第26話

 東の防衛線は苦境にあった。白斬が管轄するここは、防衛線の中でも最も兵数が少ない。

その上、無数のゴブリンやオークによって前線は崩れかかっている。

 前線を下げたいが、彼らの背には今も避難の最中だ。

 「皆、耐えろーー‼︎ 絶対に突破させるなぁーー!」

 今は背水の士気だけで凌いでいるが、騎士達の魔力は限界に近い。焦る心を押し留め、指揮官は祈るしかない。応援隊の到着を。だが、そんな想いは次の瞬間つゆと消えた。

 「――虚の魔力」

 戦場に煤が立ち込め、魔物達の動きが止まる。騎士と指揮官も、その姿を凝視した。

 そこに居たのは異形の人型。灰色の肌をしたそれは、漆黒の瞳で周囲を見回している。

 「あ、あれは……魔人か?」

 頭上に生えた角を見る限り、魔人族だ。しかし、周囲に撒き散らした邪悪な魔力はとても同じ命を持つ者とは思えなかった。自然災害はあらゆる命にとって等しい脅威。人は畏れ、祈る事で当然の摂理として圧倒的な脅威を受け入れる。

だが目の前のこれは違う。信仰とか、畏れとか、そう言った感情が介在する余地が無い。

 触れるだけ、目に映るだけで全てを黒く染めるような圧倒的闇。生きる者が触れていい力ではない。結果、選りすぐりの騎士凡そ100名全員が、未知の存在に足を竦ませた。

 「……東門か。グリッドめ、召喚法術だけでなく、転移法術さえも阻害するとは」

 「……き、貴様‼︎ 何者だ‼︎」

 前列の騎士が声を上げる。絶叫にも似たその声に引かれ、周囲の騎士達も剣を構え直す。

 魔物達は動かない。主人の合図を待つように、騎士の軍列に睨みを利かせている。

 当の魔人は遠くに聳える救済の花を見つめるばかり。その隙を見て、先ほど叫んだ騎士が惚ける魔人目掛けて突進した。だが、若さに身を任せた一撃に待っていたのは、死。

 壁のように現れた煤が青年を包むと、彼は重力を失ったようにその場に崩れた。

 伏した青年の体を前に、魔人はようやく騎士達へ目を向ける。

 「……ん? ああ、白斬騎士団の諸君かね」と、興味なさげに、怪異はそう言った。

 生き物としての格の違い。蟻が人間に挑むような絶望的構図を、騎士達は想起した。

 無意識に軍列はじわりと後退するが、それに歯止めをかけるのが指揮官の仕事だ。

 「下がるなぁーー‼︎ 私たちの仕事は市民の避難のために時間を稼ぐ事だ‼︎ 今は、一分一秒でもあの怪物を押し止めるんだ‼︎」

 軍列に使命感の大火が灯る。守ることは守護騎士の領分であり誇り。その為になら、彼らはいつでも死兵になる。畏れや本能を越えた、人の精神性が為せる御技。その名も協調。

 「そう、それだよ。人の呪われた能力は。君らはいつだってそう。集団を統一して大群を成し、残虐な事も平気でやってのける。あまりにも身勝手な生命。それが君ら人間だ」

 魔人はふわりと浮き、両手を広げる。煤色の魔力が大気に満ちていく。

 「私はそんな君らを廃滅する。この世界の正義であり復讐者。魔人アークだ」

 ――虚の魔力×創剣法術。大気の煤が無数の黒剣を成す。

 騎士達は雄叫びを上げて恐怖を跳ね除け、それに呼応するように、魔物達が興奮する。

 「始めよう」と、あまりにも些細な魔人の声で、軍列同士は大地を蹴った。

 騎士達を蹂躙せんと、黒剣の切先が向いたその時、別の剣が空から降り注いだ。

 「剣の魔力×疾風法術!」

 魔人より数十メートル上空から放たれたそれは、黒剣を打ち消し、魔物達を蹂躙する。

 「……これは」

 「よう、師匠!」と、背後に現れた快活な声。魔人アークに振り返る暇も与えない。

 「龍の魔力×強化法術!」龍燐に覆われた巨大な拳が、魔人を易々と吹き飛ばした。

 東門を形作る壁にめり込み、瓦礫に覆われながらも、アークは強かに笑う。

 「ははははは! 今更何の用だ、我が弟子達よ……」

 魔人は睨む。龍と剣、たった二人の国土級を。

 「見えるかフレン?」「ええ。団長達、もう始めたみたいね」

 王都の中心に聳える救済の花は、王城西側の丘に根を張っている。そこは救済の花を讃える宗教、拝花教の聖地であり、神殿だ。避難体勢にある現在、神殿は二人以外には誰も居ない。それなりに高さがある故、空中から魔人を探していた団長二人が急降したのはすぐに分かった。そして、その場所に魔人アークが居ることも。

 「魔人の姿は?」

 王城の物見小屋から拝借した双眼鏡を覗き込み、フレンは応えた。

 「トラット卿の時と姿は違うけど、居るわ……団長達、苦戦してるかも……」

 「何ッ! ちょっと貸してくれ!」

 手渡された双眼鏡を覗くと、空中で肉弾戦を演じるドラコの姿。彼を支援するように幾つもの剣が魔人へ降りかかるも、その全ては、黒霞に溶け込んで消えてしまう。

 「どうなっとんじゃありゃ……」

 (……勝てねぇな、こりゃ……)

 もう何度吹き飛ばされたのだろう。砂と瓦礫を押しのけて、ドラコはまた立ち上がる。

 頭上には異形となった、かつての師。変わり果てた風貌でこちらを見下ろしている。

 (……魔力は残り少ねえ。体力も微妙。魔装も使えねぇ。くそっ、フォルマとの喧嘩、もうちょっと手を抜いとけばよかったぜ)

 最中、魔人へ放たれたフォルマの魔力剣。剣身は痩せ細り、同じく疲弊を感じさせた。

 (疲れてんのはお互い様か……俺と奴、どっちも負けず嫌いだもんな)

 己の魔力を再び回す。熱の入ったエンジンのように、勢いよく翼が開く。

 昔からフォルマとは反りが合わなかった。初めて出会った時、貴族出身を鼻にかけたいけすかない奴、だと思った。貧民街の悪ガキだったドラコ少年は、フォルマ少年の綺麗な服装を見るだけで虫唾が走り、しょっちゅう喧嘩を売った。

 貧困で母親を亡くした当時の彼には、そういう者は全てが敵に見えたのだ。

 フォルマが背負っていたものを知ったのは、ドラコが騎士団長になった後だった。フォルマもまた、幼くして母親を亡くしていた。それも、貴族同士の権力闘争によって。彼にとって、裏工作や暗殺など日常茶飯事。長男であったフォルマは、10歳にして狙われる立場にあったのだ。そんな中、暗殺者の凶刃からフォルマを守ったのは、誰であろう彼の母親だった。事実を知って、ドラコはずっと後悔していた。どうしてもっと早く、フォルマに寄り添ってやれなかったのだろうと。


 「剣の魔力――‼︎」もう詠唱しても大した出力がない。ドラコとの戦いで予想以上に消耗していた。フォルマは考える。国と人を守る最善の方策を。己が師を倒す策略を。

 (もし、通用するとすれば……)

 と、その時、ドラコが猛スピードでアークへと突進した。火炎と龍燐を携え、全速全力の拳を魔人へ叩き込む。だがそれでも、魔人アークは煤となって避けもせず、かえす刀で打撃を放つ。ドラコの分厚い龍燐は掻き消え、翼を失い地上へ落下。追撃へ迫る魔人目掛けて、フォルマは再び剣の魔力を撃ち放った。

 (ドラコめ、昔から突っ走って、痛い目を見ても懲りない、本当に世話の焼ける奴だ)

 初めて見た時から気に食わない奴だった。ボロボロの不潔な格好で、目が合うだけで喧嘩を売ってくるガラの悪さ。そんな者は、貴族社会では生きていけない。あっという間に爪弾きものだ。だが、そんなドラコの自由奔放な生き方に、酷く嫉妬したのも事実だった。

 周囲の目を気にしない。行きたい方向へ行く。仲間と肩を組んで歩く。そんな自由、フォルマには許されない。市民の範たる貴族。貴族は市民の為、平穏を守護する務めがあるからこそ、規律と品格が必要だ。だからこの血は尊いのだと、彼は亡き母に教わった。

 ある時、ドラコの母親が貧困で亡くなったと知った。それは紛れもなく、貴族の悪政が原因だった。そんな彼になんて辛く当たったのだろうと、フォルマは酷く後悔していた。

 何よりお互いが騎士団長になってしまったのが悲劇だった。団長である以上、組織のメンツを保たなくてはならない。二人の関係は白斬、紅翼の不仲に反映されるように、悪化していった。もう、手を取り合う事などないだろうと、互いにそう思っていた。

 「……フォルマよぉ、まだ立てるか?」

 アークに吹き飛ばされ、フォルマはドラコと隣り合った瓦礫に居た。

 「愚問だな、お前こそ、随分と疲れているようだが?」

 「愚問はテメェだ……て、喧嘩している場合じゃないな」

 薄い砂煙の中、ドラコはフォルマへ手を差し出した。

 その手をがっしりと掴み、フォルマは瓦礫をどかしながら再び立ち上がる。

 未だ魔人アークは健在だ。空中でこちらを覗き込み、挑発するように声を上げた。

 「どうした我が弟子達! 国土級とはその程度か⁉︎ 人類最強の騎士とは紛い物か⁉︎」

 騎士達の士気を下げる魂胆か、アークの声が戦場へよく通る。

 「「アンタが名乗らせたんだろう」が!」と、二人の声が揃い、顔を見合わせる。

 今は戦闘中。まして相対するのは最後の魔人であり自らの師匠。本来ならばあり得ない。こんな場面、嫌いあっている男の前で、吹き出してしまうなど。

 張り詰めた緊張の糸、二人を結ぶ後悔の糸、騎士団長・国土級としてのしがらみの糸。

案外簡単に切れるものだ。笑い合う二人にはもう何の執着も未練もない。お互いがお互いにそう確信した。だからこそ、二人に新たな糸が紡がれた。

 「……一個策がある。お前とじゃ絶対に無理だと思っていたが、今なら」

 「奇遇だな。恐らく私も同じ事を考えている」

 目を見合わせる。たったそれだけで、互いの意図を汲み合った。

 その瞬間だった。「随分と余裕だな」という魔人の声と共に、煤色の魔力が二人を襲う。

 「ぶっつけ本番だ!」「おう!」

 ドラコは翼を広げ、フォルマの肩に抱えて上空へと舞い上がる。

 上へ上へ。師、トラットよりも更に上へと上昇し、二人は狙いを一点に定めた。

 こちらを見上げるアークを睨め付け、二人は残る魔力を搾り上げる。

 「剣の魔力!」規律と自己犠牲の誓願。

   ×

 「龍の魔力!」力と他者救済の誓願。

 折り重なった二つの魔力。巨大にして清廉な剣が天を突き、剛蘭な龍がとぐろを巻いた。王都の空に現れた特大のそれは、たった一人の魔人へ向けられる。

 「「行けーーーーー‼︎」」

 龍が轟き、剣が唸る。魔人アーク、敬愛する師トラットへと、龍剣が振り下ろされた。

 「……虚の魔力」

 巨大な切先へ魔人が発したのはそれだけ。それだけで、黒い煤が龍剣を覆い、喰らう。

 鉄砲水のように迫るドス黒い魔力は、ドラコに反射の隙を与えない。動けたのは、この土壇場でも冷静でいられたフォルマだった。

 「…………ドラコよ、色々と、すまなかったな」

 純白の騎士はドラコの肩を突き飛ばす。離れる体。微笑む顔。戸惑いに曇る赤い騎士。

 「フォル……」そう、男の名を呼ぶ前に、彼の姿は黒い魔力に飲み込まれた。

 「君たちは分かっていない」と、ドラコの背後に酷く失望した魔人が浮かぶ。

 「テメェ‼︎」と魔力の枯れきった腕で殴りつけるも、容易く拳を抑えられた。

 「虚の魔力の本質は、人の世の否定にある」言いながら、アークの手に力が籠る。

 ドラコの掴まれた拳が、悲鳴を上げ、骨の砕ける音が漏れる。

 「くそ! くそ! クソおおおおお‼︎」

 「……これは憤怒だ。我ら魔人族一人一人の怒りであり憎しみだ。だからこそ、人が生み出した魔力は虚にとって恰好の獲物。マイナスに何をかけてもマイナスになるように、虚に如何なる魔力を使用しても全て虚にとって代わる」

 師として弟子を諭すように、絶望を押し付けるように、アークは懇々と語ってみせる。

 「師としては嬉しい誤算だったさ。君らがあのような連携を見せるとは……魔装の状態でやられていれば、虚でも危なかった。まあ、そんな可能性は一欠片も残さないがね」

 黒い刃がドラコの右腕を両断する。彼に痛みを感じる暇もなく、地上へ堕ちていく。

魔人は血の滴る右腕へ目を向けた。そこには、かつてドラコに贈った魔装の法術回路が脈打っていた。それは微かにあった脅威。だが、これさえ無ければ何も問題はない。

 「さて、残るはグリッド。君か」

 上空からその巨大な花を睨む。大きく咲いた花弁は腹立たしい程に美しく見えた。

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