第32話
「……お疲れ様。また無茶したみたいね」
聞き覚えのある女の声が、以前よりも憂いを帯びて、ライルの耳に入ってきた。
「あれ? ワシは……?」
薄らと目を開けると、美女の瞳がライルを覗き込んでいた。頭に感じる柔らかな感触から、少年はグリッドに膝枕をされていると気が付いた。
「……源一郎は魔装で魔力そのものになったのよ。今、世界中に貴方の零が散っているわ。命を破壊する虚の魔力を全て消し去るためにね」
「そうか、上手くいったか……!」そう言うと、ライルはホッとして息を吐いた。
淑やかな声で「よく頑張ったわ」と言いながら、グリッドは少年の頭を優しく撫でる。
年下の女性に子供のように扱われるのは慣れていたが、神木老人は頬を染めた。
「……あの、有難いんじゃが、その……」
「あはははは! 照れてる! 照れてるわね!」
つい先ほどの淑やかさは何処へやら。酷く下品な笑い声だった。
一通り言い合った後、笑いすぎて涙目になったグリッドへ、ライルは尋ねた。
「ここに居るってことは、今度こそ死んだのか?」「……話してあげる。だから交代!」
訳も分からず半身を起こされると、美女の青髪がライルの膝に乗ってきた。
むふー。と自称女神様はご満悦だ。
「前にも言ったでしょ? ここは魂と世界を繋ぐ境界よ。死者はここを通り過ぎるだけ。ここに繋ぎ止められているのは、魔力で世界と一体化した人間だけよ」
「ワシはまだ死んでないと?」
「厳密に言えばね。まあ、あちらの世界から観測すら出来ないし、ほぼ死者かな?」
「ワシとグリッドは出来たじゃないか。ほら、救済の花に触れて」
「あれは例外よ。貴方の魂は他とは情報の種類が違うもの。私と貴方の繋がりを手繰り寄せて、一時的にこちらへ引っ張り込んだのよ」
なるほど、とライルは納得した。前の世界からこちらの世界へ引っ張ってきたのも、元は彼女。であれば、多少の荒技をやってもおかしくはない。
そこでふと、ライルの思考は立ち止まった。
「なあ、今の話だと、ワシとお前さんには何かしらの縁があるって事じゃないか?」
「……あ。い、いえ! 関係ないわよ!」
彼女の瞳を覗き込むと、あからさまに目が泳ぎ始めた。
ボロが出ないよう、彼女は両手を蓋に、口を覆った。その仕草を老人は覚えている。親に心配かけまいと気丈に振る舞いながら、病症の苦痛と戦っていた、愛娘の仕草を。
『大丈夫、元気だよ』そう言いながら、痛みに苦悶する口を必死に抑える姿を。
神木源一郎は、そんな娘を目に焼き付けている。どれだけ時が経とうとも、生まれ直そうとも、それだけは決して忘れない。
「……まさか、美雪、か……?」
グリッドの泳いだ目が動きを止めて、諦めたようにライルの瞳を見返した。
「……はぁ、分かっちゃうかぁ……やっぱりお父さんだね……」
「美雪……!」
全身で彼女の頭を抱き締める。贖罪のように、注ぎ足りなかった愛を満たすように。
「イタタ! もう、分かった、分かったから! お父さん!」
上からの抱擁を受け入れつつ、グリッドは彼の背を叩いた。
ライルが腕を離した途端、彼女の頬に大粒の雫が落ち弾ける。
「ばかもん、どうしてもっと早く言わん! ワシが、これまでどんな想いで……!」
「もう。だから言いたくなかったの。知っていたら、すぐ死んじゃうでしょ?」
娘に会うためになら、確かにそうしていただろう。ライルは静かに深く頷いた。
すると、娘の片手がライルの頬に掛かった涙をなぞる。
「私はね、お父さんに生きて欲しかったの。私が全力で生きて、全身で楽しんだこの世界を。今度は何の後悔もなくね……」
言い終えると、美雪の体から光の粒が緩やかに上がり始めた。
「美雪……これは……?」
「虚の魔力が消えたみたい。お陰で私の魔力は、役目を終えたのよ」
彼女の声から次第に力が失われていく。
「ま、待ってくれ! まさかこのまま……⁉︎」
「うん。ありがとう、お父さん。これでようやく、私も逝けるわ」
安らかな微笑みだった。彼女が生前、死の間際に父に向けた悲壮感は微塵も無い。
ライルは咄嗟に彼女の手を掴み、懸命に叫んだ。
「置いて行かないでくれ! またワシを、独りにしないでおくれ‼︎」
「……お父さんは一人じゃないよ……一人なんかじゃ、ない……」
彼女は震える腕を浮かせると、真っ白な空間の一点を指さした。
そこにあるのは黄色く咲き誇る小さな花。その花弁は少年を見つめるように向いている。
「あれは……?」
「あれを掴めば、多分帰れるわ……さあ、行って。そして生きて。私が大好きなこの世界で。それが、私の最後の願い……」
言い終わると、力を使い果たしたように指先が薄くなる。希薄になる彼女の実像。別れの時間が迫っている。こぼれ落ちる涙もそのままに、ライルは頷いて見せた。
「……分かったよ、美雪。ワシも生きる。お前が守り、愛したこの世界で……約束だ」
「うん。やく、そく……」
絡ませた小指と小指。やがてそれは、ライルの手中から消えていった。
救世主グリッド・メイル。神木美雪は、最後の最後まで、父へ笑顔を向け続けていた。
彼女が居た空間を、ライルは抱きしめ、声を上げる。何度目だろうと、娘を失うこの悲しみは変わらない。
だが、生前の時とは少し違う。今度は自分の足で立ち上がれた。そんな気がした。
少年を見つめ続ける黄色い花。娘の想いに応えるように、ライルは花を強く掴んだ。
途端に猛烈な勢いで下へ下へと引っ張り込まれる。激流の中を逆走するように、古今東西、あらゆる光景がライルの視界を流れていく。平原、森、川、街、民衆……目まぐるしく変わる風景の中、手中で輝く花だけは、決して変わることはなかった。
やがて風景は緩やかな大空一色になり、手に持つ花も形が変わる。それは、温かな指先。
ゆっくりとその手に引かれ、次の時には、空中に投げ出された。急に現れた落ちていく感覚に、少年は思わず「うわあああ!」と悲鳴を上げた。
しかし彼は一人の婦人に抱き止められた。彼をしっかりと掴んだ指先には、古傷と、深い皺が混じっている。年齢は70程に見える老女は、ライルを見て感涙を浮かべていた。
この年代の知り合いは居ないはず。それでも彼女は「ライル……」と震える声で呟いた。
感涙に口元を抑える老女の手を、神木老人は知っている。
その傷が、弛まゆ努力でしか得られない事を。ライル・メーザーは知っている。
そして、潤んだ瞳の奥にある、彼女の力強い輝きも少年は誰より深く知っている。
「フレン、なのか……?」
「ライルーー‼︎」
老境の細い腕が少年を強く抱きしめた。
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