prologue

lux:


 何かをいだいたまま、人は空を飛ぶことはできない。


 小さな私はお気に入りの猫の大きなぬいぐるみを抱え、また空を見上げている。母は私に気付き、その視線の先を見つめ、よく言ったものだ。

母「あら、また天使が飛んでる」

 それは、鳥でも蝶々でもない。鋼鉄でできた、大きな大きな航空旅客機だ。

リーナ「うん……」

 私はぬいぐるみをだっこしたまま、呆然と答える。

 そして、父も私たちのところにやってきて、同じ先を見つめる。

父「リーナは、空の世界が気になるのかな?」

リーナ「うん……」

 うわの空の私に、父は笑う。

父「きっとリーナは、素敵な空の冒険家になるだろうね」 

 ぼんやりしているばかりの私に、母は、そして父は、何をするでもなく微笑んでくれたものだ。

 それは、航空機パイロットという人類で最も過酷な試練を歩む者には、あまりにもありきたりで、おだやかで、誰しもがきっといだく光。

 なのに、誰しもが空を飛ぶ過程で、恥ずかしさや無力感、その重さから、いずれいだき続けられなくなる、捨て去られる運命にある光だ。

 私は空を冒険するようになってなお、大切なぬいぐるみのように、光をいだき続けた。


 リーナと呼ばれる私、アンジェリーナ。

 誰よりも飛ぶことが下手な、空の冒険家。

 だから私はこう呼ばれた。


 光を抱くものlux




 私は小さい頃からいっしょの、ほどよい大きさの猫のぬいぐるみを抱え、自宅のルーフバルコニーの扉を開く。ロシアの古くからの街並みが私の周囲を包み、その遠くでは、巨大なビル群もみえた。都市部の常套句クリシェのような、聞き飽きてつまらない景色だ。

 私たちの家の小さなバルコニーには、アンテナと吊り寝具ハンモックだけがある。私は吊り寝具ハンモックに身を任せ、バランスをどうにかとりながらぬいぐるみと共に寝転がる。そうして空を見上げた。

 すると、周囲の街並みも、ビル群もみえなくなる。

 これで人間のつくりものはみえなくなった。

 残っているのは天の恵みそのもの。つまり晴れ渡った空だけ。ずっと遠くに見える雲と、空の青、そして遠すぎる空で核融合を続ける太陽。それら私たちにどうすることもできない空が、私を見下ろす。

 そこに、旅客機が横切っていくのがみえた。

 あの時と同じように、ぼんやりと空をみつめる。そして父に言われた言葉を思い出す。

リーナ「空の冒険家、かあ……」

 ふと、ポケットに入れたiPhoneからメッセージが届いた。同じ学校を卒業した友達たちからだった。

友達「ねえ、私たちは大丈夫なんだよね?」

 私もぬいぐるみを抱えたまま、iPhoneで打ち返す。

リーナ「きっと、何かの間違いだよ」

友達「そうだよね。そうなんだよね……」

 私はいろんなことを書きそうになったけど、感情を抑えてこう書いた。

リーナ「きっと大丈夫」

 そして猫のぬいぐるみにも訊ねていた。

リーナ「ね?」

 車の音に気づく。私はハンモックから降りて、バルコニーから下を見下ろした。そこには、見慣れない車と、見慣れない人。彼は私の家に向かっていく。やがて、チャイムの音が聞こえた。


 私が家の中に戻り、玄関に向かうと、来訪者はちょうど去ったのか、扉が閉められたところだった。両親たちはそれぞれに書類を手に抱え、立ち尽くしている。母が振り返ってくる。けれど何も言おうとしない。私は訊ねる。

リーナ「なにがあったの」

 父が、私に書類を手渡してくる。そして言った。

父「軍からだ。国民総動員だよ」

 母は言った。

母「子供を誘拐する仕事なんて、いや……」

 父は母をただ抱きしめる。そして言った。

父「君がデモに行って暴力を振るわれるのをみるのも、もうごめんだよ」

 そして猫のぬいぐるみを抱える私に振り返る。

父「僕たちが向かえば、うちの娘が国連高専に行ける。彼女に未来を託そう」

 私はぬいぐるみを抱きしめる。そんな私に、父は言った。

父「リーナも一緒に準備しよう。いずれここを発つときが来るんだから」


 私たちのみっつのリュックが出来上がっていた。

 両親はそれぞれのリュックを背負い、玄関の扉を開けようとする。

 私はどうにかふたりを止める。

リーナ「行かないで」

 私はまだ、ぬいぐるみを抱えていた。

 母はそんな私を見て涙を堪えながら、微笑んでこう言った。

母「リーナ。いまみたいに誰かを抱きしめてあげられる、優しい天使になってね」

 そして抱きしめてくれる。

 けれど、その温もりはやがて離れていく。

 父もその様子に小さく頷く。そして言った。

父「ここまでの責任は、僕たち大人が取る」

 そして、扉が閉められる。


 この一軒家には、父と母が買い集めた人工衛星と戦闘機の本、そして様々なフィクションの本が溢れる。本たちは、なにかを語りかけてくれている。けれど自宅に私一人しかいない事実は、変わらない。抱き抱えたぬいぐるみだけが、わたしにぬくもりを返してくれる。

 私は父と母がしていたように、iMacの画面から、アメリカのニュース記事を見ていた。そこに書かれたコメントを見つめる。

「やつらの政権は、自分たちを悪魔祓いを宣っている。本当の悪魔が誰なのか、奴らを誰が選んだのか、よく考えるべきだ」

 私は猫のぬいぐるみにつぶやく。

リーナ「わたしたちが、選んだんじゃないのにね」


 私はまた、バルコニーのハンモックにいる。iPadで再び、猫のぬいぐるみと一緒にある動画を見ていた。

 それは、実在する本物の天使のドキュメンタリー。

 彼女こそが両親たちの、そして私の、天使だった。スラヴ系の端正な顔立ちと金色の髪を結えたウクライナ出身の彼女は、インタビューで冷静に答える。

ミシェル「なりたい自分に、なっていい。そう先生から教わったんです」

 私は、わずかな希望を抱き、遠い雲たちをぬいぐるみと共に見上げてつぶやく。

リーナ「もしも天使に、なれたのなら……」

 このウクライナの天使こそが、私を導く星だった。

 ミシェル。国連軍の航空機パイロット。そしてその過去は、私たちの国の暴走によって、悲劇から始まる。

 私たちロシアのその政権に侵攻された地域の、ウクライナ難民。侵攻された地域でロシア政権による未成年連れ去りに遭遇する。そうして家族と離ればなれになってしまった。

 けれど国連軍に保護され、先生と運命的な出会いを果たす。

 のちに戦闘機パイロットだったという先生に影響され、ウクライナ軍と共に戦うために国連の制度に志願。いまや伝説の、航空機パイロットとなった。

 彼女は自らの行動で、世界を勇気づけ、元気づけた。誰もが、歌手や俳優を目指すかのように、彼女のような天使になる道を志した。

 彼女は、国連安全保障高等専門大学校の学生だった。この星の犯罪政権を撃滅し、平和維持に参加する国連軍。その国連軍での兵役という義務の代わりに、難民も含めて保護を受け、生活と教育の場を提供される、国連の高等教育機関にして、軍産議複合体。そして、人類史上最上級の民主主義の実験場。

 人はそこを、天使の偉大な功績から、エンジェルスクールと呼んだ。

 エンジェルスクールの学生でもある彼女とその部隊が示す、史上最高の成績、つまり撃墜記録と撃墜対被撃墜比率キルレシオ。特別な先生のおかげとされるが、それでも彼女は抜きん出ている。

 天使と呼ばれた彼女の実力はパイロットとしてだけでなく、エンジニアとしての技能にもあったという。

 天使は、自らの翼を手入れするように、器用に世界を包むゆりかごも手入れした。そのゆりかごは、国連高専において国連によるこの星全てに情報通信インフラを無償提供する衛星通信サテライトコンステレーション:レゾナンス。それを戦闘機にくくりつけたロケットで実現させるプロジェクトにもテストパイロットとして参画していた。地球規模の通信技術の発展に貢献している。その貢献もあってか、地球儀のマークが彼女の翼、戦闘機の尾翼につけられている。

 私の隣にあるアンテナも、そのレゾナンスと繋がるためのものだ。こちらにも、地球儀のマーク。

 ドキュメンタリーにおいても、ミシェルの乗る戦闘機が空に向かってロケットを発射している。そのロケットがやがて、小さな人工衛星の仲間になり、オンラインの世界を普く広げていく。犯罪者たちに決して侵害されることのない言論の自由──すなわち幻想は、ついにすべての世界にもたらされはじめた。

 かつては軍人が逮捕にやってくるくらいの国家機密とまでされたミサイルや戦闘機の設計やパラメーターすらも公開され、様々な人たちが設計を組み上げ、製造し、ロケットを飛ばしている。小さな缶に衛星機能を詰めて風船で飛ばすところから、ロケットにくくりつけてもらうところまで。これまでもソフトウェアの世界では当然のことで、軍人の世界を除けばなんら不思議なことではなかったようだ。

 そんな奇跡を成したウクライナの女の子は、国際法違反の犯罪政権、特にズルばかりする私たちの行政と真っ向から戦うウクライナの希望でもあり、全世界からの祈りを空で抱く、天使へと至っていた。

 天使がもたらしたのは淡い期待だけではなかった。この学校そのものの多大な宣伝効果をもたらし、国籍を問わず様々な人たちが入学を希望している。募集定員を設けないのは、それだけエンジェルスクールに仕事がたくさんあるせいでもある。

 だから私も、エンジェルスクールの書類と、航空券と、そしてパスポートを持っていた。

 これから入る学校の書類たちを見つめる。

 この学校でやることはわからない。だからこそ、さまざまな本を買い集め、時に自分なりに飛行機を作って飛ばし、そして空を見上げる。

 そのとき、めずらしくチャイムが鳴った。私はぬいぐるみを抱えて走り出す。そして扉を開けた。

リーナ「お母さん、お父さん!」

 けれどそこにいたのは、両親ではなかった。知らない大人だ。彼らは私を見下ろし、口を固く結びながらも、言った。

大人「君のご両親は、お亡くなりになられた」

 そして彼らは、紙を手渡してきた。それは、私の両親の名前が載せられ、政権の署名が施されている。母の言葉を思い出す。

母「リーナ。私たちの天使になってね」

 その書類を持つ私の手は、震え始める。目の前の大人は、さらに言った。

大人「君の番が来てしまった。もはや、学徒動員だ」

 そして私はもうひとつの紙を受け取る。そこに書かれたのは、私の動員を促す書類だった。父の言葉を思い出す。

父「ここまでの責任は、僕たち大人が取る」

 私は大人を見上げる。

リーナ「ふたりは、どうして……」

 私の様子をみて、大人が答える。

大人「デモのさなか、亡くなった。君を召集するのも、報復措置のようだ」

 震える私に、大人は言った。

大人「衛星通信を使えるようにしているはずだ。あれと一緒にいますぐ空港へ出発しよう」

 そうして新しい航空機チケットを手渡される。今日の日付が書かれている。

リーナ「なぜです」

大人「アンテナとルーターは君を守るための保険でもあると、君の母から聞いている」

リーナ「あなたは、父と母の……」

大人「それ以上は言うな。いますぐ行こう。四分で支度を」

 そして大人は、私のぬいぐるみを見つめる。

大人「その子は、ここにいたほうが安全かもしれないね」

 私は家の中に戻り、猫のぬいぐるみを私の座っていた場所に置く。

 そして私はうつむく。やがて私は言った。

リーナ「ごめんね。必ず、君のところに帰ってくるから……」

 アンテナとルーターをしまい、荷物を抱え、私は家を発った。




 空港まで車を走らせ、私たちは車を急いで出る。大人は言った。

大人「悪いが時間がない、早く」

 私がどうにかアンテナを下ろしているとき、そして彼は私の代わりにアンテナを抱えてくれる。私たちはほとんど全力疾走で空港を走っていく。するとその先には、たくさんの人たちでごった返している。大人はため息をつく。

大人「予約をまだ取れていない人たちだな」

 通してくれ、そう大人がいいながら、私たちは人の垣根を通っていく。不安げな私に、彼は言った。

大人「君はあの学校に行けるよ」

 私は頷く。そうして保安検査場にたどり着く。荷物を置こうとしたが、検査員たちは首をふった。

検査員「検査は済んでる。先に行ってくれ」

 私たちは頷き、そして検査場を通って走り出す。その走り出している人たちは知らない人たちだったけど、みんな必死にゲートを目指していた。

 そうして遠く遠く離れたゲートへと向かう。息があがりながら、私は言った。

リーナ「極東って、こんなに遠いの……」

大人「しかたがない、日本への直行便なんてほぼないんだ。みんな、あの学校を目指している」

 振り返ると、年齢を問わない様々な人たちだった。けれど、たしかにみなどこか信念を持っているようにみえた。

 そうして受付員の人に航空券を私たちは見せる。受付員の人はすぐに頷き、

受付員「どうぞ、良い旅を」

 私たちは出発ギリギリのほぼ誰もいない回廊を走っていく。そうして飛行機の中に入り込む。キャビンアテンダントさんはうなずき、どこかに連絡をする。

 私たちはたくさんの人たちが乗り込んでいるのをみる。誰もがほっとしてはいた。

 私たちも客席に座り、ほっとする。大人は微笑んだ。

大人「この国に別れを告げるときか」

 私は窓の外を見つめる。小さく、雪がちらつきはじめていた。

 そして、飛行機が動き始めると、さらに安堵の声が聞こえた。そして、すすり泣く声が聞こえる。私も唇をかたく結ぶ。

 滑走路に辿り着き、徐々に加速していく。そして、離陸していく。そして、私の故郷が見えた。

 誰もが自分たちの故郷を、じっと見守っているんだろう。私はそう思いながら、自分の家のあったであろう場所をみつめる。

 これから、エンジェルスクールにいくんだ。


 そのとき、なにか別の轟音が聞こえた。大気を吸い込みながら燃やした時のあの音だ。私はすぐに窓の外にその轟音の何かをみつける。

 それは、私たちの国の戦闘機だった。それが、一目散で私たちのもとへと走ってきている。わたしはつぶやいた。

リーナ「なんで……」

 やがて戦闘機が私たちの横へと張り付く。そして、なにかのサインを出している。

 私たちの乗る飛行機は、急旋回を始める。

 そうしてやがて、先ほど旅立ったはずの空港がまた見えてきた。

 全員が息を飲んでいた。なぜなら、その空港には、さっきまでいなかった大量のヘリや兵士たちが現れていたからだ。

 そうして航空機が着地していく。誰もが視線を泳がせ、固まっていた。

 先ほど出たはずの元のポートに辿り着き、そして兵士たちが入ってくる。彼らは誰もが無表情だった。そして何を言うまでもなく銃をつきつけ、私たちにそこを出るように指図してきた。

 私の隣の大人は、うなだれていた。

大人「なんでだ……」

 そうして外に出ると、今度は手錠をかけられた。そして、国民総動員の紙を手渡される。

 私は空を見上げていた。そして、奥歯を噛み締める。

リーナ「私は、学校に行けそうにないよ」

 その空に浮かぶ雲は黒く、太陽の光も衛星通信の電波も、通してくれそうになかった。



 夕焼けすらも閉ざす黒い雲からは、季節外れの雪が降り注ぐ。白い息を吐き、大量の装備を抱え、私は重たい銃を抱き抱え、トラックの外の景色を見つめる。周りの人たちもそんな調子だ。だれひとりとして、軍人らしい人は見当たらない。なにひとつ訓練も受けないまま、私たちは補給物資と兵力を届けるためだけにひたすら移送されているからだ。言葉少なく、同じトラックにいる私の上官にあたる人は言った。

上官「ウクライナに入った。敵の空軍基地も近くなってきたが、本部からは、引き続き進軍するように指示が出ている」

 誰もが沈黙した。

 そのとき、急にトラックが止まる。誰もが戸惑う。上官も焦るように連絡をし始める。

 そして上官はため息をつき、

上官「本部へ衛星通信で連絡を行うそうだ。いまは我々の戦闘機が上空にいる。問題は起きないだろう。リーナ、通信兵の時間だ」

 私は頷く。

 何度も空を見上げながら、トラックを降りる。空の雲は分厚いのか、わずかにしか太陽の光を通さない。私は、一緒にやってきた衛星通信のためのアンテナをバッグから取り出す。そして背中に詰んだバッテリーで起動する。軍人たちがスマホを取り出していく。そのうちの一人が私に話しかける。

兵士「ありがとう、リーナ」

 私は頷く。そして私はアンテナが首を振るその先、空を見上げる。その向こうで、何かが飛んでいる音が聞こえた。空を見上げた。旅客機に乗っていたときに聞いた、大気を吸い込みながら燃やした時のあの轟音。きっと戦闘機なんだろう、とぼんやり思った。私たちロシア政権の戦闘機が、戦場へと向かっていくのだ。航空機を見つめる母の言葉を思い出す。

母「あら、また天使が飛んでる」

 ふと、雪の中で私はつぶやいていた。

リーナ「もしも天使になれたのなら。どこか遠くに、逃げるのに……」

 雪まみれの地面をみつめながら、遠くに逃げた後のことを考える。


 普通に話をして。

 仕事をして。

 普通のご飯を食べて。


 別に認められたいわけじゃない。

 ただ、奪われない暮らしが欲しかった。


 でも、逃げた先には、家に置いて行ったあの子はいない。

 父も、母も、友達も。

 天使になれても、本当にそれでいいんだろうか?


 突如として、衛星通信の近くにいた兵士が叫んだ。

兵士「敵が来る!」

 空で、爆発音が聞こえた。何かが墜落していくのがみえた。誰かが言った。

兵士「落ちているの、我々の戦闘機じゃないか?」

上官「対空戦闘用意!」

兵士「リーナ、いますぐアンテナをしまえ!」

 私は急いで電源ケーブルを引き抜く。そしてアンテナをバッグの中にしまっていく。

 全員がせわしなくトラックや背負ってきた荷物を取り出していく。対空用のミサイルをどうにか彼らは掲げる。けれど私からみても、彼らの動きは何もかもがぎこちない。

兵士「まだ準備できないのか!」

 そして、裁きの時は訪れた。

 轟音と共に、雲から鋼鉄の翼が突き抜けてきた。そして、私たちに飛び込んでくる。F-16だった。そのとき、尾翼の巨大なマークが一瞬みえた。そのパイロットを意味するのであろう蛇のアイコン、そして、地球儀のマーク。私は理解する。

リーナ「国連軍……」

 私は必死に雪を蹴って逃げ出す。林のある方向へ。そして雪の中へ伏せる。背後で、爆発が起きた。激しい耳鳴りが襲う。私は雪から顔をあげる。周囲のトラックたちが爆風と共に吹き飛ばされ、ひしゃげていた。人の姿は見当たらない。

 うめき声が聞こえた。怨嗟の変奏曲ヴァリエーションが溢れはじめる。

 私は怯えるように林の中の奥へ、奥へとアンテナのシステムを背負って走り始める。こんなときに、一緒に航空機に乗り込んだあの大人の言葉を思い出した。

大人「なんでだ……」

 そしてまた、遠くで爆発音が聞こえた。

 さっきかけられた言葉を思い出す。

兵士「ありがとう、リーナ」

 涙が溢れ始めていた。走りながら叫んでいた。うめき声が、耳鳴りとともにこびりついていたから。

 私は逃げ続ける。この雪の地獄のなかを。


 走り疲れて、私は木に寄りかかり、そしてうずくまる。

 お腹が鳴った。寒かった。

 私はぼんやりと理解する。

 ここでひとりぼっち。冷たくなって死んでいくしかないんだ。

 風の音と、降り積もる真っ白な雪だけが、時の流れを教えてくれる。

 空を見上げる。木々によって半ば塞がれた空。轟音がまた聞こえる。天使が通った音だ。そして、天使たちのずっと空高く、高度五百キロメートルにあるものを、私は思い出す。


 すべて、あの空の向こうにある人工衛星のせいなんだ。私はそう思った。

 あの空から、わたしはわずかな希望を知ってしまった。幻想で、魅せられてしまった。

 どんな国にいても、どんな状況にあっても、どんな経歴を持っていたとしても、機会チャンスはあるんだと、私たちはあの人工衛星を通して知ってしまっていたのだ。

 けれどそこに、私たち犯罪政権の手下の居場所は、どこにもない。

 私たちは、世界の敵になった。


 ウクライナの天使は、そして国連軍は、きっと意思の弱い私たちを、許さないのだから。


 そのとき、雪の中を歩く足音にようやく気づいた。私は反射的に身を隠す。

 その向こうで、今度はもっと大きな音が聞こえた。そこには、誰かがうつぶせに倒れているのだけがわかった。ヘルメットも被っておらず、金色の髪がしなだれていた。服もどうみても雪のなかを歩くためのものにみえず、スマートフォンを片手に倒れている。私は気づけば駆け寄っていた。

リーナ「どうしたの!」

 言葉少なく、彼女は答える。

ミシェル「裏切った、から」

 それでようやく、彼女の倒れたところ、その腹部のあたりの雪が、少しずつ赤色になっていっていることに気づいた。私は彼女の体を起こす。すると、腹部から血が少しずつ流れていることに気づいた。私は急いでバッグの中をひっくり返す。そうして出て来た白いタオルで、彼女の腹部を押さえ込む。けれど、タオルはゆっくりと血で染まっていく。死んでいった大人たちの顔がよぎる。私の血の気が引いていく。

 血を流している彼女は言った。

ミシェル「すでに、傷口は自分なりにおさえてる、でも、全然止まらない」

 私はその聞き覚えのある声に驚く。そして彼女をみた。結えていないが、金色の髪。自分と同じ、スラヴ系の顔。私は彼女に訊ねていた。

リーナ「ミシェル、なの……」

 彼女は皮肉げに笑う。

ミシェル「ロシアの兵士さんも、私を知ってるんだ」

 彼女は、バッグの中から散らかされたアンテナに視線をやり、

ミシェル「そっか、レゾナンスで私のことを」

 私はアンテナをみて、走馬灯のように大人の言葉を思い出した。

大人「アンテナは君を守るための保険でもあると、君の母から聞いている」

 そして父はこう言った。

父「リーナは、空の世界が気になるのかな?」

 そして、無垢だった私の姿も。なのに、ミシェルはこういう。

ミシェル「逃げて。あなたがここにいたら、巻き込まれる……」


 すぐさまアンテナを立て、はじめに電源システムを起動する。そして言った。

リーナ「そのスマホを貸して、連絡するから」

 ミシェルは首を振った。

ミシェル「やめて、そんなことしたらあなたが……」

リーナ「そんなことは、どうだっていい!」

 驚くミシェルに、私は言った。

リーナ「せめて、あなただけは……」

 ミシェルは首を振る。

ミシェル「私は、もうあそこに居場所なんかない」

 私は無我夢中でアンテナと電源を繋ぎながら言った。

リーナ「嘘、誰かが天使のあなたを探しているはず」

ミシェル「ちがうの、私は、偽物……」

 私は振り返る。

リーナ「あなたが偽物なら、誰が天使だっていうの!」

 驚くミシェルは、やがてスマートフォンのロックを解除し、そして宛先を出して、差し出してくる。

ミシェル「本物なら、ここに」

 私はスマートフォンを受け取り、すぐさま書き込んでいく。ここの位置情報、そしてメッセージを。

リーナ「助けてください。天使が、今にも死にそうなんです」

 すぐさま連絡が返ってくる。

先生「すぐに向かう。詳しい怪我の状況を教えて欲しい」

 メッセージをひたすら打ち返したあと、ミシェルは涙をこぼしていた。

ミシェル「また、私……」

 わたしはそのとき、故郷においていったぬいぐるみのあの子を思い出した。そして、メッセージを送ってくれた友達のことも。

 あの子たちは、いまどう思っているのかを。

 ふと、私は彼女を抱きしめた。

ミシェル「ど、どうしたの……」

リーナ「傷口、抑えなきゃ……」

 そういいながら、私は傷口を抑えるミシェルの手を覆う。血が滲んできても、私は決して離さなかった。私は母の言葉を思い出す。

母「リーナ。いまみたいに誰かを抱きしめてあげられる、優しい天使になってね」

 私は天使なんかじゃない。けれど。

 そうして私は空へと祈る。

 あの時抱いていた夢の果てがここなのだと、理解しながら。


 それからほとんど時間がたたないうちに、ヘリコプターの音が聞こえ、大人たちが、続々と天使のところにやってくる。

 私は医者の人に状況を教えると、大量の道具が彼女の周囲に広げられた。抱きしめられている天使は痛み止めの薬を与えられ、ぼんやりとしはじめていくなかで、医者たちの手ですぐさま治療が行われていく。傷を縫合するためなのか、わずかに針も遠くからみえた。彼らは頭につけた医療用スコープごしに、この極限環境で手術をこなしていった。

 すこしすると、周囲の医者たちがへたりこむ私の肩に手を置き、頷く。

医者「ありがとう。彼女は無事だ。君のおかげだよ」

 私は寝息を立てているミシェルをみて、なんとか頷く。

リーナ「私は、ただ、助けを求めただけで」

 そのときふと、ミシェルが手術のために薄着になっていたことに気づいた。私は自分のジャケットを脱ぎ、ミシェルにかけてあげる。医者は言った。

医者「そういう君の気持ちが、我々を動かしたんだよ。十分、君のおかげだ」

 私が唇を固く結んでいたとき、新たな足音が聞こえてきた。そしてその先頭に、誰かがやってきた。彼はマスク越しに言った。

先生「彼女を救ってくれてありがとう」

 治療を見続けていた私は彼らを見上げ、呆然と頷く。そして

先生「まずは彼女を運ぼう」

 彼女は医者と複数の人々によって抱き起こされ、担架に乗せられていく。その大人は、眠るミシェルに言った。

先生「すまなかった、ミシェル」

 そうして、ミシェルとともに医者たちが立ち去っていくかと思ったが、半分ほど残っている。彼は言った。

先生「君もだ。ジュネーブ条約に則って保護する」

 天使の血でまだら模様のようになった服の私は、自嘲気味に笑った。

リーナ「犯罪者の手下が保護されて、それで、どうなるの……」

 彼は沈黙し、やがて答える。

先生「命は保証するよ」

リーナ「保証されても、最後の行き先は地獄なんでしょ。ここまできちゃった、私は……」

 私は俯く。そして、言った。

リーナ「あの子のいるキラキラした空に、私は、いらない……」

 間が空いて、彼は言った。

先生「君は、ただ違う場所で生きていただけだったんだね」

 私は顔をあげる。全員がずっと武器をこちらに向けていなかったことに、そこでようやく気づいた。彼は唇を固く結んだまま、ヘルメットを外し、バッグを下ろし、中からダウン素材のブランケットを取り出して、かけてくれる。

 突然の暖かさに呆然としているなか、目の前の彼は涙をこらえていることにやっと気づいた。瞳がわずかに潤んでいる彼は、どうにか言った。

先生「いらない人なんか、いないんだよ」

 私の頬に、涙が伝った。彼は言った。

先生「これまで君を傷つけてきて……助けてあげられなくて、ごめんね」

 私は涙をこらえようとする。けれど涙が、どうしても止められない。

 子供みたいに、私は声をあげて泣き出してしまう。目の前の彼は、やさしくブランケット越しに背中を撫でてくれた。


 林の中を彼らに手伝ってもらいながら歩いて、いっぱい泣いたら、開けた空の下にたどりついていた。そこにはもう、どす黒い雲はないようだった。今度はお腹が鳴ってしまった。私の元へやってきたひとりが、私を折りたたみ式の小さな椅子に座らせてくれて、別の人が、携帯食料のようなものを差し出してくる。私は震える指で受け取り、それを食べ始める。おいしかった。

 私は空を見上げる。茜色になりかかり、夜明けを示している。そのとき、轟音が聞こえた。そこへと向くと、戦闘機がいた。でも、もう恐怖を感じることはない。私はつぶやく。

リーナ「天使が、飛んでる……」

 彼は驚いたように私の視線の先へ向き、そして言った。

先生「君は、ミシェルに憧れていたのか」

 私は彼へと振り返る。彼は戦闘機をみつめながら、言った。

先生「君が望むのなら、学校でミシェルみたいにだってなれるよ」

リーナ「私が?」

 彼は私へ振り返りながら頷く。

先生「学校は、君みたいな人をずっと待っていたんだ」

 呆然とする私に、先生は言った。

先生「君の憧れはきっと、心を壊すほどの試練だったかもしれない。けれどその果てにたどり着く最後の自然。この空の景色が、君の心をつくりなおすはずだ」

 私は空を見上げる。空には太陽が現れ、本当に輝いて見えた。

先生「いらない人なんかいない。

 この空を何度もみていくうちに、君は、いかなる時間の自分の姿にも、光を抱いているんだと気づけるはずだ。ミシェルを抱きしめていた君は、その前も、きっとこれからも……」

 ミシェル、父と母、そしてぬいぐるみのあの子を思い出す。光、そうおうむがえしする私に、彼は言った。

先生「希望だ。みんなが生きていていいんだって……幸せを願っていいんだって思える、みんなの幻想。この幻想を信じられないのなら……いまの世界には無理だと諦めてしまうのなら、天使たちのいる学校から始めればいいだけだ」

リーナ「エンジェル、スクール……」

先生「だから……」

 彼はやさしく微笑む。

先生「君も、なりたい自分に、なっていいんだ」

 そこで私は、ミシェルの言っていた言葉を思い出す。

ミシェル「なりたい自分に、なっていい。そう先生から教わったんです」

 私は、自分が話している存在が誰なのかを理解した。

リーナ「先生……」

 また泣き出してしまう私に、彼は優しく頷く。その周囲の人たちも、優しく微笑む。


 あのとき以来、なにかあるたび、私は空を見上げる。

 すべては、もう一度希望を……光を抱くために。

 もしも天使に、なれたのなら。

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