第4話 記憶喪失な私と探偵

 私がコウと出会ったのは、一年ほど前のことだ。

 気がついたら私は、コウの事務所兼自宅の前に立っていた。

 所持品は名刺が一つだけ。

 コウの探偵事務所のものだった。


 ――なんでここにいるんだったか。

 しばらく考えたけれど、何も思い出せなかった。

 しかたない、家に帰るかと思ったけれど、そもそも家がどこかもわからなかった。

 連鎖的に、自分の名前すら覚えていないと気づく。


 あぁもしかして、私は記憶喪失なのか。

 そこに思い当たって、納得した。

 状況から判断するに、少し前までの私は、目の前の部屋に向かう途中だったに違いない。

 なら、行ってみたら思い出すんじゃないだろうか。


 楽天的な思考で、私は目の前の扉を叩いた。

 はいはいと面倒くさそうに扉を開けて、コウが出てきた。

 寝間着で寝癖の付いた頭をかきながら、口には歯ブラシ。

 早朝だったし、お客さんがめったに訪れることがなかったとはいえ、あれはあんまりだと今でも思う。


「あーすいません。新聞の勧誘なら他を……」

 そういいかけたコウは、私の顔を見るなり、目を見開いた。

 口から歯ブラシを落とす姿はまぬけそのものだった。


「こんな朝早くから驚かせてすまない。実は、私は記憶喪失でな。気づいたらここにいて、名刺だけ持ってたんだ。もしかして、あなたは私を知っていたりしないだろうか?」


 しばらくコウは呆然としていた。

 自分でもわけのわからないことを言っている自覚はあったので、もう一度同じ言葉を繰り返す。

 そしたら、コウはようやく我に返った様子で、事務所の中に招き入れてくれた。

 


「お前は……記憶喪失なのか?」

「そうだ。さっきもそう言っただろう」

 事情をもう一度説明してくれと言われ、その日三回目となる台詞を口にした。

 それ以外に何か覚えてることはないのかと散々問い詰められたが、ないものはなかった。


「結局、あなたも私を知らないのだな。しかしこれからどうしたものか」

「ここにきたってことは、きっと依頼にきたんだろうけどな。依頼どころか記憶までなくすなんて、忘れるにもほどがあるだろ」

「本当にな」

 相槌を打ったら、呆れた顔をされた。


「自分のことなのに、まるで他人ごとだな。しかたない、何か思い出すまでの間ここにいろ。俺がお前の身元を調べてやる」


「だが、私は銭を持っていない。宿代も調査代も払えない」


「なら手伝いをしてもらう。ここには家事をするやつがいないんでな。見ての通りのありさまだ」


 コウが部屋の中をアゴで示す。

 脱ぎっぱなしの服、片付けられていない茶碗。

 人を招き入れるような状態ではとてもなかった。


「わかった。その話、ありがたく受けさせてもらう」

「よし決まりだな。俺はコウだ。お前の事はそうだな……朱赤シュカで」

「変な名前。噛みそう」

 素直な感想を言えば、むっとされた。


「なんだよ、俺の名前のコウと同じで赤っぽくてカッコいいじゃねーか。リーダーの色だし、家族っぽくていいだろ」

「……家族か。まぁ、それでいい」

 りーだーというのはよくわからなかったけれど、家族という言葉に私は魅かれた。

 憧れのような気持ちが、胸の中にあることに気づく。

 記憶を無くす前の私には、家族と呼べる存在はいなかったのかも知れないと思った。

 だとすると、ここで待っていたところで、心配して迎えに来てくれる人さえいないのではないだろうか。

 そう考えると、気分が暗くなった。


「なんだ迷子みたいな面して。心細いのはわかるが……男なら泣くなよ。しばらくは俺を兄ちゃんだと思ってくれていいから」

 乱暴な仕草で、ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。

 男ではなく女だと言いたかったが、やっぱり泊められないと言われるのは嫌だったので、口にはしなかった。


「しかし、シュカ。その格好暑くないか? 何で真夏にマフラーしてるんだ?」

 早速私の名前を口にしたコウが、黄色の首巻を指さしてくる。

「そういえばそうだな」

 確かに暑いしうっとうしいなと思ってそれをしゅるりと外す。

 コウがとたんに険しい顔になって、行儀悪く机をまたぎ、ふかふかの布地の椅子に座った私に顔を近づけてきた。


「これ、どうしたんだ」

 私の首筋にコウが手を当てた。

 自分でも触れれてみれば、そこには傷があるようだった。

 針で刺されたような、二つの穴のような傷。

 別に痛くはなく、もう血も止まってるみたいだった。


「蚊にさされた?」

「そんなわけあるか!」

 あまり理由も思いつかずにそんなことを言ったら、コウに怒鳴られてしまう。

 椅子に押さえつけられるような至近距離だったこともあって、思わずビクリと身をすくめた。


「くそっ、わざわざこんなもん残すってことは、明らかに俺に対する嫌がらせとしか考えられねぇ」

 私の顔の横にあるコウの手が、ぎりぎりと音を立てて握り締められる。

 見上げるようにすれば、だらけた雰囲気はそこにはなく、コウは怒りと苦しみが混ざったような表情で、唇を噛み締めていた。


 何故私に傷があると、コウへの嫌がらせになるのか。

 尋ねようとしたら、コウが私の首筋に顔をうずめてきた。

「な、何を!」

「消毒。傷消してやるから、大人しくしとけ」

 耳元でコウの低い声がして、ちゅっと首筋に唇の感触がした。


 思わず肩をすくめて、コウの頭をどけようとしたら、手首をぐっと握られて抵抗を封じられてしまった。

 コウの舌が首筋にい、湿った音が聞こえる。

 そのたびにぞくぞくと体の中に熱いものが込み上げてくる感覚があった。


「っ、痛いっ!」

 傷口に舌を差し込むようにコウが舐める。

 ぐりぐりと虐めるように。

「我慢しろ。こんなもん付けられたお前も悪い」

 不機嫌な声は、私をなじるようにも聞こえた。


 最後に、痛みを感じるほどに強く首筋を吸われて。

 ようやくコウは私を解放してくれた。

 どうやったのかわからなかったけれど、傷はすっかりなくなっていた。


「先輩、依頼があるんですけど」

 タイミング悪く、その時にカズマが扉をあけて部屋に入ってきて。

「何を……やってるんですか先輩?」

 カズマは手に持っていた紙を床に落とし、呆然とする。


「いや、これはだな」

「いくら女性にもてないからって、こんな小さな男の子に手を出すなんて犯罪です! 見損ないました!」

 慌てふためくコウに、カズマはすらりと腰の刀を抜いた。

「落ち着け、落ち着けって!」


 コウは取り乱すカズマに、私のことを説明した。


「つまりこの子……シュカは記憶喪失で、鬼の関わる事件に巻きこまれた可能性があるから、先輩が保護することにしたんですね? さっきのも首筋の噛まれた痕を治していただけだと」


「そうだ。わかってくれたか?」

 

 カズマのコウに対する目は冷たかった。


「確かに鬼の噛み跡を消すために、《贄人にえびと》の唾液を塗ることは有効ですが、治った場所にキスマークをつける必要はどこにもないですよね」

「カズマ、お前それは!」

 平坦なカズマの声に、コウが慌てた様子を見せた。


「きすまーく?」

 首を傾げた私の耳を、コウが塞ぐ。

 なにやら言い合いをしていたけれど、それはよく聞こえなかった。


「先輩に変なことされたら言ってください。ボクが先輩を切り捨てます」

 話し合いが終わったあとも、カズマは汚物を見るような目でコウを見ていたけれど。

 最終的には、私が事務所に住むことに納得してくれた。



 それから、私とコウの生活が始まった。

 朝起きてご飯を作る。

 台所には薪をくべる場所もなく、どうやって飯を炊くのかと思っていたら、つまみをひねるだけで火が灯る。

 幻術かと思って触れてみようとすれば、コウに叱られた。


 私は幸い、料理だけは簡単に作ることができた。

 体が作り方を覚えているというか、刃物で肉や野菜を切り刻むのが得意だった。

 時折力加減を間違えて、まな板を切りさえしなければ完璧と言ってもいい。


 コウの事務所にやってくる少年・カズマとも仲良くなった。

「記憶が見つかるまで、ここにいてくれていいですからね。シュカがいるだけで、あのロクデナシの世話をする手間がはぶけます」

 そんな言葉を私にかけながら、カズマは家事のやり方を教えてくれる。

 時間は掛かったけれど、ちょっとずつ覚えていくのは楽しかった。


 カズマの見た目は、私と同じ歳くらい。おそらくは十五歳前後なのだけれど、コウよりもよほどしっかりしていた。


 時折やってくる事務所の客を笑顔でもてなし、きっちり仕事をこなす。

 彼がいなければここは潰れているんじゃないかと思う。

 しかし、カズマがコウの部下なのかといえば、それは違うようだった。


 カズマはその若さで、役人の職についているらしい。

 国お抱えの退鬼士で、この国に密かに巣くう鬼をはらうのが仕事だという。

 ここにカズマがくるのはその関係で、コウに依頼を持ってきているからとのことだった。


「先輩は昔、ボクの上司だったことがあるんですよ。役人が性に合わないみたいですぐにやめちゃいましたけど。その腕は確かなんで、よく仕事を斡旋あっせんしてあげてるんです」

「斡旋っていうか、半ば強引だろうが。そんなに人員不足なのかよ」

 カズマの言葉に、コウが呆れたような顔をする。


「常に人員は不足してますよ。最近境界が曖昧になって、鬼がよくこちらにやってきますからね」

 人の世界の向こう側に、鬼の世界があり。

 境界を飛び越えて、鬼が時々やってくるのだとカズマは教えてくれた。


 鬼は恐ろしい怪物で、人の血をエサとしているらしい。

 さらには、気に入った血を持つ人間を不死にして、自らの下僕にしようとするのだと言う。

 一度下僕にされてしまえば、人間として死ぬこともできず、主人である鬼の命令には逆らうこともできないのだと、カズマは憎しみのこもる口調で説明してくれる。


 なるほどと思う。

 気に入った血を持つ者を不死にし、側に置くことで、鬼はエサをずっと確保できるというわけだ。

 ちなみに鬼によって不死にされた人のことを《贄人にえびと》といい、彼らは高い身体能力と不思議な力を得るようだった。


 《贄人》の多くは、自分を人間で無くした鬼を恨んでいる。

 主人である鬼をその手で見つけて殺すため、国お抱えの退鬼士になる者も多いらしい。

 カズマもその口のようで、鬼を憎んでいるということが雰囲気で伝わってきた。


「まぁ、手が足りない大きな原因は鬼自身よりも、《贄人》になりそこねた《おにもどき》のせいですけどね」


 カズマの顔が曇る。

 鬼が《贄人》を作る際、与えられた鬼の力が体に合わないと、人間は《鬼もどき》という理性を持たない化け物になってしまうらしい。


 鬼もどきは大喰らいで、無差別に人を食い散らかす。

 街で問題を起こしているのは、鬼や《贄人》よりもむしろ《鬼もどき》なのだとカズマは教えてくれた。


「やりきれませんよね。彼らは好きで人を襲っているわけじゃない。鬼によって化け物にされてしまっただけなのに」

 被害者である彼らを切ることに、仕事とはいえ、カズマはやりきれないものを感じているようだった。

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