第20話

 汗と朝潮の匂い。煤に塗れた青年の腕には、痩せ細った小さい我が子が抱かれている。

 『私ね、お父さんみたいに強くなりたかった。強くて、やさしくて、それで……』

 少女は少ない命を削り、拙い言葉を紡いでいる。だが青年にはもう、涙ぐむ事しか出来ない。震える肩で抱きしめてやる事しか出来ない。

 『お父さんみたいな、英雄さんになりたかったなぁ……それでね、困っている人をたすけるの……』

 男は少女の名を叫んだ。だが、嗚咽の混じりの声は、既に少女の耳には聞こえない。

 『お父、さん……死にたくないよ……みゆき、やりたいこと、まだ、いっぱい……』

 それが愛娘の最後の言葉だった。胸に残った後悔は、男の中にあった希望を消し去った。それ以来、彼は命を投げ捨てるように生きた。いっそ誰かに殺して欲しいと、心の底から祈り、無茶もやった。それでも、いざ死の間際に立つと愛娘の最後の言葉が聞こえてくる。

 自分でも矛盾していると理解しながら、その度に、こう思うのだ。

 『娘の分まで生きなければ……』と。

 「……走馬灯を見るのはいつ以来か……!」

 登る黒煙、焦げた草原、燻される風景が、巨大な龍を中心に放射状に広がっている。

 只中にあって、ライルは確かに生きている。直撃すれば絶命必至の熱線を前にライルの退路は一つだけ。前である。熱線の直前、周囲を焼く気配に、少年は走った。龍の顎が開くか開かないかの合間に、足元へ飛び込んだのだ。結果、ライルは龍を見上げていた。

 新品のように輝く鱗は一見滑らかだが、それぞれに凹凸がある。指や足を掛けるには十分。であれば彼に取れる手段はこれまた一つ。僅かな勝機に賭けて、少年は手を伸ばした。

 「……ッな、貴様生きて!」と、龍へと変じたドラコが野太い声を上げた。

 少年はそれを意に返さず、跳ね上がるように登り、ドラコの太い首へとしがみついた。

 「離れろ貴様‼︎」という咆哮と共に、巨大な鉤爪が虫でも潰すように打ちつけられた。少年は辛うじて背に回り、それを回避する。これからする足掻きは最早賭けだ。それもとびきりリスキーな。だが、神木老人には確信がある。なぜなら彼は百年もの間、人体の破壊という崇高な学問に尽くしたのだから。骨と神経、肉があれば、急所は必ず見出せる。

 (龍とはいえ、所詮生物。であれば人と同じように急所があるはずだ……!)

 狙う場所は一つ。針一本で大の大人すら動きを止める、腰の要点。――経穴、命門!

 するすると背を伝い、巨大な飛翼を通り過ぎ、尾の付け根と腰の間にしがみ付く。

 (間違いない……! 骨の位置、骨格の動きからして龍にとっての命門はここ!)

 ライルはそう推察し、その場所へ手をかける。すると、ドラコの本能が想起する。板の上で今にもナイフを突き立てられそうな己の姿を。「くっ……‼︎」と息を漏らし、巨大な翼で空を掻いた。途端少年は、上昇の風圧で押し潰される。

 「ぐぬぅ……気付かれたか、だ、だが……!」

 強烈なGの中、ライルは腰の剣を抜くと、急所を守る鱗を剣で剥ぎ落とす。

 視界はどんどん迫り上がり、焼けついた草原が小さく見える高度へ至っている。

 「何をしても無駄だ! このまま落ちて死ね……!」

 言葉の後、翼が空気を掬い700メートル直下に旋回した。浮遊間を伴った暴風がライルへ襲いかかるも、掴んだ剣は離さない。見出した経穴から、決して目を離さない。

 「そうだな、なら、せめて……一緒に堕ちようや……!」

 頬を打つ暴風に負けず、声を荒げ、ライルは剣を突き立てた。その刺激に、飛翼と尾がピンと伸びて硬直する。ドラコの全身はたった一刺しで凍り付いたのだ。

 ”命門”は書いて字の如く、命の源。ここには、下半身と上半身を結ぶ神経が集中しており、僅かな刺激でも、全身へ異物が流れ込むように伝播するのだ。

 然るに、肉体は判断せざる負えない。超緊急的な、筋肉の硬直を。

 「な……なに、を……!」

 最早シンプルな自由落下。その間、時間は意外にもゆっくりと流れていく。

 ライルは、深々と刺した剣の柄で身体を支えながら、フレンの無事を静かに祈った。

 一方地下は凄惨を極めていた。

 「アハハッ……♡」と響く魔人の声は、斬って斬られるほどに加速し、熱を帯びていく。

形勢はフレンに不利でしかない。血の一雫も落ちない殺し合いは、どれだけ痛みに耐えられるかが肝となる。だが、フレンの脳が処理しきれる痛みも許容量を超えつつあった。

 剣の創傷、実に30箇所余り。通常であれば2、3太刀で出血死している。それでも無事に作動する彼女の肉体は、膨大な矛盾を抱え続けていく。

 結果、動きは確実に鈍くなる。錆びていくブリキ人形のように、少しずつ、着実に。

 一方の、魔人ミストレアは異常である。傷を負えば負うほどに、滑らかで、艶やかに動き回る。興奮は次第に高まり、漏れ出る吐息に、魔人の剣速は絶頂へと近づいていく。

 「ハハハ……あははハハハハはハhハハハはハハハhh……‼︎」

 繰り出された連撃が、フレンの全身を斬り刻み、治す。鈍い身体に躱す手立ては無く、フレンの痛覚が悲鳴を上げる。痛い。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛いい‼︎

 激痛は、彼女の決意も覚悟も塗りつぶす。やがて、糸の切れた人形のように床へ堕ちた。

 「はぁはぁはぁ……、フレンちゃんったら……早すぎるわよ?」

 立ち上がらなくてはならない。早く魔人を倒し、ライルを助けに行かなくては。そんな理性は、痛みからの忌避という本能が封殺する。彼女の肉体は全てを拒否していた。

 「もう、しょうがないか、初めてだもんね♡ ゆっくりやればいいわ……」

 囁くような声に歯噛みする。だがそれでも、金縛りのように指一本たりとも動かない。

 「ずうっと一緒にいましょう、フレンちゃん……あの方が人類を滅ぼしても、貴女だけは生かしてあげる。そして、永遠に私と愛し合うの……」

 「だ、誰が、貴女なんかッ!」そう叫んだフレンの腕に剣が突き刺さる。

 「ははははっ! いいわぁ……スゴくいい! そんな貴方が見たかったのよぅ……!」

 酷く重厚な殺気、痛みに肉体は屈服し、狂った笑みに感情を乱される。本能は立ち上がることすらも拒否。もはやフレンの心は諦めを抱えて冷え込んでしまう。

 (……ここで死ぬのかなぁ……結局パパとママの仇は取れなかった。それに、せっかく都市級になったのに、大して活躍も出来なかった。後は……ええっと……)

 フレンの心は思い出を拾うように彷徨い始めた。浮かぶのは両親の優しい顔。紅翼騎士団の悪友達。そして、ライルの綺麗な瞳。

 『ライルはどうしてそんなに強いの?』

 夜の山は暗くて寂しい。山籠り唯一の娯楽は、焚き火を囲んでのお喋りだ。

その夜も何気なく聞いたつもりだったが、ライルは随分と考え込んだ。

 『……そうさな、きっかけは娘だったかな……』そう、重い口を開いた。

 『へえ、娘さん! 貴方の血を継いでるんだから、さぞかし頑固だったんでしょうね!』

 聞くとライルは、嬉しそうに、懐かしそうに、笑って答えてくれた。

 『ああ、その通りだ。ワシそっくりの頑固娘だった。フレンと同じで花や植物が好きでな。よく図鑑を持って、一緒に森を散策したもんじゃ……』

 『ふふっ、私も子供の頃はパパと一緒に森を歩いたわ!』

 ぱち、ぱちと焔が跳ねて、静かな森に音を添える。

 『娘にな、言われたんだ。お父さんみたいな英雄……強い人に成りたいってな……父親としては、そこまで言われちゃ強く有るしかねぇ……』

 『……親ってさ、子供の為ならそんな事も出来るの?』

 ふとそんな疑問が湧いた。あの夜を思い出したからだろうか、少し胸が傷んだ。

 『色々あったがな、まあ、大方その通りさ』そう言うと、ライルは真っ直ぐに私を見た。

 『親ってのはな、子供の為なら何だって出来るんだ。それこそ命だって投げ打てる。明日も健やかで、幸福に生きて欲しい。親が子供に託す願いなんて、総じてそれだけさ』

 にっこりと笑ったライルの表情は、両親の微笑みとよく似て見えた。


 腕に突き刺さった刃を、私は握りしめた。

 「……フレンちゃん?」

どうしてもっと早く気が付けなかったんだろう。

ずっと寂しかった。どうしてパパとママは私を残して逝ってしまったのか。どうせなら私も一緒に逝きたかった。私が騎士になったのは、両親がそうしたように、私も誰かを救って死ぬ。その為に生かされたのだと、ずっとそう思い込んでいたからだ。

 でも、そんな子供の我儘は、もう終わりだ。

 「嬉しいわ……まだ動けるだなんて……」

 魔人が剣を引き抜くと、指と腕に痛みが襲う。だがそんなものはとっくに霞んだ。

 今、心に灯った決意に比べれば、大した事じゃない。願いは一つ。両親が私に託した願いを、私が体現する。誇るべき二人の血を継いだ騎士、フレン・ジラソレとして……‼︎

 暖かい春風が室内を駆け巡った。ふわりと香る花草の香り。生命の伊吹。その力の中心に在るのは、私と、私の願いを象った魔力。「――華の魔力‼︎」と、その名を称んだ。

 新緑に輝く蔦が私の全身に伝う。それは力の入らない私の筋力にとって代わる。力の抜けたまま全身の蔦を操り、私は再び立ち上がった。

 「……へぇ、覚醒したんだ、おめでとう、フレンちゃん」

 魔人は「また遊べる」という愉悦の表情だ。そんな彼女を見て、口から想いが溢れ出る。

 「可哀想……」

 彼女は、親から受けた筈の愛を知らない。もし彼女の親が少しでも長く生きていれば、誤った情動を正す機会はあった筈。その機会を奪ったのは、間違いなく私たち人類だ。

 そんな私の憐憫と心苦しさは、彼女を逆上させたようだ。

 「なに、それ……貴女に求めているのは憐れみじゃない! 傷、苦しみ……愛よ‼︎」

 魔力が渦巻き、彼女の剣が振り上がる。だが、さっきまで恐ろしかった剣はやけに頼りなく見える。降りかかるそれを前に、私は一歩、踏み込んだ。

 「そんなモノは、愛じゃない‼︎」そう叫ぶと、魔力の蔦に花が開く。

 ――華の魔力×神木流剣術 表裏! 生命力溢れる一閃が、ミストレアの剣を跳ね上げると同時、舞い落ちる花弁のように、袈裟に振り下ろす。

魔人は私の剣を意に返さない。跳ね上げられた剣を振り下ろそうと目を剥いた。しかし、それは結局出来なかった。私の魔力がそうはさせない。

 「な、なに……こ、の……⁉︎」

 左肩から胴まで刻んだ斬痕から蔦が伸びる。それは彼女の体を覆い拘束した。癒の魔力を注げば注ぐほど、蔦がそれを養分として生育し、いくつもの蕾を作る。治る頃には蔦は十全に成長し、ミストレアに身動きひとつ取らせない。

もう戦いはまっぴらだ。私は剣を鞘へ収め、彼女へ言い放った。

 「もうお終いです。ミストレア卿」

そう語りかけるような私の口調に、ミストレアの表情は不安な色に染まる。

 「嫌……こんなの全然痛くない……それにどうして、どうしてこんなにあったかいの?」

 そこには、私の温かな魔力に戸惑うだけの少女がの姿があった。壊れてしまった彼女には、その温もりがどう映るのか、私には分からない。だから、伝える努力をしなくては。

 「私が両親に受けた愛情。それが私の魔力の本質です。痛みでも傷でもない。愛っていうのは、暖かいモノなんです」

 「嘘……嘘言わないでよ……」そう俯き、蔦にまみれた彼女を、私はそっと抱きしめる。

肌は死人のように冷たいが、私は体温を分け与えるように強く抱きしめる。

 「感じますか? 肌の温もりと、私の鼓動を……他者を感じ、思い遣る。それこそが愛です。貴女のお母様が教えようとしたものです」

 「これが……?」と呟き、彼女はゆっくりと私の身体を受け入れた。

 「それでも、私は……」

 頬に伝う涙は、後悔か懺悔か。霞んだ声からは元の妖艶さが失せている。

 「貴女を許します。ですから貴女も人類を許して。もう傷付け合うのは、やめましょう」

 「……無理よ。最後の魔人は和解なんて絶対に許さないわ……」

 「その最後の魔人だけど、一体どこに居るのかな?」

 部屋の隅から枯れた声がする。抱き彼女の体を離して目を向ける。

 「トラット卿!」

 「おはようフレン……状況は察している。まさか紅翼の副団長が魔人だったとはね」

 手足に巻かれていた筈の鎖はいつの間にか解かれていた。

 彼は起き抜けで覚束ない体を引きずり、ミストレアを睨みつける。

 「それでミストレア……君に聞いているんだよ? 裏切り者は、どこにいる……」

 今までトラット卿からは感じた事のない静かな怒気。ミストレアは躊躇ったように口を開いたが、私を見ると自嘲的に笑った。

 「……私は魔人よ。人間の味方はできないわ」「では、相応の覚悟はあるんだね?」

 トラット卿が剣に手をかける。させない。これ以上、この人を傷つけさせはしない!

 私はミストレアにかけた魔力を解除し、トラット卿の目の前に立ち塞がった。

 「おやめ下さい……! もう、人間と魔人で傷付け合うべきではありません!」

 「どう言うつもりだ、フレン? どきなさい」

 真っ黒な声色に、胃の腑が凍てついた。それでも私は顔を下げない。

 「お願いです、彼女と対話するチャンスを下さい! 話し合えばきっと……!」

 「それをする権利は、とっくの昔に失われている‼︎」

 彼が語気を荒げた瞬間だった。突如として今までにない衝撃が地下を襲った。

 ぐわん、と床が揺れ、壁に亀裂が走る。

「……ドラコったら乱暴なんだから……でも、お陰で助かっちゃった♡」

 すると、ミストレアが私の背中を思い切り押し飛ばし、トラット卿が私を受け止めた。

 「ミストレア卿⁉︎ どうしてっ……」

 「トラット卿、魔力を展開しなさいな。早くしないと生き埋めになるわよ?」

 「……っく! ”光の魔力×天幕法術!”」と、詠唱が通り、真っ黒な影が、私ごと老騎士を包み込んだ。室内は限界に近い。悲鳴にも似た軋みを上げて土砂を落としている。

 「待って下さい! 彼女がまだ!」と叫んだ間際、影の中に一人の男が投げ込まれた。

 トラット卿が空いた片腕で受け止めたのは、ミストレア卿に斬られた筈のオーレン。

 「オーレン君は生きているわ。詳しい話は彼に聞いてね。それと最後に大ヒント……最後の魔人は白斬に居るわ。私はね、オーレン君を通して紅翼の情報を彼に渡してたの」

 「どういうつもりだ、ミストレア‼︎ 貴様……」

 「私にはここで死ぬのがお似合いみたい! ごめんね、フレンちゃん……♡」

 寂しそうにそれだけ言うと、ミストレア卿は瓦礫の雨を歓迎するように腕を広げた。

 許さない、許さない、許さない‼︎ それだけは絶対に、許さない‼︎ 私は手を出し、魔力の蔦を魔人の手に絡ませた。途端に彼女は、戸惑いの色を見せる。

 「フレン、彼女は諦めろ! 私の魔力でも流石に3人が限界だ!」

 同時に室内へ土砂が流れ込む。それはみるみるうちに量を増し、死が私達の膝まで迫る。

だがそれでも、私はトラット卿の手を振り払った。

 「なら私の魔力を使います!」そう言い、彼女の全身を包もうとさらに蔦を伸ばす。

 「大丈夫、絶対に貴女を守るから! お願いだから手を取って!」

 「……もう……フレンちゃんったら、強引なんだから……♡」

 ミストレアは、ゆっくりと笑い、蔦に引かれて私の手を握り締めた。すると、トラット卿が何かに気づいて声を上げた。

 「フレン‼︎」

 私が掴んだ右手とは反対側。ミストレアの左手には、いつの間にか剣が握られていた。

 私には気が付けなかった……彼女には救われる気がない事も。どれだけ愛を説こうと、野獣の心は変え難い事も。ミストレアが放った一閃は、蔦の絡む自身の手首を両断した。

 ミストレアが遠のいていく。私は必死に手を伸ばすも、彼女は微笑むばかり。巻き上がる土砂と瓦礫の中、彼女は確かにこう言った。

 「これでいいのよ。ありがとね、フレンちゃん……」「ミストレアーー‼︎」

 だが虚しくも、トラット卿の影は閉じきった。ミストレアを置き去りにして。

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