第10話 吸血と口付けと再会と

「このあたりでいいか」

 街を抜け、何もない場所でアオは立ち止まった。

 靴が石混じりの土を踏む音と、虫の鳴き声がする中、アオは近くにあった大きな岩に腰を下ろす。


「コウのところに行くんじゃなかったのか?」

「いや、たぶんここでこうして気配をさらしていれば、あいつがここにくる。昨日挨拶しにいったから、今頃オレの気配を必死に探してるはずだ」

 アオは昨日私が寝たあと、コウに会いに行ったようだ。


「あいつ、オレからお前の匂いを嗅ぎ取ったみたいで、かなり良い面をしていた」

 鬼の姿のまま、くくっとアオが思い出したように笑う。

 面白い玩具を見つけた子供の顔だった。


「前に会ったときは腑抜ふぬけた《役人》の犬になってて、殺す気すら失せたが、あれなら相手してやってもよかったかもな」

 アオが出会ったコウは、大分消耗していて、《鬼もどき》相手に苦戦していたらしい。

 けれど現れたアオから漂う私の匂いに気づき、切りかかってきたのだという。


「トワを探して、手当たり次第鬼の情報を追ってたんだろうな。つかまされたのは関係のない鬼や《鬼もどき》だったのか、ボロボロだったが」

 それでもオレに一太刀浴びせるあたり、腕は鈍ってないようだったと、アオは満足げだ。


「あぁ、そうだ。面白いことを思いついた」

 にいっとアオが笑う。

 嫌な予感がした。

 腰掛けていた岩から立ち上がり、アオが私に近づく。

 思わず後ずさったが、手首をつかまれてしまった。


「何をするつもりだ」

「本当は今日、人間から直接血を飲む方法を教えるつもりだったんだ。コウを待つ間、ここでやり方を教えてやるよ」


 アオは私の目を見つめてくる。

 金色の瞳の奥に、怪しい光が瞬いたような気がして、頭の心がぼーっとしたかと思うと、首筋を手のひらで撫でられる。

 ぞくぞくと体に痺れが走り、力が抜けた。


「《魅了みりょう》の力が効くなんて、人間みたいだな」

 何かアオは私に対して鬼の力を使ったらしい。

 けれど、自分で力を使っておきながら私に効くとは思ってなかったらしく、驚いた顔をする。


 《魅了》という力は、通常鬼や《鬼もどき》、《贄人》には効かないらしい。

 人間から血を貰うための力なのだと、アオは教えてくれた。


「警戒している奴には効かない。だから、ある程度心を開かせてから使う必要がある。逆に言えば、こちらに対して心を開いている場合、人間以外でも《魅了》は可能だ」

 そう説明したアオは、何故だか上機嫌に見えた。


「目を合わせて、相手の内側に入るような感じで意識を飛ばして、思考を撫でるようにすれば出来るはずだ。感覚的なものだから、説明は難しいけどな」


 それにしてもとアオは私の首筋を舐めた。

 抵抗しなければと思うのに、頭の中にモヤがかかったようで、ふわふわとする。

 アオがくれる感覚に身を預けてしまいたくて、それ以外の事が頭から排除されていく。


「記憶がなくなっても、トワはオレを受け入れるんだな」

 どこか嬉しそうに耳元で囁いて、アオが私の首筋に牙をつきたてた。

 ぷつりと皮を裂く感触がして、首筋が熱くなる。


「う、ふぅ……」

 アオの牙が私の中に入ってくる感覚に、呻きというには甘い声が出る。

 痛みだけじゃなくて、ぞくぞくとした感覚が私の中を駆け抜けていく。


 初めての感覚に戸惑う。

 これを何と表現していいのか、わからない。

 甘い疼きが私を苛み、生まれた熱が、体の中で逃げ場所を探すように、動き回っているようだった。

 ようやく牙を抜かれ、私はくったりとアオの腕に倒れこむ。


「悪い、美味くてつい飲みすぎた。《鬼姫》っていうのもあるだろうが、お前もまだ処女だったんだな」

 謝りながらアオが私の頭を撫でる。

 それから軽く私の首筋を舐めた。


 唾液が夜風に冷やされて、熱を奪う。

 牙を立てられた首筋の傷が、じゅくじゅくと痛い。

 治してはくれなかったみたいだと思いながらも、どこかその痛みが心地いいような気がした。

 ぼーっとした頭でアオを見上げる。


「今度はオレのを飲め」

 アオは首筋を差し出してくる。

 飲んだ分をそれで返そうというようだった。

「いい……いらない」

 首を弱々しく横に振る。

 それよりも体が熱くてどうにかなってしまいそうだった。


「吸血されると、性的に興奮するようになってる。生理現象みたいなものだし、オレを噛めば少しは楽になる」

 アオの首筋に目が行く。

 鎖骨が艶かしく、私を誘っているような気がした。

 そのまま牙を突き立てたい衝動に襲われた。


「いやだ」

 拒むと、アオは私の頭を掴んで、自分の首筋に押し当ててくる。

「いいから吸え。オレが飲んでおいてなんだが、その状態は危険だ」

 耳元でアオの声がして、唇に肌の感触がする。

 ――喉が渇いた。

 そんなことを思う。


 この首筋に牙を突き立てれば、弾力を伴った音が鼓膜を揺さぶるだろう。

 熱く私を満たすものが、この皮を隔てた向こうにある。


 アオに自分の牙を突き立てる。

 それを思うだけで、体に籠もる熱が酷くなる。

 この熱を逃がすために、暴れまわってしまいたいような心地になった。

 周りの音が遠くなり、トクトクと耳元で自分の心臓がなっている気がする。


 考えるのをやめて、内にある衝動に身を任せたくなった。

 以前にも覚えのある感覚。

 コウを襲ったときと同じやつだ。

 アオの体に爪を立てるようにして、ぐっとその誘惑にも似た欲望に耐える。


「っ……我慢は体に悪いんじゃないか? ほらただ牙を立てるだけでいいんだ」

 腕に爪が食い込んだのか、一瞬アオは顔をしかめたけれど。


「吸うのも吸われるのも気持ちいいって、お前はもう知ってるだろ?」

 私の欲を感じ取ったのか、誘惑するように囁いてくる。

 アオの声は掠れていて、私と同じように興奮状態にある自分を抑えているようだった。

 押し殺した声がやたら艶っぽく、私を誘おうとする。


「コウの血は飲めて、オレのは飲めないとでも? それともまたオレから飲まされたいのか?」

 コウにしてしまったことを、私はずっと後悔していた。

 なのに同じ事をしてしまえば、もっと後悔する。

 それに、吸血という行為は、自分の中の知らなかった欲望を、露出させるような恥ずかしさがあった。

 

「頼む、アオ……やめてくれ」

 お願いだから勘弁してほしいと嫌々をしたら、アオは私から体を離した。

 見逃してもらえるのかとほっとしたら、目の前でアオは自分の指を噛んで血を出し、私の口に指をねじ込んできた。

 アオの血は、私の舌に絡んで味を伝えてくる。


 その一滴一滴が脈打つような、熱くて甘いコウの血とは違う味。

 舌先が痺れるような刺激があった。

 こちらを惑わす蜜のような、蠱惑こわく的な甘みに脳が蕩けていく。

 危険をはらむ、危うくもろい血。

 それゆえに引きつけられて、思考がさらに霞んでいく。


 アオの血も、コウのと負けず劣らず美味しい。

 気づけば自分から求めるように、アオの血を求めていた。

 本能のままに、もっととねだるようにアオの指をねぶり、牙を軽く立てる。


「いいぞトワ……その調子だ」

 顔を私の側によせ、耳元でアオが囁く。

 その声は苦しそうだけれど、どこかうっとりとしていた。


「くっ」

 アオが痛みと、それだけではない鼻にかかった息を漏らす。

 しばらく夢中になっていたけれど、ふいに殺気を感じ、アオを突き飛ばして後ろに飛ぶ。


 私達のいた場所に、刀を振り下ろされた。

 攻撃してきた相手はコウだった。

 地面に刺さった刀を引き抜き、こちらを見たコウの顔は驚くほどに無表情で、けれど瞳の奥には激しい感情が渦巻いていた。


 頭の中にかかっていた霞が晴れて、くっきりと状況を理解する。

 私の前に現れたコウは、まるで別人のように怖かった。

 仕事用のコートは赤く、目立ちにくいけれど血で汚れていて。

 後ろへと撫で付けられた髪は乱れている。


 まるで飲み物の缶を投げるような動作で、コウはもう片方の手に持っていた人間を、アオの足元へと放った。


「伝言を頼んだだけなのにこれか。穏やかじゃないな」

 くくっとアオは楽しそうに笑う。

 コウが投げて寄越したのは、アオの《眷属》のようだった。

 全身血まみれで、苦しそうに息をしていた。


「こんなところにいたんだな、シュカ。さぁ帰るぞ」

 コウが刀を鞘にしまい、私に近づく。

 低く怒ったような声。

 差し出された手は赤く、人の血の匂いがした。


 金色の瞳には鋭い光があって、いつもの暖かなコウが消えてしまったみたいで怖い。

 こんなコウを、私は知らなかった。


 いつも陽だまりのようなコウが、夜や血に馴染む世界の住人であると見せ付けられたようで動揺する。


 コウが《鬼もどき》や鬼を仕事で切ったりしていることは知っていた。

 けどその瞬間や、仕事をしているところを見たことはなかった。

 コウはその仕事のときに私を連れていくことはなかったし、私にそれを見せようとはしなかった。


 初めてみるコウの一面。

 まとう空気は冷ややかで、瞳には殺意にも見えるような強い光が宿っていて。

 気づけば、私は一歩後ろに下がっていた。


「どうしてそんな顔をするんだよ。迎えにきたっていうのに、ハグぐらいあってもいいんじゃねぇの?」

 コウは冗談めかしたいつもの口調で、私の顔に触れてくる。

 手つきは慈しむようなのに、ぞわぞわとする。

 目が笑っていない。


 硬直していたら、コウの手が私の首筋に触れた。

 さっきアオが噛みついたところだ。

 びくりと身を引いたら、コウが一瞬傷ついたような顔をして、また元の無表情に戻る。


「っ!」

 噛み跡に爪を立てられる。

 とても痛かった。


「また首に噛み跡つけられたのか。やっぱり相手はアオなんだな。記憶がないってのも演技だったのか? そもそもお前は本当にトワなのか? 殺したはずなのにどうしてまた現れて、俺を苦しめる?」


 独り言のようにコウは呟く。

 無表情から今にも泣き出しそうな顔へ、コウの表情が変わる。


「ずっとずっと会いたかった。でも、もうあんなのもこういうのも十分だろ。記憶なんてなくたって、このままでいいじゃねぇか。それともお前はまた――俺にお前を殺させる気でいるのか?」


「違うんだコウ、私は本当に何も知らない!」


 そんな顔をしてほしくないと思うのに、コウは悲しげに微笑む。


「そうだな何も覚えてない。俺はあの頃と同じ、今のお前が好きだ。だからそのまま変わらないままで――お前がお前であるうちに」


 私の首に宛がわれたコウの手に、力がこもった。


「コ、ウ……?」

「大丈夫だ。俺も一緒に死んでやるから」

 私を安心させるように、優しくコウが言う。

 泣きながら――首を絞めてくる。


「おい、それくらいにしとけ」

 アオの声がして、苦しさから解放される。

 肺に吸い込まれた空気にむせって、咳が出た。

 背後からコウの首に、アオが刀をつきつけていた。


「オレはそんなことのためにお前をここに呼んだわけじゃない。何故トワが生きているのかを聞きたいから呼んだんだ」


「それはこっちの台詞だろ。お前がコイツを俺の家に寄越したんだからな」


 いつの間にかコウも、アオの腹にさっきの刀とは別の短刀を突きつけていて、お互い肩越しに視線を交し合う。


「オレは街をさまよっていたトワを見つけて保護しただけだ。そもそもオレはトワが生きていたこと自体知らなかった」


 そう告げるアオを、コウは思い切り睨む。


「俺だってトワは死んだと思ってたさ。とどめを刺して殺したのも……俺だしな。今になって、記憶のない状態のコイツを俺の家に寄越した理由は何だ? しかもご丁寧に噛みあとまで付けてさ」


 コウのその言葉のあと、二人が刃をほぼ同時に引く。

 ほっとしたのも一瞬で、二人は切りあいを始めた。

 コウが短刀を横に薙ぎ、それをアオは刀で止めて弾く。

 舌打ちしながらコウは腰の刀を抜いてアオに応戦するけれど、アオの攻撃は素早く、流すだけで精一杯のようだった。


「どうした? 鬼切りの赤騎士はその程度なのか?」

 煽るようなアオの言葉に乗せられて、コウが刀を振り下ろす。

 アオはそれをすっと半身になって避けると懐へ入り、勢いよく刀の柄をコウの腹に押し当てた。


「ぐっ!」

「コウ!」


 コウが体勢を崩して倒れる。

 近づいて安否を確認すれば、幸い気を失っているだけのようだった。

 それを見て、つまらなさそうにアオが刀を鞘にしまう。


「コウに酷い事するな!」

「はぁ? 先に手を出したのはそいつだろ」

 抗議すれば心外だとアオが眉をひそめる。

 確かに私が首を絞められていたから、アオはコウを攻撃したのだと思いだす。


「助けてくれたのはその、ありがとう。コウを切らないでくれたんだな」

「別にそんなつもりじゃない。また服が汚れるのが嫌だっただけだ」


 お礼をいえば、アオが答える。

 たぶん、本気でそんな程度の理由なんだろう。


「ところで、コウと再会したときにお前の首筋に噛み跡があったというのは事実か?」


「ああ、そういえばそんなものもあったな。マフラーで隠してあったけど、今思えばあの傷は噛まれたあとだったと思う」


 あまり重要ではないと思って、前にコウと出会った事情を話したときには省略していた。


「コウはその噛み跡をオレの仕業と思ったわけか。なるほどな」


 しばらくアオは考えこみ、それからコウを肩に担いだ。


「コウをどうするつもりだ」

「知ってることを色々吐かせるに決まってるだろ?」

 にぃっと笑うアオからは、穏便じゃない空気がびしびしと感じ取れた。

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