第7話 はよ、本題に入れ


 ブチ犬の宿舎しゅくしゃは遠かった。いや、宿舎だけではない。駅から蕎麦屋までも、そこからコンビニまでも、とてもじゃないが歩ける距離じゃない。


 自転車でも躊躇ちゅうちょする距離だ。


 低い車高は、直接、体に振動を響かせる。腰が痛くなってきた頃、やっと到着した。


 車を降りてグイッと腰を伸ばすとブチ犬が笑いやがった。


「そんな歳ですか?」


 うるせー、こちとら大都会東京のど真ん中、千代田区生まれの千代田区育ちでい!


 中学までベンツで送り迎えをしてもらってた、筋金入りのおぼっちゃまなんだよ!


 田舎者と一緒にすんな!


 思っていることをすべて顔で語り、愛するセブンスターを取り出す。


 するとブチ犬は信じられないことを言い放った。


「ダメですよ先輩! 敷地内禁煙です!」


 なら俺が燃やしてやろうか、ああん? とすごんでみても、すっかり見慣れているブチ犬には通じない。


「荷物を持って下さい。自分の部屋のバルコニーで吸えますから。それまでは我慢ですよ」


 しょんべんじゃねー。


 しかし、俺は大人なのでゴネたりはしない。あと、数十秒の我慢だ。


 それくらい……それが長いんだよなぁ。貧乏ゆすりをしてエレベーターの到着を待つ。


 退勤時間前だからか誰にも遭遇せずにブチ犬の部屋に入った。


 五階のその部屋は役職がついているやつ向けなのか思いのほか広い。


 相変わらず整理整頓がされている。テレビの前にあらゆるメーカーの抗菌・抗ウイルススプレーが並んでいた。


 俺はまっすぐベランダに足を進める。


 夕焼けが晴れ渡った空に見事な赤富士を描いていた。  


 思わず見惚みとれているとブチ犬が顔を出した。


「素晴らしいですよね。これは東京では見られませんよ」

「たまに見るからいいんだ」


 俺はタバコに火をつける。ブチ犬は俺が素直に景色なんか褒める男じゃないとわかっているはずだ。なのに、微妙な顔をして凝視してくる。


「なんだ」


 俺は美味そうに煙を吐き出す。実際、美味いんだが。


「本当はバルコニーも禁煙なんです。皆が退勤して来る時間になったら吸えませんから」

「ベランダホタル族って言葉があるだろう!」

「なんですか、それ。死後ですよ」

「ここにも喫煙者はいるだろう⁈」

「いるかもしれませんが……」

「そいつらはどうしているんだ⁈」

「知りません。創意工夫そういくふうしているのかと」

「な! なんだそりゃ⁈」

「とにかく、敷地内禁煙なんです」

「わ、わわ、わかった」


 俺は法は犯さない。それがマンションの管理組合が作った不合理だとしてもルールはルールだ。


 胸いっぱいに煙を吸い込んで全身にニコチンとタールを巡らせる。


 血圧があがって疲れが取れていくようだ。頭がえてきた。


 さあ、面倒な事件の詳細を聞こうか。


 俺は、今や貴重になったポケット灰皿にギュッと吸いがらを押し込んだ。


 ブチ犬はキッチンに立っていた。


 すでに仕込みは終わらせていたようで土鍋に野菜をぶち込んでいる。


 鍋か。鍋はいい。好きなものだけを選択できる。


「好き嫌いの多い先輩のために水炊きにしましたよ」


 おい、勘違いするな。俺は好き嫌いはない。好きな食べ方と嫌いな食べ方があるだけで、なんでも食べられると言っただろう。


「よく言いますよ。ブリは刺身じゃなくて焼かないと食べないんでしたよね。それを好き嫌いと言うんです」

「いや、ブリは照り焼きにかぎる。塩焼きはちょっと……」


 面倒臭い野郎だと顔で言いやがったな。どついてやる。


 俺は肩を揺らしてキッチンに向かった。


「うわ、先輩! 待ってください! 今、調理中です!」


 ブチ犬は右手のお玉は鍋に入れたまま、左手で防御の姿勢を取る。


 バカ、便所だ。バーカ。ていうか、あとならどついてもいいんだな。よし、わかった待ってろ。その前に便所はどこだ。


「トイレでしたら、玄関の左手です」


 ブチ犬の指す方向に行くと、廊下の左側にドアが三つ並んでいる。反対側にも二つ。単身者には無駄に広いと思うのだがと、右手のドアを開けた。


 間違えたのではない。ガキの頃から背中を預けあってきた仲なのだ。なんの遠慮もいらない。


 そこは寝室だった。生活感のあるダブルベッドがなんだか、いやらしい。独身のくせにダブルベッドを選択するところが用意周到なブチ犬らしくて、いやらしい。


 隣は衣裳部屋と言うのだろうか。お高そうなスーツと革靴が並んでいる。


 靴は下駄箱にしまうものだろう? 腕時計がなんでいくつも必要なんだ? そんなに壊れやすいのか? まったく意味がわからない。


 左のドアが便所だった。便器の横に小洒落た手洗い場がついている。広い。俺のアパートの便所は尻を拭く時にドアに頭をぶつけそうになるぞ。


 まあ、実家の便所は用をたしている時に鍵を閉め忘れたと思い出しても手が届かないくらいだが。何度、姉貴に開けられて、どつかれたかわからない。


 なんで見たほうが怒るんだ? ウンコをしている俺のほうが恥ずかしいだろうが。


 便所の隣は風呂場。その隣は空き部屋だった。


 リビングに戻るとブチ犬はテーブルに鍋を運んでいた。


「先輩、手を洗いました?」


 失礼な手くらい……洗ってないな。俺はキッチンで手を洗う。


 なぜ四人掛けなんだ。本当に用意周到でいやらしい。


 ブチ犬はグラスに麦茶を注いでくれた。俺は下戸げこだ。


 そんな顔をしているくせにと、よく言われる。あんたは顔でむのかと言い返せば大抵のやつは黙り込む。まあ、ミニスカートのお姉ちゃんがいる店では、ごめんね〜と言ってビールをおごってやるがな。それが礼儀ってもんだ。


 水炊きには柚子ゆずポン酢だ。さすが俺の舎弟しゃてい、わかってる。春雨はるさめじゃなくて糸こんにゃく。肉は豚バラ。白菜じゃなくてキャベツなところが気になるが、美味いから許してやろう。


 さて、本題に入ろうか。









《あとがき》

 えー、皆様の心の声がヌンに届き、この話の題名になりました。

 はよ、本題に入れや。



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