あなたがいたから3

 本当に忽然となんの知らせもなくいなかったかのように消えてしまった。

 それもエに出会う直前ぐらいの出来事であった。


 だからエを助けたのはただの慈善でもなく、爺さん探しの最中であったのでたまたま見知らぬ子供がいるとエを見つけた。

 当然話しかけた以上は手助けするつもりもあったけどわずかな寂しさと自分も1人になったのだという共感がエを助ける方向にジを動かしたのであった。


 非常用の不味いパンと美味くないなけなしのスープ。

 これがエが初めて食べた貧民街の食事であった。


「お願い……行かないで」


 もちろん寝る場所もないだろうとジはエに1つ部屋をあてがった。

 爺さんがいないならこの家は自由にさせてもらう。


 古いがまだ使える布団を引っ張り出して敷いてやる。

 

 腹も膨れた。

 食欲が満たされると今度は眠気がエに襲いかかっていた。


 この貧民街で初めて助けてくれた相手。

 眠たいけれど寝るのが怖い。

 寝て、目が覚めた時にジがいなくなってしまっていたらまた自分は1人になってしまう。


 不安でしょうがなく、1人で寝かせてあげるために部屋を出て行こうとしたジの服を掴んで引き留める。


「一緒に寝て」


 近くにいるだけじゃまだ不安だった。

 初めて会った相手にこんなことを言うのはおかしな話だけどジはゴロンとエの横に寝転がった。


「この布団まだ埃っぽいね」


 払ったけど子供のやることだからまだ甘くて、古い布団は埃っぽい。

 クスリと笑ってエの顔を眺めているとエが少しだけ恥ずかしそうにする。


「手を握ってもいい?」


「ん?


 いいよ、ほら」


 モジモジとするエの手を取ってやる。

 人の温もりに触れてようやく胸の中にあった不安が和らいだ。


 手を握られて照れていたエも安心すると眠たくなってきた。

 抗いようもない眠気にエの意識は沈んでいった。


 絶対に手を離さないで、絶対にいなくならないでと口に出すこともできないでエは眠ってしまった。


 長いこと眠った。

 眠れなさそうな薄くて埃っぽい布団だったけど数日まともに寝ていなかったので泥のように眠った。


「ゔ……ひっぐ……うゔぅ…………」


 嗚咽する声でジは起きた。

 エが涙を必死に堪えようとしていた。


 ふと目を覚ましたエはジを起こさないようにと涙を抑えようとしてむしろ変な声を出してしまっていた。

 不味くても腹が膨れて質が悪くてもちゃんと眠れば多少は体力も戻る。


 ジはエの手を握ったまま横で寝ていてくれて起こしちゃいけないとエは思った。

 変に目が冴えてしまって眠れなくなってしまうと頭の中で色々と考えが巡る。


 いい考えが浮かぶ状況ではない。

 考えれば考えるほど不安が煽られる考えばかりでこの先に対する暗闇のような見通せなさが胸を締め付けて涙が出てきてしまった。


 声を出しちゃダメ、泣いたら体力を使うだけだと泣かないようにと鎮めようとするほどに涙が出てきて嗚咽してしまう。


「別に泣いてもいいんだよ」


 目を覚ましたジは優しくエを抱きしめた。


「辛い時は泣けばいい。


 泣いて泣いて空っぽになったら、今度はそこに楽しいことを詰め込んでいくんだ」


 これは爺さんがジに言った言葉だった。

 貧民街は子供に辛い環境だ。


 爺さんはよくジに怒っていた。

 幼子故にジが泣くことも多かったのだけど泣くことに対しては爺さんは何故か寛容だった。


 ほとんどジに何か触れることもなかった爺さんだけどジが泣いた時は抱きしめてくれることがあった。

 だからジも爺さんにならってエを抱きしめたのであった。


 その日からエは家族になった。

 日々を必死に生きた。


 ある時ラに出会ってまた家族が増えたりしたがエに何かがあるとジはいつも守ってくれたし、エがやんちゃをしてもジは笑って隣にいてくれた。


 だから今度はこちらが恩返しをするのだ。


 ジがいなかったらエはきっと道端で冷たくなっていた。

 救われたこの命をジは好きに使うといいと言うだろう。


 だからエはジのために使うのだ。


 そうしたいから。


 ーーーーー


「……何か言いなさいよ!」


 エの叫びを聞いてジは固まってしまった。

 なんて答えていいのか分からなかったからだ。


 過去ではエはラと婚約した。

 ラが不幸に巻き込まれてしまってエは結婚する前に完全な夫婦にはならなかった。


 だからエはラに想いを寄せているのだと思っていた。

 いや、こんな風に言われるからといってそうであるとは限らないけれど、これでは告白されているみたいではないか。


「……俺は無茶しないなんて約束できない」


 エが真摯に想いを伝えてくるならジも冗談を言わないで答える。


「どうして……ジがそんなに無茶することなんて何もないじゃない!」


「それはエ、お前が大切だからだ」


「えっ……」


「エだけじゃない。


 ラや師匠やリンデランとか、みんなみんな大切なんだ」


 ほんの少しだけなんだとガッカリしてしまうのはしょうがない。


「大切だから守りたいんだ。


 大切だから笑っていてほしいんだ。


 一度手放してしまったけど、もう二度とあんな思いはしたくない。


 時には無茶もする、ケガもするかもしれない。

 これは俺のわがままでみんなに幸せであってほしくてやってるんだ。


 絶対に手放さない。

 諦めない。


 みんなとなら歩んでいける。


 それが俺の新しい人生なんだ」


「……何いってるか分かんないよ」


「分かんなくてもいいんだ。


 きっとこれが俺に与えられたチャンスで俺がどうするかが大事だから。


 でも約束するよ。

 無茶する時はエにも言うよ。


 ケガする時はエのそばでケガするよ。


 エと一緒にいられるように努力するよ」


 ジがエに近寄る。

 身長はエの方が大きかったはずなのにいつのまにか視線の高さが同じになっている。


「だから……その、許してほしい。


 わがままかも知んないけど俺は立ち止まらない」


 そっとエの手を取ってエの指に指輪をはめた。

 赤い石のついたシンプルなデザインの指輪。


 これはウダラックの遺品の中にあった魔法が込められた石である。

 それをノーヴィスのところの女性弟子であるピーサイが宝飾品作りが趣味だと聞いて、お願いして指輪にしてもらった。


「…………これは?」


「お詫びの気持ち。


 またこれから心配かけるかもしれないけどそれは全部俺が守りたいもののためなんだ。

 俺の中で守りたい最も大切な人の1人がエ、お前なんだ」


 ジは結婚したことがないし、過去ではするつもりもなかった。

 貧民街では誓いも交わさず恋仲になれば一緒に暮らす事実上の夫婦関係が普通だったので結婚に関する一切の行為について無知だった。


 対してエは大神殿で働いている。

 そうした結婚に関することも取り扱っていて、礼儀作法ややり方なんかも学んでいた。


 指輪を相手に贈ることは結婚や婚約の行為の一部である。


 またブワッと涙が出てくる。

 ジがそんなつもりで指輪を贈ってくれたのではないことはエにも分かっている。


 けれど嬉しかったのだ。


 自分が蔑ろにされているのではなかった。

 最近特にツンケンとした態度を取っていて嫌われているのではないかと考えていた。


 リンデランやウルシュナなどの貴族の女の子に囲まれてエのことなんてどうでも良くなったのではないかと不安に思っていた。


 ジの変な言葉の言い回しに感じた違和感や心につっかえていた不安がどこかにいって感情が溢れ出した。


「昔はよくこうしたよな。


 エは泣き虫で、俺は泣いてもいいよって言って抱きしめた」


 泣き出したエにどうしたらいいか分からなくなったジはギュッとエを抱き寄せた。


「バカ……バカバカバカ!」


 多分ジの無茶を止めることはできない。

 昔ガキ大将みたいなのに目をつけられて困っていたエのためにジはそのガリガリの体で向かっていった。


 ボロボロになってもエが止めてもジは最後まで諦めなくて、ガキ大将は泣きながら帰っていくことになった。


 忘れていた。

 何もしなくても隣に立てる人じゃない。


 常に前を向いて誰かのために何かができる人。

 だから手を引かれて後ろを歩くんじゃなくて一緒に歩きたいと思ったのだ。


「ん?


 だっ!」


 パンと音がした。

 ジの胸を押して距離を取ったエがジの頬をビンタした。


「これは私に心配かけた罰。


 ……約束だよ、何かやるなら私に言って。

 そして私も連れてって。


 でもケガしないのが1番だかんね?」


「いてて……分かったよ」


「それと、指輪………………ありがと」


 振り向いて祈りの間を出て行くエの表情はジには見えなかった。

 しかしたまたま部屋の前を通りかかった神官が見たエの顔はエの髪のように真っ赤になっていた。


 ジもまた頬がビンタされて赤くなっていたのでほんのりと冷たいフィオスを頬に当てていたのであった。

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