三角ばばぁのこと

齊藤 紅人

三角ばばぁのこと

 三角ばばぁのことを書く。

 三角ばばぁとは、家から最寄り駅まで行く途中にある三角形の家に一人で住んでいるばばぁのことで、俺が勝手にそう呼んでいるだけである。

 まず家の形がヘンテコなのでその話をする。

 その家は、狭い三叉路にある三角定規のようないびつな土地に無理矢理立てた二階建ての狭い家で、一応窓はあるものの、白くて安っぽい壁のせいで物置にしか見えない。

 そしてばばぁである。

 身長は一四〇センチぐらいと小柄でガリガリで、決まって着古してシミだらけになった服を着ている。やけに毛量の多いもじゃもじゃとした白髪は、天に向かってぴょこたんと跳ね上がり、メリーに首ったけというよりは、妙に鋭い目つきと相まって、まるで白土三平の忍者漫画に出てきそうな風貌だ。

 家の前のガードレールに、洗濯したかどうか怪しいびちゃびちゃの服を干したりするので、近隣の住人はきっと迷惑に思っていたことだろう。幸い俺の家からは距離があるので、あー、今日も干してるなあ程度にしか思わない。これはただの推測だが、知能か精神に何かしら不具合があるらしく、家の二階で奇声を上げているのも何度か聞いたことがある。

 ばばぁの活動時間は不定期で、たまに道ですれ違う。その時は決まって、俺が絶対に買わないような甘いカフェオレの缶を片手に歩いている。ぎょろりとしたばばぁの目と視線が合ったことはない。俺が一方的に見て、あー、今日も元気に生きとるなあと思うだけである。

 その三角ばばぁが最近大人しかった。

 びちゃびちゃの洗濯物も見かけないし奇声も聞かない。道ですれ違うこともなくなった。

 で、今日、駅に向かう途中に前を通ったら玄関に『売物件』の文字があった。

 俺は驚いた。

 と同時に三角ばばぁがどうなったのかを考えた。

 家族が引き取って面倒をみる?

 いやいやそれならもっと早く手を打っているはずだ。

 どこかの施設に住むことになった?

 それも同じだ。そんなところがあればすでに移っていたはずだ。

 三角ばばぁは三角ばばぁなりの事情であの三角の家に一人暮らしをしていたに違いない。

 となると答えはひとつしかない。

 ――三角ばばぁは、死んだのだ。

 そう思うと急に喪失感がやって来た。俺の人生に一ミリも関わりのないばばぁだというのに。

 そもそも俺は三角ばばぁのことをまったく知らない。表札がなかったので名前も知らないし年齢も知らない。もしかしたら三角じじぃだった可能性すらある。俺が一方的に認識し、渾名を付けていただけで、むこうは俺のことを知らないに違いない。

 そう考えると俺と三角ばばぁは厳密には出会っていない。

 出会っていない人物のことを思い出し、もう一度その姿を見てみたいと思うこの感覚にはストックホルム症候群のような名前があるのだろうか。よく知らない。そしてきっと明日には忘れてしまうことだろう。

 俺は、駅まで歩く途中にあった自販機で甘いカフェオレを買った。

 歩きながら飲む。やはり甘すぎた。好みじゃない。

 残り半分を溝に流し、駅のゴミ箱に捨てた。

 駅前の桜はもうすっかり散っていて、今日の夏のような日差しを無言で浴びている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三角ばばぁのこと 齊藤 紅人 @redholic

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ