第4話

 ライル・メーザー。他人からすれば、彼の人生はこの世界の誰よりも困難に満ちていた。

 この世界において、”魔力”とは誰もが知覚し、操作し、任意に行使出来る奇蹟である。

 赤ん坊が成長し、立ち上がるように、魔力の知覚も本能的に出来るものだ。

 だがしかし、ライルだけは違う。法術によって現象化した魔力だけは見えるものの、魔力そのものは知覚できない。勿論、そんな状態では法術など使えるはずもない。

 不穏に思ったシスターは、幼いライルを連れて治癒師を尋ね、唖然とした。

 『……どうやら、彼には本来流れている筈の魔力が無いようです。一部が無いとか、微弱過ぎるとかそう言う次元ではなく、全く無いんです』

 治癒師は酷く憐れんだ目でライルを見た。

 『こんな症状は初めてです……私には治す方法など見当も……』

 そこからのシスターの詰問に、治癒師も困った顔を見せるしか出来なかった。

 その日の帰路、シスターと二人、手を繋いで街を歩いた。夕焼けに照らされたメイルルートの街並みはいつ見ても楽しげだ。屋台では法術の炎が厚い肉を焼き、古書店では本がふわふわと宙を浮いている。そんな光景にライルは思わず俯いて目を逸らしてしまう。

 彼は転生し、新しい世界を知り、人並みに”魔力”という異能に期待もしていた。まるで物語の中のような魔力や魔術、ひいては世界そのものに、年老いた男心は踊ったものだ。

 (……あの自称女神に相談したいが、ここから”救世の花”はあんまりにも遠すぎる)

遥か遠くに見える”救世の花”は王都ルートエスタにある。辺境であるメイルルートからは馬でも3日はかかる。何より、貧しい教会にそんな遠方に行けるほどの余裕など無い。

 すると、繋いでいたシスターの手が握られた。見上げると、彼女の瞳は前を向いている。

 『ライル。何があっても下を向いてはなりません。前を向いて歩きなさい。胸を張って、堂々としなさい。貴方は誰でもない、貴方なんだから』

 彼女の潤んだ瞳はライルの幼い表情を映し出す。

 (……強い女性じゃ。慰めるでも、憐れむでもなく、”前を向いて歩け”とは……)

 彼女の想いを感じ取り、ライルも手を握り返した。

 『ありがとう、シスター。貴方の所に来られて良かった! 本当にそう思うよ』

 思えば彼女はいつだってライルとアルトの二人を気にかけ、愛情を注いでくれた。それがどれだけ尊い事かは、娘が居た神木老人にはよく分かる。

 (うん、決めたぞ、自称女神。すまないが世界を救うとかいうのはやめじゃ。ワシには世界よりも、守らなきゃならんものができた)

 この日、神木老人は第二の人生で大きな決心をしたのだった。慈悲深い養母と、ヤンチャな兄弟。自分が無力とは知りながら、たった二人の大事な家族を守り、幸せにする。

 そのためなら、命をかけても構わない。


 サイクロプスの上腕が振り上がり、その影がライルの体をすっぽり覆った。

 「馬鹿野郎……! 本当に死んじまうぞ……!」

 叫ぶアルトを背に、ライルは怪物の巨影に立ち向かう。

 怪物でさえ、この白銀髪の少年には魔力が感じられない。死人のような透明感である。

 しかし、ライルは薄らと笑みを作り、一言を含めた。

 「ここでは死なんさ。今度は清潔なベッドの上で死にたいからな!」

 神木老人も承知している。魔力の無い自分がどれだけ無謀な事をしようとしているのかなど。それでも、背にある兄弟と家で待つ母のために、彼に後退の二文字など無い。

 「GAAAAAAAAAAーー‼︎」

 トドメだと言わんばかりに、怪物が咆哮し、拳を振り下ろす。

時が止まったようだった。アルトはライルから目を離さなかったし、離せなかった。あり得ない、あまりにも非常識な光景に、朱い瞳が驚愕に染まる。

 「はは、久々の突きにしては、上出来じゃないか……」

 ライルは出血した拳で、懐かしむように言った。

膝を地面に付けた、サイクロプスの巨体を前にして。

 「な……ライ、ル……⁉︎」

 少年は朱い目で確かにその瞬間を見ていた。怪物の巨大な拳。それが迫った瞬間、ライルは水鳥が飛び上がるように怪物の腕を駆け上った。そしてそのまま、顎先を殴りつけた。

 誰が見ても信じ難い挙動。強化法術を使っても、このような芸当は出来ない。

 とはいえ、ライルも無事ではない。怪物の硬い顎に拳はグシャグシャになっている。

 (13年も拳の鍛錬を怠った結果だな……)

 「Gruuuu……」重厚な唸りを発しながらも、怪物はのそりと立ち上がった。

 今度は、小鼠でも捕まえるように、長い両手の全指を広げきり、一息にライルを掴みあげた。奇しくもこの瞬間、ライルとサイクロプスの両雄に、全く同じ思考が流れた。

 ”捕まえた……‼︎” 

 「……⁉︎」

 怪物は単眼を見開き、自分が掴み上げようとしている少年を見直した。

 どう見ても人間の子供。何かを持っている訳でもない。だが突如として、少年は重量を増した。それはまるで、大岩を持ち上げようとしているような無謀感。

 当のライルは不敵に微笑し、呟くのみ。

 「武は手放したつもりじゃったが……武の方は、ワシを手放してくれないらしい……」

 少年はさらに重さを被せた。

その未知の感覚に驚く暇もなく、怪物はバランスを崩して両膝を地面に落とす。

 力んで抵抗するが、少年は持ち上がらない。それどころか、ますます体勢が崩れていく。

 怪物は戸惑うままに、やがてはピンで貼り付けられたように地面に伏した。

 この現象を目前にしていたアルトもまた、驚愕で声が出せなかった。それもその筈。

 魔力に彩られたこの世界にはこのような絶技は存在しない。発想すら無い。

 唯一、神木老人だけが知っている。この現象は、人が成し得る技であると。

 ――神木流柔術、流楽の体。古武術、会津藩御留流をアレンジした絶技である。

 想像して欲しい。表面張力ギリギリまで水の入ったコップを。縁から水が溢れぬよう、貴方の体は、筋肉は、意識は、繊細な力感でこれを掴み、保っている。

 では、その中の水自身が悪意を持って右側に寄ったとしたらどうだろう? 必然、水を溢すまいと、貴方は左にコップを傾けるだろう。それも、体ごと。

 だが、水は悪意を保持し、動きをやめない。今度は前へ、次は左へ、その次は……さて、最後には貴方の体勢はどうなっているのだろう?

 平衡感覚は優秀だ。優秀すぎるが故に、時に重心を置き去りにしてしまう。結果として、体勢は完全に崩れ、脳は混乱し、筋肉はヤケになって硬直する。

 異界の怪物、サイクロプスはまさにそんな状態に陥った。

 「アルト……‼︎ アルト‼︎」

 ライルの大声に黒髪の少年はハッと息を呑み、顔をあげた。

 「立てるならトドメを頼む……!」「あ、ああ……」

 まだ痛みの残る肩を庇いながら、アルトはふらふらと起き上がった。

「急げ! もう、そんなには持たん!」

 アルトは血抜き用のナイフを急いで拾い上げ、恐る恐る怪物の冷たい表皮に触れる。

するとギロリと単眼が動く。アルトは咄嗟に身構えたが、怪物はそれ以上動けない。

 「……終わらせてやってくれ」

 黒い血を顔に浴びながら、アルトは全力で刃を押し込んだ。

怪物は痛みに震え、唸り声を発したが、抵抗虚しく、刃は魔力核を貫いた。

 そうして異界の怪物サイクロプスは、足先から灰と化していく。

 ライルは命の消失を噛み締めながら、彼の次の生が幸せであるよう祈った。


 森は平穏を取り戻した。残った二人の少年もその場にへたりこむ。

緊迫感から解放された二人は、重たい疲れを肩に感じていた。

 「立てるか?」「ああ、ありがとう」

 魔力の欠乏でまだ少しよろめくアルトを支えながら、ライルは森の出口へと足を向ける。

 林を抜け、馬車が通れる程の道を歩きながら、アルトはライルに真剣な眼差しを向ける。

「……お前、あんなに強かったんだな。どうして今まで黙ってたんだ?」

 「……強いって事には、余分な責任が伴う。平穏に暮らすには邪魔なもんだ」

 「……否定しないんだな。強いって事」

 「い、いや。そういうつもりじゃ……」

 ライルは慌てて誤魔化そうとしたが、その前にアルトが口を開く。

 「いいんだ。それだけ自信があるって事だろ。それに、サイクロプスってのは視界級騎士数人で倒すような魔物だ。それを一人でやっつけたんだ。実力は確かだよ」

 「いやいや、アルトが居なければどうなってたか……」

 「俺が居なくても一人で倒してただろ? その算段があったから、お前はあの時、賭けを提案したし、その後も逃げなかった」

 それ以上はライルも言い訳出来ない。「う、それは……」という返答が精一杯だ。

 「はぁ~~、俺が気付かなきゃ、お前の実力は一生埋もれたままだったわけか」

 「埋もれさせといていいさ」

 ライルがそう呟くと、アルトはニヤッと悪戯な笑みを見せた。

 「俺はもう知っちゃったぜ? 今回の事、隠しておけると思うなよ?」

 暗に言いふらすという事だろう。ライルはそれを笑い飛ばした。

 「ははっ! 誰に言おうと構わないさ。魔力が無いワシ……僕が強いだなんて。身内贔屓くらいにしか思われないだろうよ!」

 「む、俺は何があっても諦めねぇぞ。俺と同じ、守護騎士になってもらうからな!」

 ”守護騎士になる”魔力の無いライルにとって、あまりにも現実離れした言い回しだ。

 「ぶっ、はははは‼︎ 守護騎士⁉︎ 魔力なしの僕が! ははは!」

 「笑ってんじゃねーー! 俺は本気だ‼︎」

 そうして騒いでいると、前方から何かが来ていることに、二人は気が付いた。

 蹄が地面を駆ける音だ。それもメイルルートの方から聞こえる。つい先程の恐怖が脳裏を過り、二人は音が来る方向に注意を向けた。小高い丘が、音の正体を遮っている。

 「また魔物か……?」というライルの不安に、アルトが一拍置いて「いや」と断じた。

 丘の向こう側からやって来たもの。それを見て、二人は安堵の溜息を吐いた。

 「守護騎士だ……助かったぞ、俺たち」

 馬上から西日に照らされ、騎士達が二人の元へ駆け寄ってくる。

 ライルとアルトは、疲れ切った肩を支え合いながら、ゆっくりと歩を進めた。


 騎士に保護された少年達は、教会へと送り届けてもらった。

 シスターは、教会の門前で不安そうに立ち竦んでいた。それを見つけ、少年達は馬から飛び降りた。彼女も、駆けてくる息子達を見つけると、名を叫んで走り出す。

 家族はこうして再会した。シスターに強く抱きしめられ、ライルの胸に安堵が広がる。

 アルトは張り詰めていたものが切れたのか、声をあげて泣いていた。

 シスターは二人の無事を確かめるように、何度も何度も撫でくった。

 この時間を噛み締めながら、神木老人は思う。

 (今度ばかりは、守れたかな……)

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