第30話
目を覚ますと、フレンの背中が遠くに見えた。鎧は傷だらけ。破けた布地から赤い傷。
葉脈のように張った黒が、少しずつ肌を侵食している。彼女の命は風前の灯火である。
ライルは目を落とす。腹に突き刺さり、己を固定しているアルトの剣へ。
「今行くぞ、フレン……!」
息を大きく吸い込んで、ライルは剣を握りしめた。耐え難い激痛。胃の腑を通る冷たい感触。痛みで意識を飛ばさないよう、ライルは自分の魔力について思考を働かせた。
魔力。それは極小の願望機だと、グリッドは言った。もしそうなら目の前の苦痛をなんとかして欲しいものだ。だがそれでは魔力は働かない。何故か。願望機ならばその程度の願いは叶えられないのか。理屈に合わない。
(い、いや……!)フレンの背を見つめ、ライルはふと閃いた。
覚醒後、フレンの瞳にはハッキリとした意思が宿った。それまでの、何かに怒るような色は消え、明確な決意が輝いて見えた。それは、人生の分岐路を迷いなく進んだ者の瞳だ。
ではライルは? 武神と謳われた神木源一郎はどうか? 幼い娘を守れなかった男の生涯は、“強さへの渇望”表現すればそんな言葉。如何にして相手を倒すのか、如何にして他者を守るのか。繰り返される死闘、歓声、己への否定と肯定。
結果、彼の道は一点に収束した。武道、スポーツ、芸術に至るまで、身体動作の大命題とも言えよう道。その名も“脱力”。
古今東西の術者にとって、脱力の習得は苦難の道。命を脅かす危機に本能は色めき立ち、危険信号が明滅する。緊張セヨ! 防御を固めヨ! 回避セヨ! と。
それによって生まれる緊張こそが、危機的状況を加速させるとも知らず。
例えば、サイクロプスの巨体に怯んで、足が動かない。10数体のゴブリンに囲まれ、恐怖に手足が震える。巨大なドラゴンが顎を開けても、背を向けて逃げ出す。
”緊急事態に脱力を!” それは最早、本能を克服することに他ならず。
神の創りたもうた肉体の限界を超え、己の意思を貫き通す超神的思想。
言い換えれば、神木源一郎の人生は、削ぎ落とす人生であった。
時間をかけ、力みという力みを武術的理知によって淘汰してきた。やがて、達人の思考は脱力を超え、根源へと到達する。
即ち、武による”零”へのアプローチ。宇宙の根源法則そのものへの接触。技術による零の体現を以て、己が意思を世界へ投影する。もはや”願い”という純度の低いものではない。言うなれば、”信仰”。己の肉体を信じ、更なる領域を奉る無変の祈り。
”零”という信仰を前に、如何な魔力であろうとも、無へ帰せざるを得ない。
それは自身の魔力すら例外ではなく、無色透明・観測不能・絶対無変の魔力が生まれた。
その魔の名は……。
「――零の魔力‼︎」漆黒の鎧を消し去り、剣は右袈裟へ流れ込む。濃密に折り重ねた魔力の鎧は、煙のように風に溶け、切先がアークの胸から腰にかけて線を作る。
その最中、アークは少年の魔力を理解した。理解した上で戦慄した。
魔力とは一種のエネルギー。なんであれ、世界に対して物理的な影響力を持っている。それが剣だろうと、龍だろうと、それは確かに物理的に存在し、他者に干渉出来る。
ライルの魔力はそうではない。零という存在によって、力のみに侵食する魔力。
”魔力への侵食”という能力は虚の魔力に似ているが、その概念規模は比にならない。
事実、アークの放ったこれまでの攻撃全ては、抵抗も許されず消されている。魔装を斬り裂いた後もそう。どれだけ魔力が重なろうと、零が触れるだけで問答無用に存在を失う。後に残るのは、力を失った魔力の主。
ライルの斬撃によって魔人はのけぞるも、地面を蹴って大きく後退した。
ライルはそれを許した。先の斬撃も本意気ではない。敢えて浅く振ったのだ。
「……後悔している。どうして君をもっと早く始末しなかったのかと。魔力が無いだなんて誤解もいい所……”無”こそが君の魔力の本質だというのに」
2メートルもない間合いから、アークは呟いた。浅い傷からは血が滲み出ている。
「教えてくれたのはグリッドだ」
その名が出ると、アークは顔を上げた。一時は目を見開いたが、すぐに口元を綻ばせた。
「そうかい……元気そうだった……?」「そりゃもう。捲し立てられたわ」
どこか懐かしそうに笑うと、アークは目を細めた。その表情を見つめて、ライルは語る。
「彼女から伝言だ、アーク。もう復讐なんてやめて自由になれ、昔のように、だとさ」
「…………変わらないな。どこまでもこちらの都合などお構いなしか」
俯いた彼へ、ライルは希望を持って続ける。
「トラットよ……お前さん、どうして騎士として人を導いて来た? どうしてドラコとフォルマを育て、王都に光をもたらし、エイトの手助けをしてきたんだ?」
「……言った筈だ。全ては計画。失った魔力を取り戻し、人類を滅ぼすための……」
「始まりはただの計算だろうさ。だがな、ドラコやエイト、フレンや街中の人間達でさえアンタを心から慕っている。計算で動く者が、果たしてそこまでの信頼を勝ち得るか?」
「……何が言いたい?」
グリッドの言葉を思い出す。あの場所で、彼女が託したアークへの想い、願いを。
「アンタは……人を慮れる優しい魔人だ。それが本来のアークであり、トラットだ。人を滅ぼすなんて、アンタが一番やりたくない事だろう?」
「やめろ‼︎ もうこれ以上喋るんじゃない‼︎」
揺らいでいる。アークの中にある決定的な何かが。
「分かる訳ないだろう……家族を殺された悲しみが……生き残った僕の孤独が!」
剣を鞘に納め、ライルはゆっくりと地面に置いた。
「失ったもんは取り返せん……だが、その孤独を埋めることは出来るはずだ。エイトが治める王国ならば、それが出来る。お前さんにも分かるだろう?」
ゆっくりと手を広げ、ライルは魔人へ歩み寄る。
「帰ろう。もう復讐は終わりだ」と言うと、少年は手を差し出した。
魔人の震える手は未だ葛藤の中にある。ライルの寸前で止まって動かない。だがやがて、アークの手が少年の手を掴み、がっしりと強く握られた。
「アーク……!」とライルが顔を上げた瞬間だった。魔人の拳が少年の顔をかち上げる。
「っ‼︎」
「私はあくまで魔人だ。これまでも、これからもッ! 魔人として復讐を果たす!」
のけぞるライルの手を引いて、アークは再び拳を振り上げた。しかし、その腕は硬直し、ライルの寸前で歯止めがかかる。
――神木流柔術、仙流。接触点……この場合は掴んだ手を媒介に、襲いかかる者の力の流れをコントロールし、無力化してのける技。
「そうだ、それだ! 君の真価は身体にある! だからこそ……!」
かくり、とライルの手中から抵抗が消える。少年の手に溶け込むように、魔人の力は一瞬にして消失した。この手応えにライルも思わず視線を下ろした。だが接触は続いている。
次の瞬間、少年の顔面に魔人の拳が叩き込まれた。
「がっ……‼︎」口から血を滴らせ、回る頭で魔人を見る。それは、恐ろしい狂笑だった。
「君相手に魔力で圧倒するのが間違いだった。どうあれ君は魔力など意に介さない。であれば、残る力は一つ、頭脳だ……目の前の未知を切り開く力だ!」
「……っ、ワシの技を理屈で当てはめたか!」
「理屈? そんな抽象的なものじゃない! 計算だよ。数列と方式によって君の動作を解析した。今、この場で! そしてッ……!」
手のひらを硬く握り、魔人は次なる打拳を撃ち放った。
「ぐあ!」と言う声と共に飛び散る少年の吐血。その顔に受けた3発は、小柄なライルには十分すぎた。視界が赤くぼんやりし始めた。それでも構わず接触点から力を流し込む。
「神木流――「無駄だ‼︎」」
魔人、再びの脱力。消え去った力感の次に、4発目の打拳。そして続け様に5発、6発、7発と拳が襲う。ライルはその全てを全身に受け止める。不思議だった。少年を苛む拳の数々には殺意を感じない。むしろ、それとは全く逆の意思。殺してくれとでも言いたげな、寂しい情景が見える。アークは口角を上げたまま、容赦無く拳を振り下ろす。だがライルは確かに観て取る。彼の瞳から赤い涙が流れている事を。
グリッドは言った。
『アークとは同郷でね、昔は街に遊びに来た彼を引っ張り回して遊んでいたの……彼は、とても優しい魔人だったわ……トラット卿は、昔の彼そのままだった……お願い、源一郎。彼を取り込んでいる怨念を打ち払って、元の優しいアークに戻してあげて!』
「どうしたライル‼︎ このまま黙って殺される気か⁉︎」
懇願するような魔人の絶叫。無抵抗に殴られるライルの眼光が、ずわり、と靡く。
(――零の魔力よ、お前がワシの願いというなら、この男を救って見せろ!)
達人は再び脱力を走らせる。妙技、仙流。この技への対抗策は確かに存在する。
力を操作するこの技は、相手の緊張あってこそ。受けた側が脱力すれば、当然技は成立しない。だが老人が生きた世界では、この事実を看破し、対応出来た人間は一人も居ない。
対処法を導き出したアークの頭脳は間違いなく、武神同様に極まっていると言える。
「その技は、もう計算済みだッ!」
魔人は繋がった手から脱力し、硬直を受け流す。そして足を踏み込み、反対の握拳を加速させた。ところが、ライルの顔面へ向かおうとした握拳は、寸前で停止した。
脱力はしている筈にも関わらず、アークの全身は硬直が支配している。
「アーク……脱力が、足りねぇぞ……」
――神木流奥義、零王。それが、この現象の名前だった。重なったままの左手と右手から駆ける脱力。否、脱力を超えた無空。触れる者の力を排除し、無力化する透明の力。
アークの体を支えるべき筋力達は軒並み力を失い、辛うじて残ったのは僅かな体幹だけ。
ライルは拳を握った。大きく息を吐き出して、己の魔力へ願いを捧げる。今はただ、この哀れな魔人を救いたい。それだけの想いを込めて。
――零の魔力。目には見えない何かを、拳へ宿らせる。朧げで、零の力をそのままに、ライルはゆっくりとそれを放った。
少年の拳が触れた途端、アークの世界が一変した。煤が、黒い炎が、解放されていく。
膨大な怨嗟の声。悲鳴。絶叫。彼の中で響き続けていた者達が、切り離されていく。
やがて黒の全てから解放されると、魔人は大の字に倒れた。肌の色味が元の明るさを取り戻し、目に光が映る。それを覗き込むように、白銀髪の少年が彼の側にどかりと座った。
「……これは一体?」
「なぁに、ワシも魔力に願いを託してみたのさ。お前を救ってくれとな」
「……魔力解釈の拡張……いや、縮小することで効果と純度を底上げしたのか……」
「難しい事は知らんよ。そんな事より、気分はどうじゃ?」
笑顔を向けてくる少年に、アークは口元を歪ませる。
「……どうしてだ……どうして殺してくれないんだ……」
「……グリッドに頼まれたってのもあるが、お前さんにはまだ果たすべき務めがある。だからな、そう簡単には諦められんかった」
「務めだと? 人類への報復以外に何がある? 私はそのためだけに生きてきたのに」
アークの胸に空いた喪失感。それは決して埋まらない。埋めてはならない。だからこそ、その苦しみには乗り越える価値があると、神木老人は信じている。
「いいかアーク。お前は語り継がなければならん。過去の凄惨な出来事や、お前達魔人族が味わった苦しみを。世界で唯一、お前だけが伝えられるのだから」
「……それでも、私は人間が許せない」
「そうだろう。だがアークよ……エイトやドラコ、フォルマまでも許せなかったか? 過去を知らなかった無垢な子供達までも、お前は許せなかったのか……⁉︎」
少年の言葉と熱に、アークは顔を上げる。曇天の中、白銀髪の少年は、彼の潤む瞳を真っ直ぐに見つめていた。
魔人の意識がそうさせたのか、世界中の魔物達は立ち止まり、糸が切れた人形のように動かなかった。騎士達も、その光景に矛を止め、困惑の静寂が世界中を包み込んでいた。
なだらかな風が吹き、ライルの白銀の髪を揺らすと、魔人は重たい口を開く。
「私は……生きていいのか? 王都にこんな被害をもたらした者が……」
それが本音だったのだろう。ライルは魔人の手を握りしめた。強く。決して離さぬよう。
「ああ。罪の意識があるなら尚更、前を向いて生きろ!」
ライルが握ったその手が、微かに握り返された。まるで少年の言葉に応えるように、微かだが強く、熱い。そんな感触があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます