筆箱の縁

鈴ノ木 鈴ノ子

ふでばこのえん

都会とまではいかないけれどさして田舎でもない街に私は引っ越した。


中学1年生すぐの転校だったので新しい中学校には知り合いも友達も誰1人いなくて、私1人が孤立したような気持ちになっていた。放課後にどことなく話すようになったクラスメイトとの何気ない会話を終えて別れたのち、放課後の教室で深いため息をついた。

会話は私が知らない町内のことや街のことばかりで、それに愛想笑いを浮かべながら、なんとなく上から目線の話を聞いていた私にとって、この放課後のひと時は心の落ち着く安らぎの時間だった。

日暮れに染まる教室は綺麗だと思う。

黒板も机も床もロッカーも全てが夕焼けの紅色に染まってゆき、それを眺めているうちに窓から見えていた夕日は山々の影へと落ちてゆき、やがて教室には真っ暗な闇がじわじわと影から這い出してくるのだ。やがて闇が完全に這い出してきた頃を私はいつも帰るタイミングとしていた。


「さて、帰ろうかな・・・」


窓際の席を立って横に引っ掛けていた鞄を取ろうとして教室の入り口に黒い影が立っているのが視界の角に入った。目を凝らすと、すでに闇に飲まれて真っ暗なそこに溶け込むかのように冬の学生服姿の生徒が1人立っていた。その姿を見て驚いた私は叫び声をあげそうになったけれど、どことなくその姿に見覚えがあった。


「御上くん?」


「結衣城さん?」


御上くんの声も緊張しているようで声が上擦っや返事をした。教室のスイッチのところまで移動した彼が電気をつけると、闇があっとい間に姿を顰め蛍光灯の無機質な白い色が室内を照らしだした。暗闇に慣れていた目が急に飛び込んできた明るさに一瞬驚いて瞼をぎゅっと瞑ると、御上くんもそうであったようで互いに数秒ほど会話のない状態が続き、やがて声をかけてきたのは御上くんだった。


「結衣城さん、帰ってなかったの?」


「うん、ちょっと寝ちゃってたみたい・・・」


センチメンタルに浸って景色を見ていたなんて恥ずかしくてとても言えなかったので、寝過ごした振りで誤魔化すことにした。その言葉に頷いた御上くんは私の近くにある自分の席の机のまでやってくると机の中から箱を取り出した。

それは彼のあだ名の由来にもなっている物だった。

彼のあだ名は「ハコ」、そのハコ=箱とは「筆箱」のことだ。長方形の木でできた古いめかしい筆箱を小学校の頃から常に持ち歩いていると、彼の小学校からの同級生である隣の席の松島さんが、少し小馬鹿にしたような口調で言っていたのを思い出す。


「忘れ物?」


そう言うと御上くんは笑いながら頷いた。


「うん、筆箱を忘れちゃってさ」


そしてその筆箱の上を大切そうに撫でた。


「それ、筆箱だったの?」


知ってはいるけれど、わからない振りをして私は聞いてみた。


「うん、そうなんだ。これ、ひい爺ちゃんが作ってくれた大切なもんなんだよ。家に帰ったら鞄になくてさ、多分、教室の机の中じゃないかなと思って取りに来たんだ」


「そうだったんだ。あってよかったね」


「うん」


頷いた彼はとても嬉しそうだ。

私に視線はその筆箱に何故か引き寄せられていた。それは確かに筆『箱』というのが正しいほどにしっかりとした木箱に等しいものであったが、真っ新な無垢の白木ではなくて綺麗に整えられた表面に、きっと黒漆か何かが塗られ磨かれたそれは蛍光灯の光の下でも綺麗に光沢を放っていった、いや、照り返すという言い方の方が正しいかもしれない。


「綺麗・・・」


思わず声を漏らしてしまうほどで、そんな私の呟きを聞いた御上くんは恥ずかしそう嬉しそうに笑みを浮かべた。


「見てみる?」


「いいの?」


「うん、そう言ってくれたの嬉しいから、普段は馬鹿にされるだけだしね」


確かにこんな古い筆箱を使っていれば同級生からはそう言われるかもしれないなと私は思ったけれど、差し出された筆箱を受け取ると、なんて恥ずかしいことを考えたのだろうと思った。


「漆塗りなの?」


「そうだよ、うちは漆器屋なんだ」


引っ越す前までは金沢に住んでいたこともあって漆器についての知識は少なからずあった。金沢漆器といえば、蒔絵などで代表される豪華絢爛で粋な日本美を象徴するような作品が多く、私も祖母から買ってもらった値段の高い化粧箱を持っている。受け取った筆箱は黒漆が塗られたシンプルなものだけれど、幼い頃から使い込まれたことによる年月の輝きに私は思わず見惚れてしまった。ところどころに傷もあり、修理の跡も見えるのだけれど、それがまた、絶妙なアクセントとなっている気さえしてくる。


「そんなに見とれるものかな?」


私がまじまじと見ていたのを不思議そうに御上くんが尋ねてくる。


「うん、とっても綺麗だもの、それに大切にしてるんだね」


「そんなことまで分かるんだ。すごいね」


御上くんが感心したように、そしてその言葉にどことなく嬉しそうに微笑んだ。


「金沢に住んでたことがあったから、あ、ありがとう、返すね」


私が筆箱を御上くんに丁寧に手渡すと彼と手が一瞬だけ触れ合った。柔らかくて暖かな感触に思わず心が驚いた音を立てた。もちろん、顔では平静を装った。


「今度、見に来てみる?」


「え?」


「興味ありそうだから、漆器のこと知ってる人なんて少ないし・・・。あ、でも、興味なんてないか・・・」


「ううん、行ってみようかな・・・」


その時にどうしてそう言ったのか今も理由が明確はわからない。でも、私はこちらに引っ越してきて初めて行きたい場所を見つけたような気がしたのだった。


「じゃぁ・・・」


突然、教室の扉を叩く音が聞こえ、2人とも驚いて振り向くと担任の吉謙先生がこちらを見ているのが目に入った。先生になったばかりの吉謙綾香先生の表情はなんと注意するべきなのかと悩んでいるような感じだった。


「あ、先生、今帰ります、結衣城さん、帰ろ」


「え、あ、うん」


間抜けな返事をして鞄を持つと御上くんも筆箱を大切に握りしめて先生に軽く会釈をして廊下へと向かった。

廊下は真っ暗闇で非常灯の緑のほのかな灯りが見えるのみだ。


「気をつけてね。あ、校門にザッキーが立ってるから、裏門から帰りなさいね」


ザッキーというのは生徒指導の山崎先生のことだ。厳しくて保護者とも平気で喧嘩するとんでもない先生と聞いたこともがある。吉謙先生はこの学校の卒業生なので私たちの前では何か山崎先生から小言を言われる度に「ザッキーがさぁ・・・」などと話し出すことが多かった。

その注意通りに裏門から学校を出た私達はスマホの番号とRainを互いに交換して別れた。帰り道にふと見えあげた空は漆塗りのように深い黒色のような気がする、すぐにスマホに彼からRainが入ってきて、見学はいつでもよければと書かれていたので、私は週末の日曜日にどう?と返事をすると、すぐにいいねのスタンプがついた。妙にそれが嬉しくて何故だか頬が緩んで、久しぶりに心から嬉しい笑みを浮かべることができた。


帰宅して日曜日に出かけることをキッチンで母親に伝えると、相手を聞かれて少しムッとしたけれど誤魔化すと後々がめんどくさいことになるから素直に御上くんの家に行くと伝えた。母が少し考えるそぶりをして「御上漆器店」の名前を上げた。そうだよと手短に答えて部屋へと向かおうとすると、お菓子を用意しておくから絶対に持っていってねと甲高い声が後ろから聞こえてきた。


日曜日当日の朝、普段通りの可愛さもなにもない服を着てリビングに降りた私を見て母の視線が険しくなった。現役美容師で綺麗に着飾った母の姿と比べれば私の姿はキッチンの端で転がっているジャガイモ以下にも等しいくらいの格好に見えるだろう。


「理恵、その格好で行くの?」


「うん、作業場を見せてくれるから、汚れてもいい服で着てって」


「え!?、遊びに行くんじゃないの?」


「うん、遊びにはいく・・・ってより、見に行く感じかな」


「なにそれ・・・、まぁ、いいわ。これ持っていってね」


そう言って母は机上に置かれた東鳩ケーキの紙袋を指差した。近所にはない店だから駅前まで買いに走ったのだろうか、普段、こんな事をすることのない母なのに珍しいこともあるもんだと思った。


「落とさないようにね」


「わかってる!」


いちいち小言が気に触る、母の優しさなのにどうしても反抗的に言ってしまうことで、たまに怒られたりするのだけど、それでも言わずにはいられなかった。


「じゃぁ、いってきます」


「はいはい、いってらっしゃい、迷惑かけないようにね」


「はーい」


玄関で靴を履いて扉を開けて外に出る。天気は快晴で日差しの光は眩しいくらいに降り注いていた。

玄関先には緑はまったくなく白い玉砂利が綺麗に、いや、無造作に敷き詰められているだけだ。両親共働きでそんなことをしている余裕などないので、草が生えない手っ取り早い対策としてこうなっている。いつもはない父親の車があるので今日は休みということはわかった、でも家でも姿を見かけることはあまりない、父は外科医としてずっと忙しく働いており、たまに顔を合わせても、二言三言の会話を交わすぐらいだ。小学校の入学式も卒業式も中学校の入学式もきたことはない。電話で呼び出されれば出ていくし、何日も帰ってこないこともある。小さい頃は父を責めたけれど、今はどうでもいいと諦めていた。


待ち合わせの公園まで歩いてゆくと、先に御上くんが作務衣姿で待っていった。

その姿に思わずどきりとしてしまった。

テニス部の先輩や同級生の格好良い人とは違い、どことなくダサくてかっこ悪い御上くんだが今日は違った。頭にバンダナを巻いて髪の毛を隠し、群青の作務衣を着て、いかにも職人という感じの漂う彼の表情は締まりのないだらしなさが消えて、整って引き締まった職人の顔つきであった。


「ごめんね、遅れた」


「時間通りだから大丈夫だよ、今さっき着いたところだから」


「今さっき?」


「うん、この公園の反対側がうちの店」


「あ、そっか」


待ち合わせの公園の反対側に御上漆器店があることを思い出す。

ケーキを遠慮がちに受け取った御上くんと緑豊かな公園を通り過ぎていくと御上漆器店が見えてきた。

古い作りの店構えが歴史を感じさせていて色褪せた入り口の看板が哀愁を漂わせている。店内は近代的に改装されていて定番のお椀からスプーン、コーヒーカップ、箱や箪笥などが絶妙な角度で美しく魅せられている。古い店を想像していた私はそれに驚いて、その値札に書かれた値段にも二重に驚いた。

店番をしていた和服姿の御上くんのお母さんはとても優しくて気品に溢れて女将と行った雰囲気だ。私の母親を『洋』とするなら、御上くんのお母さんは『和』という感じだろう。御上くんのお父さんは気難しい人だったけど、でも、工場を案内してくれて、工程や塗り体験をさせて貰った時などの説明はとても理解し易かった。そして私はすんなりと数個の塗りを楽しく体験することができた。

昼時に御上くんのお母さんが近くの和食屋さんへと連れていってくれることになっていたが、御上くんが外せない作業に入ってしまったので、彼のお母さんと2人で食べにいくことになった。気さくでフレンドリーな話し方をしてくれる御上くんのお母さんに緊張も緩んだ頃、ふと、私の家族の話になった。父親が外科医でそれで転校してきたことを話すと御上くんのお母さんの箸が止まった。


「お父さんは、結衣城正行先生?」


正行まさゆきは父の名前だ。


「はい、そうです」


「そうなのね、とっても立派な先生ね」


「立派かどうかわかんないです、家にもほとんどいないし、それに、家族旅行もほとんどしたことないですから・・・」


「家族には辛いわよね、でも、立派な先生よ」


「父を知ってるんですか?」


「ええ、孝市の主治医の先生だからよく知ってるわ」


孝市と言われて誰か一瞬戸惑ったが、どうにか御上くんの名前だと思い出すことができた。


「父からは想像できないですけど・・・」


箸を置いた御上くんのお母さんがお茶を一口飲んで姿勢を正すと私をしっかりと見た。その目元が少し潤んでいたことに私は気がついた。


「家族の方からはそう見えないかもしれないわね、でも、孝市が事故に遭って生死の境を彷徨っていた時に、結衣城先生がたまたま市民病院に来ていらして手術をしてくださったから、あの子は生きてるのよ。」


自宅では寝ているか本やタブレットで仕事などをしているだけの父、一昨日もたまたま早く帰ってきて夕ご飯を家族みんなで囲んだ時に、いつものように学会誌を読みながら食べていて手術写真のページを開いてしまい、それを見た母に怒られていた自分勝手で周りを見ない父だ。


「看護師さんに後々聞いたんだけどね。講演会でね、たまたま市民病院に来ていたんですって、孝市は大きい病院に移動している間に死んでしまうかもしれないほどにひどい事故で・・・、その時の担当の先生も諦めかけているような感じだったのに、講演を途中で切り上げた先生がいきなり現れてその先生をすごい勢いで叱り飛ばしたの、担当の先生は後輩の先生だったらしくて、今すぐ手術をやるからお前も手伝えって一喝してね、その一声であっという間に手術が決まって、そして仰った通りに助かって今があるのよ」


「父がですか・・・」


後輩の先生を叱り飛ばすところなら同意はできるが、それ以外の話は初めて外科医としての父を垣間見た気がした。


「お母さんも美容師さんでしょ?しばらく寝たきりだった孝市の髪をね、月に1回、結衣城先生が回診にきてくれた時に一緒に見えて髪を洗って整えてくれたわ」


「え・・・あ!」


幼い頃に必ず月に1回、1人で祖父母の家に預けれることがあった。きっとそれに繋がっていたのだろう。


「その娘さんとこんな形でご縁を頂くなんてあいがたいことだわ」


ハンカチで目元を拭いた御上くんのお母さんに私はかける言葉を見つけることができなかった。その後は、気を取り直すように2人でご飯を食べて、御上くんに工場や作品などを見せてもらいながら楽しく過ごして家路へと着いた。


「お母さんから聞いたよ、うちの父のこと」


「うん、僕もさっき母さんから聞いた。びっくりしたよ。でも、色々とよかった」


「なにが?」


「結衣城先生の娘さんがこんな素敵な人で・・・」


「え!?」


素敵な人と言われて思わず顔が真っ赤になった。言われ慣れない言葉は恥ずかしい。


「その・・・なんだけど・・・」


そう言って緊張したように御上孝市は結衣城理恵に振り向いた。


人の縁というのはどこかで必ず繋がっていてほんの些細なことが新しい出会いになることもある。それは人も物も同じで、そして、人と物の隠れた一面を垣間見ることもあるのだ。

この出会いで、私は『人の見方を考える』ことを知った。

それは生涯の宝物となっている。



最後に、きっと気になってるだろうけど、あの後、一目惚れの告白されて、そして時間をかけてずっと付き合った。


私は今、外科医、御上理恵 となっている。




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