第2話 甘い汁

 コウが帰ってこない。

 今までこんなに家を空けたことはなかった。

 帰るのが少し遅くなるかもしれないと、コウはあらかじめ食材を買いこんでいてくれたし、食べ物には困らないけれど。


 やっぱりひどく――のどが渇く。

 多めにあの甘い汁も貰っていた。

 でも、あの甘い汁は作り置きに向かないらしく、翌日分までしかなかった。

 コウがいなくなって、一週間目。

 私は、限界が近かった。


 水も食べ物も、お腹に溜まるけれど満たされはしない。

 気付いたら、自分の指を噛み千切っていた。

 生暖かくて湿った、鉄の味。

 当たり前だけど、あまり美味しくない。


 無性に何かをかきむしりたい衝動にられたけれど、自分の体を抱きしめるように肩に爪を立て、正気を保つ。

 グルグルグルグルと、頭の中が回転するように、思考がまとまらなくて。

 楽しみにしている勧善懲悪かんぜんちようあくのご老公ろうこう様が出てくる番組さえ、内容が入ってこない。


 コウコウコウコウコウコウコウコウ……。

 何度も頭の中で名前を繰り返す。

 呪文のように。

 

 早く、早く。

 早くあの甘い汁を頂戴ちょうだい

 でないと、狂ってしまう。

 

 ふいに、鼻先に甘い香り。

 ばっと起き上がり、玄関へと走る。

 甘い香り、あの汁の……コウの内側から香るかぐわしい匂い。


「よう……ただいま。いい子に、してたか?」

 ドアを開けた先には、仕事用の赤いコートを着たコウ。

 傷だらけで、痛々しくて。

 それでいて。


 ――とても美味しそうな匂いがした。



◆◇◆


 温かい液体が、喉をうるおしていく。

 甘くて舌の上でとろける。

 こくりと嚥下えんかするたびに、体を満たす液体は、同時に私を高ぶらせていく。

 極上の味に、私の全てが歓喜する。


 息をつくために、やわらかな首筋から口を離す。

 手の中には、くたりとした男の体。

 私は恍惚こうこつとしながら、その体を抱きしめて頬ずりする。

 そして、我に返った。

 してしまったことの重大さに気づき、さーっと血の気が引いていくのがわかる。


「コウ!」

 私の腕の中にはコウがいた。


 明りのない玄関。

 コウの赤い服は湿っていて、血の香りがした。

 こんなにも暗いのに、私の目は色も事象もしっかりと全てをとらえている。


 私は今何をしていた?

 その異常さに、今更気づく。


 一週間ぶりに帰ってきたコウからは血の匂いがして。

 駆け寄れば、その香りに喉の渇きが酷くなった。

 目の前が紅く染まっていって、それから私はコウの首筋に歯を立てて……。

 

 腕のなかにはぐったりしたコウ。

 後ろに撫で付けられた髪も乱れ、吐く息は荒く、目を閉じている。


 そっとその首筋にふれれば、生暖かい液体が手にまとわりついた。

 ぎょっとすると同時に、指先についた液体を舐め取れば、美味しくてもっと欲しいと思った。


 最悪だ。

 自分がコウをこんな目に合わせた。

 なのに、私の心の奥深いところは、目の前のコウをエサとして捉えていて、喉がごくりと鳴った。


 こんなときに、私は何を考えているんだ!

 コウの手当てをしなくては!


 立ちあがろうして、自分の異変に気づく。

 

「え?」


 私の爪は鋭く伸び、短かった髪が腰の下まで伸びていた。

 髪は先だけが黒く、伸びた部分は血のような紅で、つやびている。

 

 私はどうしてしまったんだろう?

 その問いの答えを見つける前に、コウをどうにかしなければと思った。

 首筋からの血が止まらない。

 このままだと危険だ。


「ど、どうすればいいんだ!?」

 傷口を手で押さえるけれど、血は溢れてくる。

 どうすればいいかわからなくて、私の口から泣き言が漏れた。


 生命の力を持つ紅い液体が、コウから零れ落ちていく。

 私の手をすり抜けて、床に広がって。

 そのたびにコウの存在が薄れていく気がした。


「死ぬな! 死ぬなコウ!」

 自分が傷をつけたくせに、そんな言葉が口をついて出る。

 零れた涙が、コウの顔に落ちた。


 ――こんな事が前にもあった。

 そう思った矢先、コウがうっすらと目をあけて、私の頭を自分の顔に引き寄せた。


「大丈夫、だから。早く血止めろ」

「ど、どうやって!?」

「傷口を舐めろ。唾液で、濡らすようにして、治れと念じればできるはず……だ」

 コウは苦しそうだ。

 私は素直にそれに従った。


 コウの首筋に口をつけ、そっと舌を這わせる。

 甘美かんびな味に意識を持っていかれそうなったけれど、その衝動しょうどうを無理やり押し殺す。

 ぴちゃぴちゃと猫がミルクを飲むように、コウの首筋の傷を舐める。


「うっ……あっ」

 しみるのか、コウは顔をしかめた。

 嗜虐心しぎゃくしんあおられる色っぽい表情だった。

 つやっぽい声をもっと聞きたくて、もう一度首筋に牙を立てたいという気持ちが湧き上がってくる。

 けれどその本能にも似た欲望を無視して、一生懸命に唇と舌を使いコウに奉仕するように、血を舐め取った。


 私のなかにある力が、唾液を、舌を伝ってコウに流れこむのがわかる。

 その力がコウの傷を塞いでいく。


「……ったく、遠慮なく噛むんだもんな。まぁすっげー気持ちよかったといえば、気持ちよかったんだけど。さすがに激しすぎ」

 薄っすらと金色の目を細めて、ははっとコウは軽く笑う。

 いつもの調子で。


「なんで、コウ……私」

「平気だ。怖がんな。お前には、俺がついてるだろ?」

 コウは私の頬に手を伸ばす。

 優しく言い聞かせるような声で。


「……悪いが、ちょっと寝かせてくれ。いろいろ聞きたいとは思うけど、続きは起きてから……な?」

 そう言ってコウは目を閉じた。

 死んでしまったのかと焦ったけれど、ただ寝てしまっただけのようだ。

 安心したら、体から力が抜ける。


 コウは、どこで何をしてきたのだろう。

 今回の依頼はカズマが持ってきたものだったはずだ。

 カズマからの依頼を受けると、コウは赤いコートを着て出かけていき、遅くなることも多い。彼の持ってくる依頼は物騒な事柄ばかりだと、私は気づいていた。


 それでも、今までコウがこんな風にボロボロになって帰ってくることはなかった。

 疲れていたり、怪我をしていることはある。

 けれど、ちゃんと手当てをして、身なりを整えて。

 血の匂いを誤魔化すように、石鹸の香りをまとってコウは帰ってくる。


 それなのにどうして今日に限って、こんなに血の匂いをさせているんだ。

 コウの血だけじゃない、他の血が混じった匂い。

 それほどまでに急いで、私のもとに帰ってきてくれたんだろうか。


「そうだ、他の傷も手当てしなくては!」


 仕事用の赤いコートをぎ取り、血を吸ってびちゃびちゃになったシャツも脱がしてしまう。


「これは……」

 コウの腹に、大きな爪でえぐられたような跡があった。

 まるで獣とでも戦ってきたかのようだ。


 家のどこかに、薬箱があったはず。

 でも場所がよくわからないし、探している時間が惜しい。

 ふと、舐めれば傷が塞がったことが頭に思い浮かぶ。



 抵抗はあったけれど、そっと口をつける。

 首筋にやったように丁寧に傷口を舐めた。

 

 コウのお腹は引き締まっていて、腹筋が綺麗に割れている。

 ゆっくりと傷口に舌をわせ、血を舐め取る。

「んぁ……ん、くっ」

 寝ているけれど、くすぐったいのかコウが声を上げる。

 しかめられた顔には汗が浮かんでいて。

 やっぱり色っぽいなと思ったけれど、そんな場合ではなかった。


 口の周りが血だらけになるのも構わず、傷を下から上へと舐めとっていく。

 ぴちゃぴちゃという水音が、静かな部屋に響き、コウのつやめかしい吐息に妙な興奮を覚えた。

 三十代という割には、コウの肌はきめ細かい。

 身奇麗にすれば、外見の年齢はもしかしたらもっと若いのなのかもしれないと思う。


 夢中になって傷を舐めていたら、ふいにドアが開いた。

 月光が玄関先に降り注ぎ、誰かの影が私とコウの上に重なった。


 コウの体から唇を離し、来客者を確認すればカズマだった。

 

「……一体これは? その姿はどういうことですか?」

 

 カズマは私と倒れるコウを眺め、呆然と立ち尽くしていた。

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