2.mephistopheles of oligarch

 その前日。

 先生が立ち去ったあと、そのオフィスには私とメイスンだけが取り残された。

 先生の業火が、頭の中で繰り返される。

先生「敵を倒せば全てが解決する。その盲目さの成れ果てが、君の憎む犯罪政権なんだよ」

 メイスンは言った。

メイスン「まずは、座りなさい。重そうな靴も脱いでいい」

 私がソファにかけ、靴を脱いでいるとき、また先生の言葉がこだまする。

先生「この星の誰もが、伝説にはなれても……救世主になる準備はない」

 私はぽろぽろと涙がこぼれはじめた。

 わずかに時をおいて、メイスンは言った。

メイスン「オリガルヒとしては、お嬢さんを傀儡にしてでも祖国を救う救世主が必要なのは事実だ」

 彼は続ける。

メイスン「他の国と同様にさまざまな人種や歴史を抱えたロシアは、一度政権が、俺たちオリガルヒと結託して、虚構ナラティブと泥棒政治で、これまでの何もかもを燃やし尽くしてしまった。だが、いまや誰かが先頭に立ち、理想ナラティブで人を束ね、現実にもたらし続ける仕事を果たすことでしか、もう一度絆を取り戻すこともできないのも事実だ。ここで失敗すれば、再びこのロシアとウクライナの間で地獄が繰り返される。オリガルヒもまた、そんな祖国に戻ってしまえば……自分たちの取り分が、この数年でアメリカの中流階級未満になることを十分理解している」

 だが、と彼は言って、

メイスン「俺個人としては、ヴァイパーの語るあの重みを受け止めきれないのなら、いますぐ日本に向かったほうがいい」

 私は顔をあげる。メイスンはため息をつく。

メイスン「奴の言葉を受け止めきれないのなら、大統領候補であるお嬢さんへのヴァイパーの言葉は、ただの暴力にしかならない。それは、他のロシア人からも、世界中の人々からの言葉も同じだ。等しく精神を蝕む、毒になるだろう」

 なにより、とメイスンは言った。

メイスン「大統領候補は他にもいる」

リーナ「そうなの」

 メイスンはどこか遠くをみつめている。

メイスン「奴らはお嬢さんと違って、幼少期から祖国を救う救世主になるべく生きてきた。それでも、さっきのヴァイパーの語る重みに耐えられない」

リーナ「誰もが伝説になれても、救世主になる準備はない……」

 メイスンは頷く。

メイスン「そこに気づけたやつは、大統領候補から降りていった」

 私が呆然とするなか、メイスンは続ける。

メイスン「俺たちオリガルヒにとって、大統領とはただの傀儡でしかない。だからたまたま序列と強欲と欺瞞の上澄みにいる子供を、大統領候補として選んできた。だがそいつらも馬鹿じゃない。国連高専大のような場所にいれば、払いきれない債務に気づいた。だから自由を取り戻すために、大統領候補を命懸けで降りた。秘匿情報の塊である候補の運命は、そう優しいものじゃない」

 私は俯く。

リーナ「私は、逃げたい。いますぐミシェルといっしょに、国連高専大にいきたいよ」

 メイスンは顔を向けてくる。

リーナ「でも、母さんと父さんががんばってよくしようとしてくれたロシアを、置いていきたくなんかない。ロシアのみんなが怯える暮らしを、黙って見ていたくなんかない」

 私は自分を抱き抱えるように、縮こまる。

リーナ「でも、気持ちだけじゃ、なにもできないよ……」

 ふと彼が答える。

メイスン「まだ、翼がないからさ」

 私は顔を上げる。

リーナ「翼……」

 彼は遠くを見つめて言った。まるで、何かを思い出すように。

メイスン「俺たち支配者の描く嘘から、この星の最後の自然、空にすら飛び立てる翼だ」

 聞き覚えのある言葉に、私は呆然とする。彼は続ける。

メイスン「自由を求めた幾千の人間の知識、それで編み上げられた、空を走るための果てしない力。ミシェルの場合は、ある選択を捨て、その重みを捨てることで、星を繋ぐ天使として伝説になった」

リーナ「ある、選択……」

メイスン「だが、両方の理想を抱き、伝説の天使と同じ側にたどり着くものは、まだいない。だから……」

 そして、メイスンは私を指差した。

メイスン「お嬢さんが、そのどちらも選択すればいい。そのために必要な翼、支援は、話していた通り果たす。ただし、俺の一番厳しい指導のもとでだ」

リーナ「なんで、私を……私も、傀儡にするんじゃなかったの?」

 彼は楽しげに笑う。

メイスン「あのヴァイパーをあそこまで本気にさせた奴は、見たことがなかったからさ」

 私は呆然とする。

リーナ「いつもあんなふうなんだって思ってた……」

 ただし、と彼は言った。

メイスン「君は永遠に地獄に堕ちることになる」

 私は固まる。彼は訊ねてくる。

メイスン「これは契約だ。お嬢さんは、すべての誘惑を語る悪魔に至る権利を得る。そして、偽りの希望を提示する罰として、国民のしもべとなって、理想を現実に落とし込む義務を負う。成功しても失敗しても悪魔と侮蔑され、永遠を生きることになる」

リーナ「どうして、私にここまで……」

メイスン「その気持ちだよ。それを、どの大統領候補も抱くことは、これまでなかったんだ」

 私はどうにか頷いた。

リーナ「わかった。他のひとたちみたいに強くなれるかはわからない。まずあなたの期待に応えられるよう、がんばってみる」

 彼は微笑んだ。



 そうして私は天使と蛇の先生に、宣言する。

リーナ「私は、どちらの道も選ぶ。

 なりたい自分に、なっていい。先生はそう言いました。

 私は、この祖国を救う悪魔、大統領になる」

 ミシェルは呆然としていた。そして言った。

ミシェル「だめだよ、その道は、危ない。行っちゃダメ……」

 ミシェルの肩に、ヴァイパーは手を置く。

先生「ミシェル。これもまた、なりたい自分になる、ということなんだよ。彼女は、誰も見捨てる気はない。いまは彼女こそが適任だ」

 ミシェルは俯く。ヴァイパーは私に向いて、言った。

先生「君は、僕たちなんかよりずっと険しい道を行くんだね」

 私は頷く。

リーナ「私は犯罪を繰り返す組織を放置しない。そして、日本で天使にもなる。空を飛ぶ力は、人を止める力にも、人を繋ぐ力にもなる。最後に祖国に戻って、大統領になって、私がみんなに大丈夫って言えるようにしてみせる」

 私は荷物を、バッグを渡す。

リーナ「このなかに、あなたを救ったレゾナンスのアンテナと電源システムがある。一緒に日本で待っていて」

 ミシェルは受け取るものの、私を見上げて言った。

ミシェル「どうして、その道を選んだの」

 私は微笑む。

リーナ「あなたみたいに、なりたいから」

 リーナは呆然とする。先生は微笑む。 

先生「その作戦の時、君を迎えに行こう」

 私は驚く。先生は頷く。

先生「こんなに悠長に飛行機に乗ることは難しいはずだ。そのとき君のコールサインが必要だ」

 私はつぶやく。

リーナ「コール、サイン……」 

先生「理想で人を誘惑する君に、ふさわしい名前がある」

 先生は告げた。

先生「いずれ魔王に至る、光を抱くもの。ルクス」

 私は頷く。

リーナ「気に入った」

 先生は微笑む。

先生「必ず迎えにくる。また会おう、ルクス」


 C-17が飛びだっていくのを、私は見つめる。そこに、メイスンは大勢の人たちをつれてやってくる。

メイスン「さあお嬢さん、奴らが来るまで二ヶ月だ。それまで、我々オリガルヒ全員で鍛えてやる」

 私は振り返り、微笑む。

リーナ「よろしくね、私の、悪魔メフィストフェレスたち」



 空軍基地で、二ヶ月間の私の、大統領候補としての特訓は始まった。


 オリガルヒのメイスン。彼は、ファウストの伝説に出てくるあの悪魔メフィストフェレスのように、物凄い量の知識と技術を、私にこの地下で与えてくれた。最も、詳細な講義は常にメイスンの仲間によって行われたけれど。

 ここの原子力発電所の詳細な機構、これまでの原子力発電所の在り方、銃の取り扱い方、コンピュータの最低限の知識、そして現在普及している次世代衛星通信システム、レゾナンスと、その人工衛星を運搬する戦闘機のことも。空軍基地に来た時の戦闘機は、どうもその人工衛星を何個か飛ばしたらしかった。

リーナ「その人工衛星はまた飛ばすの?」

 私が外で訊ねたとき、彼は離陸する戦闘機をみつめながら首を振った。

メイスン「もう飛ばしてしまった」

 私が俯くと、彼は言った。

メイスン「日本に行けば、飛ばす機会が得られる。まずは宣言した心に追いつける体にしよう」

 これからの作戦に耐えられる度合い。彼は自らの休憩時間に、広大な地上を息も切らさず走りながら、こう表現していた。

メイスン「スパイとして働ける最低限だ。そうしないとヴァイパーと合流できないよ、お嬢さん」

 息を切らしながら訊ねる。

リーナ「そういえばあの六代目のヴァイパーって、何をしていた人なの?」

 彼は笑う。

メイスン「先代同様にF-16の教官をしながら、いまの衛星通信システムを国連で再建した。次世代航空機F-35の設計にも、先代とともにあいつがかなり関わっている」

 私はどうにか訊ねる。

リーナ「そこまでやってたの、どうやって……」

メイスン「ヴァイパーを継承できるほどのやつの共通項はある。奴らは戦闘機の知識だけじゃない。この星に広がるすべての知識と経験を導入してくる。そうして変化を続けているんだ」

 私はなんとか息をふり絞って言った。

リーナ「人間、なの?」

メイスン「わからん。コールサインに毒蛇ヴァイパーがつくほどだからな」


 二ヶ月の修行のあと、メイスンたちは立ち去る準備を始めた。所長室と呼ばれたその場所で、彼は言った。

メイスン「もうすぐこの国のかつての権力者どもが、ここに逃げ込んでくる。やることはわかっているな?」

 私は頷いた。

リーナ「奴らの持っている核兵器を盗んで、そいつらを殺す。そして、脱出のためにヴァイパーと合流する。私が成功しなくても失敗しても、この空軍基地は破壊され、生き埋めにされる」

 彼は頷いた。

メイスン「訓練を何度も積んできた。あれだけ失敗を重ねれば、ミスがあってもリカバリーはできるだろう」

 それと、と彼は言った。

メイスン「大統領になる約束は、必ず果たしてもらう。だから作戦を完遂し、生き延びるように。いいね、お嬢さん」

 私は答えた。

リーナ「ええ、必ず」

 満足げに悪魔メフィストたちが立ち去ったあと、彼の言っていたように、かつての権力者たちとその集団が、この地下にほとんどからだひとつで逃げ込んできた。


 彼らを見た時、すぐに撃ち殺そうとすら思えたけれど、なんとかそれを抑えることができた。彼らはすでに憔悴していたからだ。

 だから私は簡単に取り入ることができた。食料と偽の希望を与えれば、すぐに彼らはそれを差し出してきた。それを見つめて、私は呆然とした。犯罪者のひとりは言った。

犯罪者「この星にはすでに、原子力発電所は散らばっている。それらを使えば、核兵器なんか即座に製造できる」

 つまり、核兵器を持っていたわけではなかった。核兵器の技術そのものが、彼らがここを目指した、真の理由だった。

犯罪者「我々はそれを既存のミサイルや爆弾に詰め込んで、無垢な祖国と国民のために使い、首都を取り戻す。そのために我々はいずれこの地から飛び立つのだ」

 私は頷いた。

 そう。飛び立つ。このすべてを破壊し尽くしたそのあとに。

 この星が、暴力で壊されるそのまえに。

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