シエラの過去 Ⅲ

 紅茶缶をすする。

 今朝、出勤してくるとわたしの机に置いてあった。

 空中の仮想キーボードをポテポテ叩く。タッチ音もカスタマイズしようと思えばできるけど、わたしはしてない。軽い打鍵感を返してくるくらいにとどめてる。だって、ずっと叩いている中これまたずっと音が鳴っているともなると、嫌なことを思い出させるから。打鍵感はそれでも達成感は残したいからつけてるってだけ。ほんと、わたしは何をしたいのやらわからない。

 わたしは口をいーっと広げ、舌をちょっと突き出す。結局嫌なことを思い出してしまった上に、この紅茶缶があまりにも甘いせいだ。こんなのをお供にしてはおけないと一気に飲み干す。舌は全部出ちゃった。今すぐにでもすすぎに行きたい。

「何してるんですか。変顔の練習ですか。ま、なんでもいいですけど。あとこれ、よろしくお願いします。期待してますんで」

 突然の横槍にわたしは身を引く。でも、そう言ってきた相手は特に何も気にしていない顔をしている。実際、「なんでもいい」んだろう。そのまま流れるように仕事を勝手に積んでいった。

 わたしは息を吐き出す。もう、自分で仕事を受け取ることもなくなった。

 ついで、ようやく紅茶缶に抱いていた感情が分かった。苛立ちだ。

 これはだれが置いていったかは定かじゃない。それだけでも腹立たしい。

 匿名性を帯びることで一方的な自分のための優しさを行使しているだけなのだ。わたしを気の毒に思っていたとしても、そこを通してだれにでも優しくできる自分を演出して自分を満足させたいだけなのだ。もしくは単に臆病者か。どっちにしたって弱いもののカモにされているのに違いはない。

 そしてもう一つ。

 これではまるでエサを鼻先に吊り下げられてひた走る馬のようじゃないか。わたしが「期待」や「信頼」という言葉に弱いことをからかわれているように思えてならない。しかも、そう思いながら机の上にあるものは片づけなければと紅茶缶を飲んでしまっている自分を見るハメにもなった。

 ほんと、ふざけたことをしてくれる。

 これで正式に舌打ちをできると思った矢先、グラハムに声をかけられてしまった。わたしは一転、力なくうなだれる。

「シエラさん。あなたに一つ頼みたい仕事があるんですが……どうかしましたか」

「いえ、特に、ありません」

 グラハムの言葉にはわたしを気遣う部分があったが、本当に添えられる程度でしかない。口調は一偏していつもの通りだった。

「であれば問題ないんですね。では改めまして、あなたに仕事があります」

「えっと、なんの、でしょうか」

「聞いて驚いてくださいね。なんと、当郵便局が主催する、ココフェスティバルの実行委員長に選出されたんですよ。推薦は私の方でやっておきました。いいですか、これは非常に名誉なことです。なんせ、あのお祭りの実行委員長なんですからね。普通の人には務まりません。期待していますからね」

「わぁ。そう、なんですか。わたしが、あのお祭りの実行委員長、ですか。この町で、代表される、行事の一つ、ですもんね。すごいこと、ですよね」

 わたしはまたも「期待」される言葉を吐いてしまう。ほんと、嫌気がさす。でも、今回は渾身の勇気を振り絞ってみることにした。紅茶缶が意外にも起爆剤になってくれたみたいだ。

「あの、わたしはすでにその、仕事をたくさん、抱えていまして」

 指をつつき合わせつつ、山を見やる。

「通常業務、の他にも、他の方の仕事を肩代わり、していまして」

 声がどんどん小さくなっていく。なんで、わたしが間違っているような気分になるんだろう。でも、最後まで言い切るために必死に口を開け続ける。

「時間的、にも、体力的、にも、きびしい、というかその、できそうにない、ので、お断りさせて、ほしい、です」

 わたしはもうグラハムの顔をちらちらと窺うこともできなかった。体が縮こまる。今ならミジンコと肩を組めるんじゃないだろうか。グラハムは案の定、毎度のごとく吐き下ろすようなため息をする。

「私はシエラさん、あなたに期待しているんです。他の誰でもなくあなたに、ですよ。先ほども言いましたがこの役は普通の人には務まりません。通常業務以上のことを普段からやってのけているあなただからこそ、私は推薦したんです。それだというのに……やはり私の見込み違い、ということだったんですかね。信頼していたんですが。本当にがっかりですよ」

 顔は見れないけど、グラハムの腕が真下に下がり、肩を落としているようなのは分かる。わたしはまたとっさに言い返してしまう。

「やり、ます」

 けれど、わたしはすぐに後悔した。

「そう言ってくれると思っていましたよ」

 グラハムの顔を見上げれば、勝ち誇ったような笑顔をしていたからだ。

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