第一章 なまくら剣士と、わけあり娘の芽生え

第1話 なまくら冷衛

 その男は、項垂れて扉を開けると、太陽に照らされる広場へと足を踏み出した。


 体格は中肉中背で、人込みに混ざれば目立たない身体つきをしている。

 新月の夜で染めたような黒髪をしており、これもまた黒い瞳は色だけでなく、どこか暗く沈んでいた。


 形のよい楕円形の双眸と引き締まった唇を有し、顔立ちは端整と称しても誇張ではないが、目元の陰鬱さが災いしてその印象を損なわせている。


 洋袴ずぼん襯衣しゃつという、最近では水鋼みつがね公国内に浸透している衣服は手入れが行き届いて決して不潔ではない。ただ、貧相ではあった。

 上下揃えた藍色の衣は、何回洗濯されたのか分からないほどに古びている。


 彼の外見は一言で表してしまえば、至って地味であった。


 しかし、男のその印象をそれだけに留めないものがあった。彼が帯剣用の革帯に差している一振りの刀である。


 刀を帯びているとなれば、武官かその経験者に限られてくる。この男が、そのような経歴を持つとは思えないが、その帯刀がそれを無言のうちに証明している。


冷衛ひえいさん。お出かけですか?」

 

 広場の中央の井戸で洗濯物をしていた中年の女性が声をかけてきた。

 冷衛、そう呼ばれた男は曖昧な笑いを浮かべる。


「ああ。ちょっと、仕事を探しに」

「仕事ねえ。そういえば、この前、うちの子を探してもらって助かりましたよ。もしも、また迷子になったら、お願いしますね」

「……いつでも、任せてもらおう」


 そう言って冷衛は広場を横切って表通りに向かった。


 声をかけてきた女性や冷衛が住んでいるのは長屋だった。

 長屋とは、一階建の平屋が幾つも繋がる集合住宅だ。自然と、金銭に恵まれない人々が集まる住居である。ここは三方を長屋に囲まれ、中央に井戸が設置された広場がある造りをしていた。


 冷衛は広場の一角にある細長い通路に入った。この通路を抜けると、人通りの多い表通りに出る。昼前の時刻で通りには人が溢れていた。


 冷衛は慣れた様子で人込みに混ざった。

 とうに桜の時季は過ぎ去っている。


 花を散らした木々には新緑の葉が茂り、陽に照らされる白い歩道に大きな影を作っている。道路は石畳で舗装されているが、道端に設けられた街路樹の根元には雑草や、冷衛には名前の分からない小さな黄色い花が咲いている。


 季節は春の衣を脱ぎ捨て、夏という衣装に着かえを始めていた。少し前まで人々は春の温かな空気を楽しむように悠々と歩いていたが、春にしては暑い今日は日差しから逃れるように足取りも早く感じられる。


 街を歩く男性の服装は、冷衛と同じように洋袴ずぼん襯衣しゃつが多い。外国の文化が流れ込んできた当初、官吏が率先して外国風の衣装を取り入れたため、市井の男性にもその服装が広まっている。


 反面、女性は公国由来の小袖こそでを着ている者がほとんどであった。という外国の衣装を着用している者もいないではないが、それは地位の高い貴族の子女などに限られている。


(そろそろ〈鯉貴屋こいきや〉の主人から仕事をもらわなければな……)


 黙々と歩みながら冷衛はそう思った。その脳内では、乏しくなった財布の中身と、買い置きの食糧が切れた倉庫の侘しい情景が想起されている。


 その爪先を〈鯉貴屋〉に向ける冷衛は河沿いの道に出た。左側は小間物屋や飲食店が並び、もう片側には運河が伸びており、その途中で幾つもの橋が対岸との間を繋いでいる。


 特に公国の首都でもあるこの邑咲むらさきは大陸三位の雄大な河川が郊外を流れ、その支流から作られた運河が蜘蛛の巣のように街を縦横無尽に走っている。水の都市として有名であった。


 水路で区切られた区画が一つの街として成立している。冷衛が目指す〈鯉貴屋〉は二つ隣の街であり、橋を二つ渡ればすぐ到着する距離だった。


 ほどなくして、冷衛は目的地の前に立っていた。


 表通りから横道に一本入った路地に木造の店がある。〈鯉貴屋〉と書かれた看板の汚れ具合がこの場所に相応という感じだ。屋号に合わせて鯉が滝登りをしている絵を染めた暖簾が店先に垂れている。


 冷衛は暖簾を手で分けると、木製の扉を開けて店内に入った。

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