「長男の兄さんはやっぱり俺達とは名前の付け方が違うよな。桜太郎おうたろう

 窺うように楢馬は兄の名を出した。

 楢馬は兄桜太郎を憎んでいなかった。むしろ自分と満月姫を生かしてくれたことに感謝していた。だがタマは明らかに桜太郎の名に嫌悪し、顔を背ける。

「姉さん、家で何かあった?」

「……そろそろ、夕餉の仕度を始めないとね。楢馬、薪を持って来て」

 何も聞いてほしくないと、笑顔を作るタマは言っているようだった。だが楢馬は薄々理由に気付いていた。


 美人で知られたタマに縁談が無いことに、毎日毎日、兄桜太郎からタマは嫌味を言われ続けていた。

「家には馬に取り憑かれた化物が居るって言われるんだ。だからお前に良い話が来ない。お前が同じ馬の化物を産むって!」

 桜太郎は腹を立てていた。厄介払いしたはずの楢馬がまだ自分の足を引く。母親も桜太郎の妻も家を守ろうと必死な桜太郎には何も言えず、家の中はギスギスし、堪えられないタマは山へ逃げて来ていた。


 化物。馬に取り憑かれている。噂は隣村にまで広がっていた。もちろん楢馬本人の耳にも。そんな酷い言われようの中でも、村で楢馬を見掛ければ声を掛けてくれる人も僅かだがいた。だがやはり周囲の目を気にし、挨拶程度で足早に去って行く。

 そんな中、

しょうちゃん。しばらくぶりね」

 一つ年下のハナだった。

 ハナとはまだ傷を負う前の子供の頃からの知り合いで、同じ商家の家の者同士良く一緒に遊んだ仲だった。だがハナの家は同じ商家でも楢馬の家よりいくらか裕福で、気兼ね無く声を掛けてくれるのは嬉しかったが、楢馬も年を重ね、世間体というものを知り気が引けた。その上、以前に立ち話をしている姿をハナの親に咎められ、「そんな恐ろしい男と話すんじゃありませんよっ!」と無理矢理連れて行かれる姿を見ている。それ以来、話し掛けられると複雑な思いに怯んでしまう。満月姫にもその状況が分かるのか、嫌がる仕草で楢馬の帯を噛み、その場を離れようと催促する。

「急いでるから、また」

 その場を逃れる為の常套句だった。それはハナにも分かっていた。分かっているから、楢馬が村を通りかかるたび声を掛けるのだ。


 タマが毎日山へ来るようになって六日目になろうとする朝早くだった。突然桜太郎がやって来た。

「富吉爺、話がある」

 土足で入り込む勢いで、訪ねて来た桜太郎は楢馬のことなど目には入っていなかった。

「楢馬、外へ出ていろ」

「…………。」

 爺の一言に従った。楢馬は馬屋に行き、繋いだ満月姫を外へ放した。満月姫は決して好き勝手に歩き回ることはなく、軒下の踏み石へ腰を下ろした楢馬の傍を離れなかった。

 中から、兄桜太郎の理不尽な話が聞こえてくる。

「あれは家の馬だ!」

「お忘れかな、桜太郎さん? 十年前、私が買ったことを」

「あの時とは状況が違う! かねと身合ってないじゃないか! 満月姫があんなに良い馬に育つなんて、誰が予想出来た」

 言って愚問だったことは桜太郎が一番良く分かっていただろう。

「楢馬。」

「…………。」

「楢馬だよ、桜太郎さん。楢馬が命をかけて、愛情をかけて育てた」

 桜太郎は奥歯をぐっと噛み締める。

「なら……なら、尚更、タマが嫁に行く為だ。タマの為なら楢馬だって」

 話の全容は分からなかった。だが兄桜太郎は姉タマの為に満月姫を欲しがっている。それは確かだった。

 見えない本筋に黙って聞くことしか出来ない楢馬の頬へ、満月姫は首を下げ自分の頬をすり寄せた。

「…………心配ない」

 戸が勢いよく開くと、桜太郎が険しく肩を上げ出て来た。楢馬と満月姫を睨み付けるが悔しそうに眉を寄せ、何も言わず山道を下りて行った。

 爺から何の説明も無いままその日は過ぎた。タマも姿を現すことはなかった。

 次の日、いつも通り何ら変わらない時間が流れた。木の枝下ろしや伐採をし、薪を割り始める頃にはひょっこりタマも姿を見せた。

 きのうの話が気になる楢馬だったが、内容が内容だけに切り出せずにいた。姉のタマにさえ、訊くことが出来ない。そんな時、爺が珍しくタマに話し掛けた。爺が自分以外の誰かと長く話す姿を、見たことも聞いたもこともない。初めてだ。それだけでも珍しいことだったのに、更にはタマに話し掛けるとは。

「お田馬さん、街まで使いを頼まれてくれないか」

「はい……?」

「爺、使いなら俺が」

「お前では駄目だ」

「姉さんを一人で街まで行かせるなんてこと、出来ないよ」

「一人とは言わん。満月姫を連れて行けばいい。馬でなら汽車に乗らずとも半日もかからんだろう」

「満月姫を…………」

 タマと楢馬は不安気にお互い顔を見合わせた。


 楢馬がタマの同行を許されたのは、村外れの切通の手前までだった。

「楢馬、一人で心細くない?」

「大丈夫だよ。姉さんこそ大丈夫か?」

 タマが言うように確かに心細かった。満月姫が産まれてからずっと、離れたことなど一度もない。その上楢山まで戻るには村を通らなければならない。爺には「窯出しまでには戻って来い」と釘を刺されている。ここでタマの帰りを待つことも出来ない。

「爺は何を考えてるのかな。使いなら俺に頼めば済むのに。でもこの姿だしな……」

「…………。」

 託された包みを手にするタマは何となく、家に居づらい自分を気遣ってくれたのではないかと思っていた。

「何があっても満月姫の手綱を離しちゃ駄目だよ!」

「平気よ、満月姫は良いだから」

「ああ。満月姫、姉さんを頼むよ。気を付けて!」

 楢馬は満月姫の腰をトントンと叩いた。それを合図にタマを乗せた満月姫は速脚で歩き始め、楢馬は遠ざかって行く後ろ姿を見送った。


 歩き出すが心細い。爺には胸を張れと言われた。それでもやはり心細い。

 コソコソと囁かれては白い目で見られ恐れるように逃げられる。「化物」「馬に取り憑かれている」と言われれば、やはり辛かった。いつもなら満月姫という支えが傍に居る。楢馬は強く思い知らされた。だが、知り合いもいない街へ一人向かった姉タマや、タマを乗せた満月姫はもっと不安で心細いだろう。それを思えば、自分は楢山という慣れた場所へ帰るだけ。それに爺が待っていてくれる。心細さを振り払い、楢馬は胸を張り村を歩いた。傷を隠して俯きがちになる顔を上げて。

 不思議なことに、一人歩く楢馬の姿を見ても、誰一人コソコソと悪い噂をして白い目を向ける者はいなかった。堂々と歩くその姿は逞しい山の男で、山の作業で鍛えられた手足や體に弱さなどどこにもない。化物などと言う言葉はその時の楢馬の姿には思い浮かばなかった。

「遅かったな」

「そうは言うけど、満月姫がいないんだぜ。ひとっ走りって訳にはいかないよ」

 爺は窯出しの作業を始めようとしていた。その手を休めることはなかったが、一つ気持ちを乗り越え成長した様子の楢馬に気付いた。

 

 *     *


 煉瓦造りの建物を見上げ、タマは不安に満月姫に寄り添った。

 街の中でもひときわ大きな建物で、場所を尋ねて歩けば誰もがその場所を教えてくれた。

 質素な着物姿のタマに、街の者ではないと気付いた男が声を掛けた。

「何か、ご用ですか?」

「あの……えっと、あの。島津進吉さんは……、こちらにいらっしゃいますか?」

「どういった?」

 明らかに訝しがり、男は強い口調でタマを見下ろす。

「お爺。いえ、炭焼きの富吉お爺さんの使いで」

「富吉……あぁ、そうでしたかそうでしたか。さ、中へお入り下さい!」

 富吉の名に男はがらりと態度を変え、タマに建物の中に入れと勧める。

「馬はお預かりしましょう。さ、お入り下さい」

「でも……」

 満月姫と離れることに抵抗があった。何があっても手綱を離すなという楢馬の言葉が暗示のように頭を巡る。満月姫も動揺しているのか、脚を小刻みに動かし落ち着かない。

「心配でしたら、私が付いて居ましょう。気になさらずお入り下さい。係の物に案内させますから」

「満月姫……大丈夫よ。大丈夫。待っていて」

 男に言われるまま、タマは満月姫を預けると建物の中へ案内された。中では大勢の男たちが忙しそうに動き回り、一緒に働く女性の姿も何人かあった。文明開化とは程遠い村での暮らし、洋式の建物はおろか、洋装姿の者を見るのも珍しいことで、初めて見る物ばかりの場所に目が回りそうだった。

 三階の奥にある一室に通された。

 中には若い男が一人、机に向かって座って居た。案内して来た男から事情を聞くとタマを出迎える。

「話しは分かりました。遠い所からお一人で、大変だったでしょう」

 爺から預かった包みを渡すと、男に座るよう勧められた。椅子はフカフカで、何で作ればこんなにフカフカになるのか検討もつかず、終始落ち着かなかった。

「…………なるほど」

「富吉爺から頼まれました」

 爺から預かった包みには手紙が入っていた。それを受け取った男が島津進吉という男らしい。スーツ姿のその男はタマより十歳程年上のようで、手紙に一通り目を通すと顔を上げニコニコとタマを見詰める。

「お腹、すいてませんか? 昼食を一緒に食べましょう。何がお好きですか?」

「いえ……」

 タマは戸惑い、満月姫のことも気掛かりで断るが、嫌味の無い人柄に押し切られ、その日生まれて初めて洋食を食べた。



 *     *


 村の中でも裕福な方である商家の屋敷。親娘おやこの言い合う姿があった。

「嫌よ!」

「何故アイツなんだ、よりにもよってあんな男。アイツは片目も無い傷のある恐ろしい男なんだぞ!」

「本人が恐ろしい訳じゃないわ! 傷なんて気にしない」

「化物なんだぞ。馬に取り憑かれてるんだ!」

「そんなの迷信よ、誰かの作り話じゃない! 馬が大事で、好きなだけよ!」

 言えば言い返す娘に父親は困り果て、口をつぐんだ。娘が突然あの男の嫁になりたいと言い出した。嫁に出すには良い年頃だ。だが相手があの男では、世間で何を言われるか。商売にも差し障りが出かねない。もう一度考え直せと口を開けば言う前に「嫌よっ!」と、きっぱり返される。

「勝手にしろっ!」

 言い放って父親は後悔する。だが世間の目は少し変わりつつあった。

 

 *     *

 

 昔、機嫌の良い姿を見た遠い遠い記憶が楢馬には微かにある。まだ小さかった頃だ。そんな遠い記憶にある兄桜太郎がやって来た。機嫌が良いのはいいのだが、返ってその機嫌の良さが怖かった。口を開き、何を言い出すのか。

「お前に縁談がきた」

「…………。……俺にっ?!」

 楢馬は振り下ろした斧を薪材からはずし、恥ずかしくもよろけた。あまりの驚きに薪材を直すことももう一度斧を振り上げることも出来ない。

「先方がどうしてもお前じゃなきゃ嫌だと言ってて」

「な、何の冗談だよ、兄さん。冗談も度が過ぎる。人が悪い、俺に嫁だなんて……」

「冗談の訳がないだろう! こんな良い話はないぞ楢馬」

「兄さん…………」

 断ることも出来なかった。でも喜んで受けることも出来ない。楢馬は満月姫に飛び乗り、桜太郎の追ってこれない山奥へと、楢の木をぬって駆け上がり逃げた。

 それから毎日、タマだけではなく桜太郎までもがやっと来るという不思議な事態になった。嫁をもらうようにと勧めては帰って行く。桜太郎が帰ると程なくしてタマが現れる。タマは桜太郎と出来るだけ会わないようにどこかで時間の調整をしているようだった。

 三日経った時、

「すいません。この辺に島津富吉が住んでいるはずなんですが……知りませんか?」

 楢馬が枝下ろしに登っていた木から降りると、村ではまず見掛けない、ましてこんな山奥では場違いな洋装スーツ姿の若い男が立っていた。

「島津、富吉? 富吉の爺ならずっと下に……」

「登り過ぎたか。子供の頃来た時はもっと険しかった気がしたからな……」

 上着を脱ぎ、汗を拭って息をつくが楽しんでいるように見えた。楢馬を恐がる素振りもない。

「今から爺の所に戻るんで……、良かったら一緒に」

「そうか、それは助かるよ!」

 男は突然履いていた革靴を脱ぎだした。満足した様子で靴を手にすると顔を上げた。

「彼女が満月姫だね。そして君が楢馬君」

 楢馬の「戻る」の一言に、放されていた満月姫は木をぬって駆け脚で戻って来ていた。姿を現した満月姫は馬として均整が取れ、とても美しい。

「…………。」

 男は笑みを浮かべて名を当てた。とっさに楢馬は顔を背け傷を隠す。この傷で知れた名だからだ。満月姫はそっと胴をすり寄せる。

「傷が恥ずかしいのかい?」

「いえ」

「ならならなんで顔を背けるんだい? そんな必要はないだろ? さ、行こうか!」

 不思議な男だった。街の男だが汚れることも気にしない。嫌味は無いが人が避ける所を鋭く突いてくる。楢馬は、似ている人物を知っている気がした。だがそれが誰なのかまでは思い当たらない。そもそも知り合いなど殆どいないのだ、思い当たらないのならば気のせいに過ぎないと納得した。

「爺、お客さんだよ」

 炭焼き窯の横まで男を案内すると、材を積み上げていた爺に声を掛けた。

「ん?」

「お祖父様、お久しぶりです。約束通り参りました」

「進坊……遅いぞ。ビジネスマンに必要なのは決断力と機敏性だ」

 楢馬はただただ驚き、何も言えなかった。爺に家族がいた。『お祖父様』ということは、この男は爺の孫なのか……。十年一緒に暮らしているが初めて耳にすることが受け入れられず目眩めまいがする。

「あら……? この間の」

 聞こえてきた普段と違う話し声に、様子を見に出て来たタマは気付いた。

「迎えに来ました、タマさん」

「え?!」

「また一緒に洋食を食べましょう」

 驚き固まるタマ。進吉は持っていた上着と靴を放り投げ、タマに駆け寄ると手を取りニコニコと笑顔を向けて誘う。その誘いはただの誘いではなかった。だが横でバタリと倒れた楢馬によって誘いは後回しになった。

 

 *     *

 

 幾つもの歯車が噛み合い成り立っていた。その中の一つでも刻みが欠ければ全てが崩れ落ちる。だがその欠けている刻みがあった。

「手を……捕まえて、楢馬…………」

 昔、泣いていた少女だった。だが大人の女になっている。遠ざかる女の顔は見えない。

 迫る刻みの欠けに気付かず、歯車は刻々と進んでいく。

 ガチン、ガチン、ガチン、ガチン…………。

 

 *     *


「……楢馬。…………。」

「……ね、姉さん!?」

 目を覚ますとタマが居た。楢馬にしてみれば倒れる前の出来事は一瞬前の出来事で、驚きと恥ずかしさに顔を赤くする。楢馬には色々刺激が強すぎた。男が姉の手を取って一緒に行こうと誘っている。その男はどうやら爺の孫のようで……。

「姉さん……俺、変な夢見たのか?」

「驚いて倒れたんだね。病気でないなら良かった。でも驚かれた理由は私かな?」

 楢馬の顔を覗き込んだ進吉は相変わらずニコニコとしていた。だがその顔は明らかに面白がっている。驚いた楢馬は逃げ道を探し、布団の上であたふたとするばかりだった。

「ただ腹が減ってるだけだ。楢馬、起きて飯を食え」


 爺が話し出したのは、夕餉が済みランプの灯しが頼りになってからだった。

「お田馬さんを孫の進吉の嫁にとずっと考えていた。だが桜太郎さんが突然、満月姫号を付けるならお田馬さんを嫁にもらってもいいと言ってる人がいると言い出した」

 楢馬が訊くに訊けなかった話しだ。黙るタマの様子からすると、タマ本人もそれを知っていたのだと楢馬は思った。

「そこでお田馬さんに使いを頼み、進坊の元に行かせた」

「あの手紙にはその事が書いてあったんですよ。気に入ったら私の嫁にしろってね」

「…………。」

 タマは恥ずかしさに思わず俯いてしまう。あの時知らずに品定めされていたのかと。

「私は一目で君を気に入った。もう少し不細工だったらもっと良かったんですけどね。仕事でよく人に会うんだ、あまり器量が良いと心配で隠しておきたくなる」

 遠回しな表現ではあるが、明確にタマを美人だと言っている。

 世間の男がこういうものなのか、街の男がこういうものなのか。楢馬は口をポカンと開け、進吉を見詰めてしまう。

「タマさん、私の所に嫁に来てくれますか?」

「どうかな、お田馬さん? 悪い話じゃないと思うが」

「…………。」

 タマにとってまたと無い良い話だった。

「楢馬君、お姉さんをもらっていいかな?」

 進吉の真剣な眼差しに、楢馬は気のせいではないとこの時気付いた。姿はまったく似ていないが、進吉は爺と雰囲気や考えが似ている。似ても似つかない優しい笑顔には嘘が無い。

 恥じらい俯くタマの横顔を見た時、嬉しそうに見えた。

「姉さん……俺、この人好きだよ。姉さんもだろ?」

 タマはコクンと頷き、手を付いた。

「……よろしく、お願いします」


 タマは進吉の元へ嫁に行くことになった。桜太郎にも反対する理由がなく、話しは直ぐにまとまった。

 進吉は街に大きな建物を所有する程の実業家。そんな相手に不服などあるはずが無く、楢馬のことも全て了承済みだったことに桜太郎は喜んだ。

「満月姫……楢馬に伝えてね、ありがとうって」

 花嫁姿のタマを乗せた満月姫は、頷くように頭を下げた。

 嫁入り道中に参加することは許されなかった。満月姫を姉タマの為に貸し出した楢馬は、一人遠くからその姿を見守った。

 

 *     *

 

 言いたいことを言えずにいた。そんな楢馬の背中を満月姫は鼻先で押す。楢馬は怒って何度も払うが満月姫はやめようとしない。

「どうした、何か言いたいことがあるのか?」

「あ、う……うん、爺は何でここに居るんだ? 俺が子供の頃から居るだろ、家族は。街に住んだこともあるのか?」

「昔、街で大きな仕事をした。休まず働き、銭も困らない程貯まった。働くだけ働いたから、仕事を息子や孫に任せ、のんびり静かな山奥で暮らそうと婆さんと二人でここへ来た」

「そ、そうか……」

「気になるのか?」

「いや。今までそんなこと考えもしなかった。でも、それって変かな?」

 爺は皺を重ねた顔でニコリと笑う。その顔に、義理の兄となった進吉はやはり似ていると楢馬は思った。だが何故今、爺が笑ったのかまでは思い当たらなかった。

 山で生きることだけが全てではない。世の中へ目を向けるようになった楢馬が爺には嬉しかった。

「お前ももう二十一だ、良い話があるのだろ?」

「……本当に良いのか、分からない。俺なんかで。でも、兄さん達の為になるのかな」

 母や兄、兄の家族を喜ばすことは出来るかもしれない。そう考えた。


 機嫌良く桜太郎がやって来るようになってからというもの、楢馬は毎晩、満月姫の毛繕いをしながら独り言のように語り掛ける口数が増えた。

「自分のことばっかりじゃいけないんだよな、満月姫……」

 楢馬が何を考え答えを出したのか、満月姫には分からなかった。ただ哀しげな丸い眼を潤ませ楢馬から離れて距離を置いた。


 嫌いな足音が近付いて来ることを満月姫は察した。耳は忙しなく前後し、前脚で地を何度も蹴る姿は警戒しているのだと分かる。堪え切れず、満月姫はいななき楢馬を呼んだ。恐怖に暴れる満月姫を楢馬がなだめると、兄桜太郎がやって来た。


 なんとしても楢馬この縁談をまとめたいのか、懲りもせず桜太郎はやって来た。相手も同じ思いだったのか、粘り強く勧めてくる。

「どうしてもお前が良いと言ってるんだ。お前の為じゃない。家の為に決めろ」

 断り続けて一月ひとつき以上も経っていた。その間にはタマの祝言もあった。

「…………分かりました」

 言った楢馬はなだめた満月姫のたてがみをきつく握り締める。心の中の折り合いはまだ確実にはついていない。だが良いと思われる返事をすることで折り合いをつけようとした。

 そんな楢馬に桜太郎は驚いた。頑固な山男に育てあげられた楢馬のことだ、どうせ今日も断るのだろうと、無駄足を覚悟していたからだ。だが聞いた言葉は承諾の一言。

「…………そうか。そうかっ! 承けるか。いつまでも満月姫号のことばかり構っている訳にはいかないからなっ!」

 喜び勇んで、桜太郎は詳しい話もせず山を下りて行ってしまった。相手が誰なのか、これからどこに住むのか、気付けば何も聞かされないまま楢馬は高砂たかさごの席に着かされることになった。


 花嫁姿で居る相手の顔も見ていない。食事や酒が振る舞われ、賑やかだ。

 姉タマも帰って来ていた。義兄進吉と並ぶ幸せそうな姿は、楢馬にとっても嬉しい姿だった。兄桜太郎も酒が入り陽気で、母も招いた親戚と嬉しそうに談笑する。爺も来ていた。その全てが他人事のようだった。見えない片目も頭から顔側面にある傷も消えた訳ではない。全て現実だが絵空事で、消えて無くなってしまいそうで恐い気もした。

「楢ちゃん……」

 膝の上に置いた自分の手に、不意に重ねられた手の温もり。楢馬は驚き、反射的に振り払ってその手と声の持ち主を確かめた。

「ハナ……ちゃん」

 楢馬の相手として高砂に並んだ女は、幼い頃よく一緒に遊び、周囲の目も気にせず度々声を掛けてくれたハナだった。


 夜も更け、賑やかだった祝言も終わり楢馬はハナと二人きりになっていた。

 白く華奢な手を振り払ってから一言も言葉を交わしていない。まして、義兄が姉の手を自然に取ったように、ハナの肌に触れようという気にはなれなかった。

 いたたまれず、楢馬は背を向け立ち上がった。

「……どうしたの?」

「俺に構わず先に寝てくれ」

「先にって……」

 予想とは違う楢馬の行動にハナは戸惑った。親に教えられたこととはまるで違う。黙っていれば全て済むと教えられた。だがハナは黙っていられなかった。夫が部屋を出て行こうとする。

「あの……、あの馬の所へ?」

「…………。」

「やっぱりあの馬の所へ行くの? 私はあの馬に負けるのっ?! ね、楢ちゃん! あの馬がいいの? 人間の私より、馬がいいのっ!?」

 楢馬は哀しい目でハナを睨み付ける。そして、そのまま出て行った。

 ハナがえがいていたものは一瞬にして崩れ堕ちた。

 楢馬は馬が好きなだけ、大事なだけ。それを分かっているのは自分だけだという自負があった。楢馬が胸を張り堂々と一人村を歩いたあの日、村人が楢馬を見る目を変えた。「家の娘を嫁に」そう言い出す者が現れるのも時間の問題だと思った。現にそういう声も聞いた。あれ以来、コソコソと悪い噂や陰口を言う者も居なくなり、友達は「今なら嫁になってもいいかも」と笑った。楢馬に話し掛けるのは私だけ。楢馬が話せるのは私だけ。別の女が楢馬の嫁になるなんて、許せない。そんな強い思いが親を説き伏せた。それなのに…………。


 慣れない馬屋に落ち着かない満月姫は、楢馬の足音に気付き首を伸ばして顔を覗かせる。

「満月姫、大丈夫か? 慣れないだろうけど、辛抱しろよ。お前が産まれて三年は暮らした馬屋だ。これからはまたここで暮らすんだからな。明日の朝には山へ行ける。爺にも会えるさ」

 藁を丸めて作った櫛を握り、楢馬は満月姫の毛繕いを始めた。気持ち良さそうに眼を細め、落ち着いた満月姫は大人しくなる。

「お前が人間だったらどんなに良かったか。こんなに苦しいことはないのにな…………」

 満月の夜だった。月明かりに光る満月姫の毛は美しく、滑らかで、銀色にも見えるその色は子馬の頃から変わらなかった。

「…………あんたが……」

「……?」

「あんたがいけないのよ。全部あんたのせい……あんたのせいよ、満月姫っ!!」

 十二年前の蒼白い満月の夜、ここで桜太郎に振りかざされた鎌の閃光を満月姫はその黒い眼に甦らせた。重なるその姿は、懐刀を両手に握り締め振り上げたハナだった。

「やめろッ!! 満月姫ーっ!」

 悲鳴のような嘶きに脚をもたげる満月姫。庇おうとする楢馬の體を弾き飛ばし、満月姫は自らの胴をていして庇った。かれた胴から深紅の血が吹き出し、辺りへと飛び散った。血に染まる楢馬の腕に、脇腹に刀傷を負った白く美しい肌の満月姫という女が倒れ込んだ。

 満月姫が永い間願い続けていた思い。

「楢馬と同じ、人間の女になりたい……」

 思いはハナの刃によって叶った。同時に、短い命の時を刻む歯車が動き出す。

 

 *     *

 

 刻みが欠けた歯車まで、もう残りは少なかった。だがその歯車を止める術はない。

「楢馬……ありがとう。一緒に居られて、私はとても幸せだった」

「満月姫?」

「ええ」

 いつも夢の中で会っていた少女。初めて見るその顔が、一目で満月姫だと分かる。恋しくて、触れたくて。手を伸ばすが捕まらなかった満月姫という女。

「こ、ここは……?」

「遠い、けれど確実に来る未来」

「未来……?」

 見える物全てが奇怪に見えた。建物はおろか、音や空までもが違う。だがそれが不思議と自然に受け止められ、違和感がない。

「あの子が私」

 母親が押すベビーカーの中で、まだ小さな少女が泣いている。目をこすりながら、母親に抱き上げられるのを待っている。その横を男の子が走り抜けた。その先には動物の形をした遊具があった。

「そしてあれが楢馬、貴方」

「満月姫と、俺」

 二人に接点はまだない。

「私を見付けて。必ず」

「どうやってっ!?」

「印……それと、私の名は……つ……き…………」

 歯車は欠けた刻み部分へと回って来た。けれど欠けた刻みは噛み合わず、崩れた力加減に強固な歯車は一瞬にして弾き飛んだ。一つの歪みから全てが崩れ去って行く。

 

 *     *


 夜が開けた空に稲光が走り抜けた。ポツポツと降り出した雨を楢の枝葉が弾き、楢馬の体に次々と雨粒を落とす。冷たさに目を覚まし、楢馬は横たえていた盛り土から体を起こした。盛り土の下には満月姫の亡骸が埋められている。

 心臓はえぐり出されるようで、涙で溢れた。楢馬は堪え切れず嗚咽を漏らした。


 死神の来訪だとタマは思った。みのを着てずぶ濡れで現れたのが弟だと分かっても、ゾクッとした背筋は収まらない。

「楢馬…………」

 その姿に降り出した雨を知り、咄嗟に何を言えばいいのか分からない。楢馬はハナと共に家の中に居るはずだった。

「いったい……どうしたのっ!?」

「姉さん、頼みが……」

 簑笠みのがさから覗く顔には生気が無い。隠しているはずの顔の傷もそのままだ。まるで病人のように蒼白し、痩けた頬はきのう見た楢馬とは別人だった。よく見れば、裾をからげた着物は不気味にも赤黒く染まり、土に汚れている。

「満月姫の為に……花を手向たむけてほしい。毎月、毎年……きっと」

「楢馬? 満月姫の為って?」

「姉さん、頼みます」

 頭を下げ身を返した楢馬の簑笠から、引き留めようと出したタマの手に雨が雫となって流れ落ちた。

 朝早い訪問に心配した進吉が戸の前で見付けたのは、外を眺めたまま経ち尽くすタマの姿だった。進吉はその横へ並び、肩へ掛けた自分の羽織をタマの肩へ掛けた。

「どうした、お田馬?」

「進吉さん。楢馬が…………」

 雨の中へ消えた楢馬を思い、二人はそのまま外を眺め続けた。


 馬屋で血溜まりに横たわるハナが見付かったのは、直ぐ後のことだった。

 誰もが、楢馬がハナを斬って逃げたと思った。だがハナには傷一つ無く、気を失ない、懐刀を握り締めたまま離さなかったことから、その疑いは無くなった。

 ハナは実家に帰され、楢馬の捜索がその日の内に始まった。楢馬がハナを斬ったのでなければ、ハナが楢馬を斬ったのか。何日も続いた捜索にも関わらず楢馬はついに見付からなかった。

 血溜まりの謎と共に、楢馬の行方は謎となった。



 盛り土と並ぶ穴に体を丸めて横たわる楢馬。立ち並ぶ楢の幹と共に爺はその二つを見下ろした。

「貫き通したその思い。あっぱれだぞ、楢馬。来世でまた会おう」

 爺はすきを手に、穴めがけ土を投げ入れた。




 *    *    *

 

 街中にある趣味と道楽としか思えない小洒落たバイクショップは、立派に店として成り立っていた。その証拠に従業員を雇っている。が店に利益が出ているのかは正直、従業員も疑っている所だった。

 就業ギリギリの更衣室、従業員の二人はのんびり着替えていた。作業着のツナギに着替えるのに時間を要さないことを分かっているからだ。

「お前、腹どうしたんだよ?」

 上半身裸になり、肌を露出した後輩の姿に驚きの声をあげた。

「ん? あぁ、生まれつきのアザっすよ」

「あ、悪ィ。そんなアザあったなんて知らなかったわ」

 気まずそうに頭を掻いたのは先輩である整備士の桜庭だった。

「まさか誰かとやりあって?! とか思っちゃって」

「オレどんだけですか? そんなヤバイことしないっすよ」

馬込まごめ、お前なら何かやりそうじゃん」

 先輩の言葉に小さく鼻で溜息をついた。どちらかと言えば物静かな性格で通している。そのことが災いし、物騒な方へと見られている。

「生まれた時からあるんですよ。何か凄く大事な印のような気がして……」

 紅いアザが胴をくように脇腹にあった。不思議と愛おしささえあるそのアザをなぞってからTシャツを下ろした。


    *   *


 前日。

 店内の隅にあるオフィスで、ショップオーナーの富田がアルバイトの面接をし、即決で採用を決めた。

「この日を待っていたんだ。それじゃ明日。待っているよ」

「はい。よろしくお願いします」

 挨拶に頭を下げ、笑顔を覗かせた少女。その額の隅には、誰もが直視するのをはばかるものがあった。前髪で隠れているものの、少女にわざわざ隠している様子はなく、むしろ見せるように前髪を横へかき流した。それはまるで、斬られたような紅いアザが額から目尻まで掛かっていた。


 

    *   *


 更衣室を出てから、オーナーの目を掻い潜りこっそり無駄口をききだしたのはもういつものオープン時間直前だった。

「おい馬込!」

「何すか、桜庭先輩?」

 気の抜けた返事をしたのは、こういう時いつも興味の無いアイドル話や女の子の攻略法を延々聞かされるからだ。話し半分に工具を手にした。 

 捲り上げた袖口からは、長い腕と筋肉質の肌が見えている。

「今日からアルバイト入るらしいぜ! 女の子」

「そうっすか」

「おい、もうちょっとテンション上げようぜっ! 女の子だよ、女の子っ!」

「はぁ……?」

 はっきり言って邪魔だった。先輩だけに無下に出来ず生半可な相槌を打つが、客に頼まれた仕事の期日が今日の夕方に迫っている。

「お前ホント、マジ女の子にも興味ないわけ? 鉄馬バイク一筋なのか?」

「イヤ、そんなことも……」

 客から預かったバイクを間にはさみ、覗き込んでくる先輩にとうとう持っていた工具をしゃがんでいた横に置いた。仕事をしている体でそのまま床に座り込む。それなりに真面目に答えないといつまでも話が続きそうだったからだ。だが別の所から声が掛かる。

和月かづき! ちょっと来い」

「はい!」

 先輩には悪いが、これで逃げられる。と和月はほっとし立ち上がった。

 呼んだのはショップのオーナー、富田だ。六十を過ぎ、白髪にトレードマークの赤いエプロン姿は、一度見たら印象に残る個性だった。

 そんな富田は、今日という日を。今という時間を。永い間待ち続けていた。

「今日から入ったアルバイト、楢山翔子ちゃんね」

「しょう……」

「コイツが馬込和月ね」

 富田は力強く和月の肩に手を置く。

「愛想ないけど真面目な奴だから。ま、分かってると思うけど」

 翔子は笑顔を富田に向け頷いた。そして目線を移し、先に居る和月と見詰め合う。和月は嬉しそうにゆっくりと翔子へ歩み寄った。

「遅くなってごめん。やっと見付けたよ、和月」

「ああ、見付けてくれてありがとう……ずっと、待ってた」

 翔子しょうま和月みかつきは時を経て、再びこの時代で出会った。


 運命という見えない歯車は噛み合い刻々と刻み続ける。止まることのない未来へと。



              〈終〉

              (2013年3月 完 2022年5月 加筆修正)

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月命恋詩(げつめいのバラッド) @from_koa

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