序章

波乱の種

 月は、時々によって人に見せるそのかおを変える。


 今宵の月は、半分を闇に染め、残りの半面を皓々と輝かせてその余波で夜の漆黒を和らげていた。

 冴えた月光が青白く浮かび上がらせる路面を、その男は泰然とした足取りで歩んでいる。


 二十歳ほどの若者で、整った顔立ちは巷間に溢れる惰弱さとは無縁の精悍さを宿している。その長身も均整のとれた体格であり、無言のうちにその身体能力の高さを思わせた。


 近年になって外国から導入された洋袴ずぼんを着用し、青い襯衣しゃつの上に黒い上着を羽織っている。


 その腰には、実用性を一番に考えた装飾の少ない地味な刀を帯びていて、それが男の動きに合わせて静かに揺れていた。


 その刀が実寸二尺六十センチメートル以上であることから、彼が武官の身であることを暗黙のうちに語っている。


 その男、真人まさと水鋼みつがね公国でも有名な剣士として知られており、一人で夜道を歩くということに恐れを感じる理由などない。彼の自信のほどが態度にも自然と現れていた。


 路面が白く照らされているだけ、建造物は直立する影のようにその黒さを際立たせている。真人が歩いているのは住宅街であるのに加えて夜も更けているため、明かりを点けている家屋はほとんどない。


 光源は天空にかかる半月と、石畳で形成される道の端に等間隔で設置されている常夜灯だけだ。

 石造りの常夜灯のなかで揺れるロウソクの明かりが、真人の帰途を照らしている。


 両側を木造の建築物に挟まれた歩道を進んでいた真人は、そのまま片方を川に面した通りに出た。道の右側は水路で、左側は店舗が並んでいる。昼間であれば人通りも多いが、この時刻では真人以外の人影は見えない。


 ふと、真人が足を止め、闇を透かし見るように前方へと視線を注ぐ。


 通りの水路沿いには等間隔で街路樹が植えられている。その幹の陰から黒い人型の輪郭が現れ、真人の行く手を塞ぐように立ち止まったのだった。


「俺に何かご用でもおありか?」


 その人物は応えなかった。


 闇に慣れていた真人の目にも、人影はただの黒い塊としか判別できない。恐らく、黒衣を纏っているのだろうと真人は推測した。


「横を失礼する」


 そう言って真人は、黒衣と擦れ違おうとした。


 真人は実力を過信する浅慮な男でなく、十分な用心深さも持ち合わせている。ただ、このときは黒衣の人物が小柄であることと、手にしているものが近くの木から取ったらしい花しかなかったため、真人はそのまま横を通り過ぎた。


 黒衣は、近づいてみると頭部まで黒い布で隠していた。

 胡乱な身なりだが、ただ顔を正面に向けているだけで、何ら行動を起こす様子はない。高貴な人物が素性を隠すために変装しているようにも見えた。


「変な奴だ」


 酒でも飲み過ぎている人物かと、黒衣を背にして真人はそう思っていた。


 瞬間、真人は背後に風切音を聞いた。その身を反転させながら襲ってきた刃を避け、同時に真人は刀を抜き放って黒衣に向き直っている。


 厳しい目で真人が黒衣の人物を見やると、どこから出したのかその手には抜き身の刀が握られていた。

 不意打ちを仕損じて焦る様子もなく、だらりと刀身を下げて真人を見返している。


「その刀、どこに隠し持っていた?」


 その問いかけにも黒衣は沈黙で応える。

 ただ、刀を中段に構えて交戦の意思を示した。


「いいだろう。最後に聞くが、人違いじゃないのだな」


 真人は刀を中段に構えて黒衣に対峙する。


 睨み合いの時間は短かった。先に仕かけたのは真人。踏み込みざま振り下ろした刀が電光となって黒衣を斬りつける。


 凡百の剣士であれば頭から胸まで断ち割られただろう一撃を、黒衣は左半身になりつつ後退して回避。続く第二の斬り下げも黒衣を捕らえることはできない。

 真人が横薙ぎの追撃を放ち、これもやり過ごした黒衣が首を曲げて自身の足元を見やった。


 黒衣の半歩ほど後ろから地面が消えており、暗い水路が広がっている。


 真人は闇雲に攻撃していただけでなく、黒衣の逃げ道を想定して徐々に河端へと追い詰めていったのだった。


 黒衣は静かに真人へと視線を戻した。その瞳のなかに映る真人は、相手を駆け引きにはめて悦に入ることもなく、冷淡に黒衣を見つめている。


 猛然と真人が地を蹴った。勝負を決める必殺の斬撃が斜めに走る。

 黒衣がその切っ先に斬られた、と見えたのは残像。幻影を斬って実体を逃したと知った真人の鼻孔に、どこからか花の香りが匂った。


 真人は驚愕を面に貼りつけて後ろを振り向く。そこには何事も無かったように背後へ回り込んだ黒衣が佇んでいる。


「見えなかっただと……」


 真人は優れた技量を持つ剣士だけに、先ほど黒衣が示した体捌きが非凡なものであることをすぐに認めた。


 そして、黒衣の実力が自分のそれを遥かに上回っていることも。


 真人の頬を一筋の汗が滴った。暑いのでなく、むしろ背筋が冷えそうな不快感を伴っている。


 黒衣が頭に巻いた布の間から覗く目が、観察するように真人に据えられている。


 黒衣は真人に見極めをつけたのか、今度は先手を打って前進してきた。中段だった刀を下段に移行しながら迫る黒衣を真人が迎え撃つ。


 黒衣が下段に構えているため、真人は下方に意識を集中しつつ待ち受ける。


 黒衣の両手が霞むように動いた直後、不意に真人の視界の上から煌めきが闇を裂いて襲ってきた。


 それが上方からの斬撃だと理解した真人は咄嗟に剣を跳ね上げるも、予期しなかった一撃に反応が鈍っている。


 真人がかざした刀身に黒衣の凶刃が直撃。甲高い音とともに鮮紅色の火花が飛び散り、絶望に彩色された真人の表情を背景にしてその刀が半ばから断ち折られていた。


 身を引こうとする真人を凌ぐ速さで黒衣が斬撃を叩きつけた。横薙ぎの切っ先が真人の腹部を真一文字に断ち割っている。


 黒衣は勢いのまま真人の背後まで駆け抜けていた。背中合わせになった姿勢のまま数秒の静寂が過ぎ、死に抗う痙攣を口元に浮かべながら真人がゆっくりと振り返る。


「……な、ぜ、かたなが、う、えから……?」


 真人は、よろめいて街路樹に背を打ちつけ、そのまま座り込むように崩れ落ちた。


「こ、た……」


 続く言葉を言い終えることができず、真人の瞳は意思の力を虚空に放出し、ついに首を垂れて沈黙した。


 黒衣は真人が息絶えるのを見届けると、一言も口を聞かないでその場を去って行く。空虚を閉じ込めた瞳で、真人はその背を見送っていた。


 ある半月の晩のできごとだった。

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