第31話

 『許すな………………』夜空に暗い声が響き渡る。ライルは咄嗟に辺りを見回すが、フレン以外に誰も居ない。救済の花に背を預けて座るフレンも、声は聞こえているらしい。

 彼女も周囲を見回し、ライルへ見える範囲に異常は無いと目で訴えている。

 『許すな………………』「なんなんだこの声は……!」

 困惑するライルと同様に、アーク自身にも覚えがなく、戸惑っていた。

 その正体は、東西南北に展開している魔物達が一斉に発している声。防衛前線を守る騎士達は、その薄気味悪さに息を飲む。あの凶暴な魔物達が、ただ天空へ、声を投げている。

 『許すな………………‼︎』魔物達の絶叫が王都中から響き渡ると、彼らは煤へと還り、煙のように空へと立ち登る。立ち昇る煤を見て、アークは「そんな……」と口を開けた。

 「ええい! アーク、何が起こっているんじゃ⁉︎」

 「……虚の魔力が、暴走している……虚の魔力は私一人の願いで形成されていない。死んでいった魔人達の怨嗟が、死後も残る魔力として私に宿ったもの……」

 「じゃあ、あれはお前さん以外の意思が動かしていると⁉︎」

 ライルが見上げた夜空に真っ黒な球体が形成されている。

 それは次第に肥大化し、既に王都全域を飲み込めるほどのサイズになっている。

 「正確に意思と呼べるものは無い。だからこそアレはもう、死と破滅をもたらすだけの厄災だ……私という核を失った事で、この世界に溶け込もうとしているのかも……」

 「……このまま放っておけばどうなる?」

 ライルの疑問に対し、アークは上空を指さす。

 「恐らくあの球体が破裂し、世界に拡散した煤によって、魔力は消える。魔力が失われれば、あらゆる命は死に絶える……人間どころかこの星の滅亡だ」

 「なら、ワシの魔力で消し去ってしまえばいい」

 アークは少年の言葉に考えを巡らせた。その結果、出た答えに口元を震わせる。

 「……不可能だ。あの規模だ、零の魔力の侵食力をもってしても、消し切れない」

 不穏な風がライルの懐へ吹き込んだ。自分の手を睨み。かぶりを振ってアークを見た。

 「ワシにできる事なら何でもする! だからアーク、アレをどうにかする方法、お前さんの頭脳なら、思い付かんか⁉︎」

 アークは半身を起す。光を取り戻した彼の瞳は、暗黒の空を隅々まで観察した。

 「……やはり無茶だ。世界を覆うほどの魔力なんて、手の出しようが……」と、その時、視界の端に白い花弁が映る。魔人は何かに気が付いたように、救済の花を見上げると、そっと懐に手を突っ込んだ。感じる温もりは、先ほどまで一人の男が滾らせた熱血の残滓。

 深い絶望の中でさえ、諦めず師へ挑みかかった赤い騎士の腕だった。

 魔人の脳内が弾けるように沸き立った。生まれたばかりの希望。

そしてそれと相反する葛藤を胸に、アークは少年へ顔を向けた。

 「ライル……一つだけ方法を思いついた」「おお! 教えてくれ! 何をすればいい⁉︎」

 目の前にドサリと座った少年へ、魔人は躊躇いながらも口を開く。

 「アレは虚の積乱雲だ。君の魔力で球体を破壊したとしても、中にある膨大な煤は拡散する。その範囲が広すぎて、とても消しきれないだろう……そこで、これだ」

 懐に突っ込んでいたモノを、少年の眼前へ差し出した。

 それは、ドラコの片腕。少年は目を丸くしたが、声は出さずに話の続きを促した。

 「これはドラコの腕だが、私が脅威を排除するために回収した”魔装法術”でもある」

 「魔装、法術……」そう呟くと、ライルはその腕に刻まれている法術回路を目で追った。

 「君も見て知っている通り、この法術は魔力と自分を完全に一体化させる。そうして魔力の出力、純度を大幅に底上げする、まさに切り札だ」

 「ワシに、これを使えと言うんじゃな?」

 アークが苦々しく頷いた途端、ライルは腕に手を伸ばす。

 「……魔装とは魔と一体になる事。君の零と一体になれば、最悪の場合……」

 「……そうかい。これを使えばワシは死ぬか」

 カラン、と背後で剣が落ちる音。振り返ると、フレンが呆然と立ち尽くしている。

 「待ってよ。ライル……今、なんて?」

 「……ちょうどいい。フレン、すまないがそう言う事だ」

 沈痛な表情の魔人と、受け入れ難い事実に青ざめるフレン。

 そんな二人とは対照的に、ライルの声はむしろ晴れやかにすら聞こえる。

 「伝言を頼む。メイルルートに居るワシの養母、シスター・サリヴァンに、約束を守れずすまない……貴女と暮らした日々は幸福に満ちていた」

 「やめて、嫌よ。自分で……生きて帰って自分で伝えなさいよ、そんな事……」

 精一杯の抵抗も、ライルにはもう届かない。

まるで予め決まっていた事のように、少年は優しく微笑むだけである。

 「ああ、それとエイトにも」と、今度はアークへ顔を向ける。

 「自信を持て、お前は良い王様だ……と。ドラコ団長には、自由も良いが背負い込むな……と。ついでにフォルマ団長へ、義務責務は結構だが、部下も頼れ……と」

 淡々と、手慣れた様子にアークは思わずライルの肩を掴んで遮った。

 「ライル! 君は本当に分かっているのか⁉︎ 君の魔力は零そのものだ! 上手く意思を貫いて煤を消し去ったとしても、君の体も零になる。つまりは死ぬんだぞ⁉︎」

 その手にそっと触れて、ライルは静かに頷いた。その瞳は清々しささえ感じられた。

 「心配するな。死ぬのは二度目。慣れたものさ……」

 そう言いながら、彼はドラコの腕を掴んだ。

 肌に刻まれた刻印に目を落とし、「ここ魔力を流せばいいんじゃな?」と、確認した。

 アークは唇を噛み締め、頷いた。そんな暗い後悔を払い落とす様に少年は彼の背を叩く。

 「ワシは先に行く。達者で暮らせよ?」そう言って立ち上がり、ライルはフレンへ向き合った。彼女の頬には涙が幾つもの線を作っている。

 「さてフレン、ワシもまだまだ教え足らんかったが……」と、言葉が止まる。

 彼女は耳を塞いでその場に座り込み、子供のように喚き立てた。

 「嫌ぁ! 聞きたくない! もし聞いちゃったら、本当にお別れじゃない! 絶対にライルは死んじゃダメ……! ライルだって故郷に帰りたいんでしょ⁉︎ シスターさんに会って、ちゃんとお礼を言うまでは死ねないって、言っていたじゃない‼︎」

 必死に声を張り上げる。それが無意味でも、フレンは決して譲らない。譲れない。

 そんな彼女の想いと性格は、ライルには十分に分かっていた。

 だからこそか、気が付けば彼の頬にも涙が伝い、朗らかに笑っていた。

 「ありがとうな、フレン」そう言って、俯く彼女の頭に手を置き、優しく撫でくった。

 

 ――零の魔力。感謝を胸に、ライルは想像する。全身に沸き立つ無色透明の揺らぎを。 

 「ワシは良い弟子に恵まれた」

 彼女と過ごした日々に想いを馳せながらも、透明なオーラは右手に収束する。

 「ワシの分まで強く生きなさい。そして、どうか……」

 ライルはフレンの濡れる頬にそっと触れた。彼女の塞がれた耳には何も届かない。それでもライルは微笑みかけ、ささやかな願いを贈る。

 「幸せに…………」右手に灯る透明な揺らぎを、法術回路へ流し込んだ。

 ×――魔装法術。濃密に圧縮された零。それが今、ライルの全身を包み込んだ。

 零という領域外の叡智は、常人が触れればそれだけで意識が窒息する代物だ。

 まさに精神を根こそぎ呑み込む零の嵐が、ライルの視界を、思考を、志を掻き回す。

 一瞬で廃人と化すような無空の波の中、少年は両腕を大きく広げ、まるで長年の友人を迎え入れるよう、受け入れた。

 暗黒の空へ、一筋の閃光が登る。避難していた王都の住民、騎士、臣下、王でさえ、その神々しい光を目にしていた。太陽でも火でもない、誰も見た事のない神々しい輝き。

 暗黒に立ち向かうように輝く白い法衣は、誰あろう、ライル・メーザーが纏っている。

 魔装。それは、己が魔力と一体となり、その本質を世界へ示す究極の法術。

 故に、魔力が教えてくれる。何が出来て、何が出来ないのか。

 アルトの剣を構える。眼前の黒球は下で見るより遥かに巨大。彼の構えた剣など、蚊の一刺し以下だ。それでもライルは恐れない。ゆっくりと呼吸を繰り返し、剣を振り上げた。

 「ふッーーーー‼︎」

 振り下ろした音はない。零によって過程は無に帰し、唯一、結果だけが世界に残留する。

そう。黒球が真っ二つに斬り裂かれたという結果だけが。

 「まだ終わりじゃない! 問題はアレの中身だ‼︎」と、地上のアークはそう叫んだ。

 それは世界を覆い尽くす程の虚の魔力。命あるモノを際限なく呪う。それだけの本能を備えた恐ろしい存在。もし地上に降り注げば、世界の命は悉く喪失するだろう。

 当然それを承知の上、ライルは剣を構え直す。眼前に広がる無数の煤煙。

風に乗って今も拡散を続ける無数のそれを睨む。

 「――零の魔力‼」

 ライルの体が輝いた。神々しい白光のように、昼の空のように、世界を包む光のように。

 同時に、少年の五感覚も消失していく。法衣を揺らめかせていた風の感触も、剣を握っていた両手の感触も。全身を零へと変換しながら、ライルは理解した。

 救済の花とはこうして誕生したのだと。グリッドもまた、魔装の極点へ至り、自身の命を捧げたのだと。そうして死後も残る魔力として、己を世界へ刻んだのだと。

 「ならばワシも、命を使おう。彼らの平穏な世界のために!」

 輝きの中に呑まれながらも、ライルは柔らかに笑っていた。

上空に漂った煤が消えていく。暗黒は零へ帰り、塵も残さず全てを消し去った。

残ったのは、朝焼けを待つ静寂な夜空だけだった。

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