#2 少女の時間は動き出す
女生徒は変わらず窓辺に立っていた。月明かりに照らされた彼女の像は儚く消えてしまいそうなほど線が細く、けれどはっきりそこにいると知覚させる存在感があった。腰まで伸びる髪が風に揺られ、隙間からきらきら光が差し込んでいる。きれいだった。
こちらに気づいて振り返った彼女は人形のように整っていて現実味がなかったけど、申し訳無さそうに眉を下げる姿をみて、生きているなとぼんやり思った。
「明かりつけるよ?」
パチ、とスイッチを押す。反応しない。廃校なので当たり前だった。
仕方ないのでそのまま近寄ると机の角に当たった。痛い。
……僕はさっきから何をしているんだろう。
「すまないな。拾ってくれてありがとう」
「いえいえ」
そう言いつつ彼女とその周りを観察する。書くといっても何もない。
「風景でも描くの?」
「いや、風景は描かない」
「人物でも描くの?」
「それはなんだ、君がポーズをとるから描いて下さいと言外に言いたいのか?」
確かに今は二人しかいないからそうなるか。
ポーズなんてしたことがないのでぜひご遠慮願いたい。
「……さて、私はペンを手にして何をしたいんだろうな」
少し投げやりにため息をついた彼女は器用にペンを回しながら、思い出したかのようにこちらを向いた。
「そうだ。君はここで何をしてるんだ?」
「屋上からひとが落ちたんだ。だから見に来た」
「ほぉ、ずいぶんと物好きだな」
腰を丸めてくっくと笑う。
「白い制服を着た女の生徒だった」
「ふむ」
「今の君と同じ格好をしていた」
少女は自分の姿を見下ろした。
なるほどな、と頷いてペンを回すのをやめた。
「うん、お互い名前を名乗ろう。私はヒナセだ」
ヒナセ。名字だろうか、それとも名前だろうか。
よくわからなかったけど、僕は名前の方を名乗ることにした。
同じ文字数だったからくらいの小さな理由で。
「僕はアサヒだよ」
「ではアサヒ。私は君に正直に言おう。屋上にいた生徒は私だ」
その言葉は理解できない意味が含まれすぎていた。
「じゃあ落ちたのは?」
「私だ。そうだな、私は幽霊なんだ」
「幽霊」
僕はその言葉に引き寄せられるように彼女の顔に手を伸ばしていた。ヒナセと目が合っていて、緩慢な動作だったのにも関わらず彼女は見つめているだけだ。だから僕の指は自然とヒナセの頬に触れ、透けて通り過ぎる……ことはなかった。
ぷにっと柔らかい感触。吸い付くようなもちもちとした感触だ。夜風に当てられ冷たくなっているけど、ほんのりひとの温かさを感じた。恐る恐るだった気持ちは好奇心に変わり、今度は指の腹でヒナセの頬を撫でてみた。つるつるだ。すべすべだ。なんだこれ。思わず両手で引き伸ばしてみた。おもちみたいに柔らかい。なんだこれ!
「おい」
妙に興奮していると冷ややかな声が浴びせられ、次いで下腹部に強烈な衝撃があった。
からだの芯まで震えるような痛みに僕はたまらず手を床についた。目まいがした。きゅうっと胃とか色々縮こまった。このまま小さくなって消滅するのだと錯覚した。
「乙女の頬を気安く触るからだ、バカタレ」
「すびばせん、でした……」
「ふん。アサヒくらいの年頃の男は異性に興味津々だからな。許してやろう」
もし許されなかったらどうなってたんだろう。
腰をとんとんしながら起き上がる。いま僕はひどく情けない姿になっていると思う。
「でも、幽霊っていうから触れないのかと思ったんだ」
口にしてから、その考えは自分らしくないなと思い直す。
「それは誰も見たことがないイメージ上の幽霊像の話だろう」
「うん。そのとおりだね」
「幽霊は触れない。幽霊は場所に縛られる。幽霊は血の気がないし、誰かを恨んでいるし、写真では恥ずかしがり屋で少ししか映らない。それは間違いだよ」
「じゃあ本当の幽霊はどういう存在?」
僕は思わず訊ねていた。
もちろんヒナセが幽霊だなんて信じているわけじゃないけど。
「幽霊はね、屋上や高いところから落ちたがるんだ」
「なに言ってるの。バカじゃん」
がっかりした。
「心外だなアサヒ。幽霊はね、嘘をつかないんだ」
「その言葉を吐いたやつが信用に足った存在を今まで見たことがないよ」
「ふふふ、そうか。アサヒの初めてを二つも奪ってしまったな」
幽霊は言葉が通じないのかもしれない。
……と呆れつつも、からだの芯がむずむずするからその表現は健全男子におやめください。
「でもその、屋上から飛び降りたんだよね?」
「そう言ってるだろう」
「危なくない? その、死んじゃうよ?」
スッと、前触れもなくペンが目の前に突きつけられた。
「死んでいるのに死ぬよって表現、推敲の余地ありだな」
そしてすぐにペンの位置は下げられた。びっくりした。
「なんだか小説家みたいな物言いだね」
「小説?」
ヒナセはその言葉に思案をし、数秒後に難しい顔をつくった。
「私は小説を書きたいのかもしれない」
「なるほど。こんなところで?」
「いや、場所にこだわるつもりはない。ないが、何か大切なことを忘れているような……」
そうしてウロウロと何かを探すように歩きまわるヒナセをまじまじと見て、本当に幽霊っぽくないと改めて思った。歩いてるし、表情豊かだし、温かいし柔らかい。言動はおかしいかもしれないけど彼女はどうみても人間だ。それは間違いないだろう。
そしてヒナセに釣られて足元に何か落ちてないか探すと、一冊の本があった。暗闇にも目が慣れてきたのか心に余裕ができたのか、それはすぐに視認できた。
窓際で明かりに照らすと、砂浜と小瓶のイラストが描かれた表紙のノートだった。端は少しよれているけど比較的きれいだった。名前は書いていないようだ。
僕がそれを手にしていることに気づいたヒナセが顔を寄せてきた。
「なんだそれは」
「ノートみたいだね」
ぺらぺらとめくる。何か書いていないかと思ったけど、期待と違って真っ白だった。
「なにも書いてないね」
しかしヒナセの印象は違ったようだ。
「これだ」
「なにが」
「私はこれを探していたんだ」
僕の手からぶんどって慎ましやかな胸に寄せてギュッと抱くと、
「よくやった。私はこのノートを探していたんだ。ずっと、ずっと前から」
そんな大切なノートを今の今まで忘れていたのだろうか。
変な感覚はあったけど、嬉しそうなヒナセに水を差すのははばかられた。
そしてお腹が空いた。そう、安心したのだ。
最初はひとが死んだと思って気が気じゃなかったし、ヒナセと会ってからも疑問が多かったけれど、何となく解消されたし、もういいんじゃないかと思った。お腹空いたし。
けれど機会を伺っていた僕に本日二度目のペンが突きつけられた。
「アサヒ。君に呪いと役割を与えよう」
ペン先が向けられる間、僕のからだは金縛りにあったかのように動かなかった。
ペンの向こう側では人形のような造り物めいた端正な顔があった。とてもきれいで見惚れそうになるくらいに。その中でも瞳が蠱惑的で鳥肌が立つほど目を引いた。目的をしっかり捉えたように満ち満ちていた。
彼女は呪いといった。
自称幽霊の台詞だからだろうか、呪いというワードに違和感がなく受け入れている自分がいた。
「一階で待ってるといい」
彼女はそう言うと軽快な足音を立てて去ってしまった。からだはもう動く。先ほどから振り回されてばかりなのを自覚しつつ、校庭に足を向けた。
しばらくして、頭上から金属が擦れ合う重々しい開閉音が響いてきた。
ヒナセが屋上の扉を開けたのだろう。
それを合図に僕は頭上を見上げた。程なくして視界に入る小さな白い影。
そして僕は本日、二度目の落下を見届けることになる。一度目は遠くからだった。二度目は頭上すぐ近くの特等席からだ。屋上の端に立ったヒナセは気負うこともなく境界線を踏み越えた。死の境界線。十メートルの高さで白い制服がふわりと舞った。花が開くように。瞬く間に視界を埋め尽くした花びらは、音も立てずに地面へと叩きつけられた。
そう、音はなかったのだ。本にしおりを挟むような静かさだった。僕には一連の流れが、なにか崇高な儀式のように思えて、現実味がなくて、
「大丈夫、なの?」
大丈夫なわけがない。人は十メートルの高さから落ちて平気なように作られてはいない。けれど僕の眼の前では、仰向けでどうだと言わんばかりに笑う少女がいた。
「どうだ、アサヒ。幽霊は嘘をつかないんだ」
幽霊は高いところから落ちたがることを、僕はこのときに初めて知った。
「君は小説補佐をするんだ。いいね?」
その言葉に僕は天啓であるかのように、ゆっくりと頷いた。
けれど間違いなくそれは呪いだった。
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