第5話 君が猫よりワガママで甘えん坊だとは(前編)

 れんはその日、いつもより少し遅く帰ってきた。


 普通だと帰ったら着替えたり雨音あまねに今日の様子を聞いたりするのだが、今日は着替えもせずにテーブルに買い物袋の中身を並べ始めた。


「雨音さん、ごめん、ちょっと急に出張しなきゃいけなくなっちゃって」

 俺を抱いて蓮の様子を見ていた雨音がきゅっと体を固くした。

「出張?」

「今日のうちに出ないと間に合わないんだ、ごめん」

 蓮は動きを止めないまま説明して、ダイニングの雨音の席に弁当を置いたりお茶を淹れたりした。


 そうか、やっほう。なら今日は雨音と2人きり、邪魔者なしで寝られるな。よし、さっさと行け。

 俺がもし笑えたなら、満面の笑顔だっただろう。今にも喉がぐるぐるしそうだ。しかし雨音はそうではなかったようだ。体を固くしたきり、蓮に促されても動かない。


「雨音さん、買ってきたお弁当だけどオムライスだよ。おいしいよ、食べよう」

「今日出かけたら帰ってこないの」

 硬い声で雨音は尋ねた。そりゃそうだよ、この時間から行くんだろ。ねえねえ、今日は布団じゃなくて雨音のベッドで寝ようよ。

 俺はにゃあにゃあ鳴いたが、雨音はかまってくれなかった。蓮が困ったような顔をして手を止める。


「私も行く」

 

 雨音が言い、俺は驚いた。雨音、うちにいよう、一緒に寝ようよ。

 蓮も少し驚いた顔をして、しかし雨音がこう言い出すのを薄々予想はしていたようだった。

「ダメだよ、仕事だから相手できないし、雨音さんも今願い石作ってるだろう」

 そうだった。俺も月の光を浴びるように窓際に置かれた小石を触らないように言われていた。今日で一週間目くらいか。石を拾う場所、月の月齢なども関係するらしいから、タイミングの難しい、気の長い儀式だ。陽の光に当たってしまうとダメになってしまうから、雨音は今家を離れられない。

「邪魔しないから、お願い」

 けれど雨音は必死だった。まるで子供がひとり残されるのを嫌がるみたいに。


 雨音も俺もわかっている。蓮が雨音を置いて家を空けるのは、相当だ。本当にどうしようもなかったのだろう。それだけこいつは雨音に甘い。それだけは俺も認める。


 蓮は雨音を見て、しばらく黙った。そして、ごめんね、と言った。

 俺は雨音を見た。雨音は俺を抱いたまま泣きそうな顔をしてうつむいていたが、懸命に笑顔を作り、顔を上げた。

「私の方こそ、わがまま言ってごめんなさい。仕方ないわ、お仕事だものね。ちょっと蓮を困らせてみたかっただけ」

「雨音さん」

 蓮は雨音を抱き寄せ、ごめんね、マオと待っててね、と頭をなでながら言った。雨音と蓮に挟まれて、見上げると雨音はやはり泣き出しそうだった。


 新幹線の乗り換えの関係で、蓮はすぐ出かけるという。帰りは明後日になるそうだ。いいぞ、さっさと行ってこい。俺は雨音と2人でごはんを食べるから、エサだけ出していけ。

 ね、雨音。俺が見上げると、雨音は今生の別れみたいに、瞬きもせず蓮を見ている。

 ねえ、雨音、俺もいるよ。あいつは明後日には帰ってくるよ。

 俺はうろうろと雨音の足元をまわったが、雨音は俺を見てもくれない。


 俺は急に悲しくなった。

 雨音、雨音、俺もいるよ。俺も見てよ。2人でいつもみたいに留守番しよう。いつもそうしているじゃないか。あいつなんかいなくても。


 いないと、そんなになっちゃうの。俺のこともわからなくなっちゃうの。


 にゃあにゃあ、なぁーお。叫ぶ俺を、不意に蓮が抱き上げた。

「大丈夫だよマオ、落ち着いて。いい子」

 逆立っていた毛をなでられ、俺は自分が取り乱してしまったことに気付いた。悲しい気持ちは消えないけれど、なでられていると落ち着く。蓮の手で落ち着くのは非常に不本意だが。


「雨音さん、マオもいるから大丈夫だよ。ごはん食べよう」

 蓮は袋から自分の分の弁当を取り出してテーブルに置いた。お茶も準備する。

「蓮、新幹線の時間が」

 戸惑ったように、しかし期待を隠し切れずに雨音が尋ねた。蓮は俺を膝に乗せて席につき、笑って言った。

「やっぱり車で行くことにしようかな。荷物もあるし」

 それは嘘だ。俺にもわかる。もちろん雨音もわかっただろう。

「危ないわ、長距離なんでしょう」

「そうでもないよ」

 蓮は嘘を重ねた。


 雨音は言いたかっただろう。それなら私は大丈夫だから新幹線で行って、と。わかるよ、雨音はいつも蓮が一番大切だから、自分のために無理をさせたくないんだよね。

 でも、今日はそう言えないんだね。

 ごめんなさい、と呟き、雨音が椅子に座った蓮の後ろからしがみつく。とうとう泣いてしまったが、あともう少し一緒にいられるから嬉しいんだろう。涙は少しだけだった。


 俺は蓮の膝の上で雨音を見ていた。涙を拭き、笑顔で蓮の体から手を離して、テーブルの向かい側に座る。

 蓮の膝の上だと、テーブルの向こうの雨音の顔は見えない。しかしテーブルの下、スカートからのぞく細い足は、さっきよりずっと元気そうにぱたぱた動いた。雨音はオムライス好きだからな。

 俺は足元に置かれた蓮のカバンから見える資料の地名を見た。車で行ったら片道6時間くらいはかかるんじゃないだろうか。

 無理しやがって。蓮の癖に。


 蓮は結局雨音が眠るまでそばにいた。

 つないでいた手を離しても起きないことを確認し、そっと部屋を出る。雨音は最近願い石のためにずいぶん早く寝るけれど、それでも蓮は今日はあまり寝られないだろう。


 見送るつもりはなかったが、玄関先までついてきてしまった。気付いた蓮が俺をなでる。

「……雨音さんはね、きっとまだ魂に慣れていないんだよ。だから寂しいとか悲しいとかにすごく敏感で、怖がっちゃうんだ。なるべくそばについていたいんだけど、そうできない時もあるから」

 蓮はかがみ込み、俺を見た。

「マオ、俺が帰るまで、どうか雨音さんを守ってね。男の約束」

 蓮は勝手に俺に約束させ、前足を指切りのように上下させた。俺は仕方なくにゃあと鳴いた。蓮の如きに言われるまでもないことだからな。


 それより、お前も約束しろ。無事に帰ってこい。でないと、雨音はまた泣いちゃうぞ。

 俺はにゃーあと蓮に命じた。俺の言葉がこの朴念仁に伝わるか、甚だ疑問ではあるが。

「うん、約束するよ。行ってくるね」

 しかし蓮は笑顔で請け合い、そっと玄関を出て行った。

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