31.聖女、思い出を得る
少しパサパサした黒い髪。
いつも暖かく見つめてくれた茶色の瞳。
「アーシャ」
「アーシャ!!」
「アーシャ!」
どうして三人のことを今まで思い出さなかったのだろう。
ずっと、ずっと、彼らに会うために歯を食いしばって耐えていたというのに。
『聖女なんかになって……!聖女になんか……!!』
自分が聖女の力になんか目覚めてしまったから、母は苦しみ、一家は離れ離れになった。
兄たちは母の元から離され、母はひとりぼっちになってしまった。
『聖女でいるのは長くても十年だ』
そう聞いたから聖女ではなくなる十年後を指折り待ち続けた。
どんなに悲しいことが起こっても、聖女でなくなった、ただのアーシャに戻って、家族のもとに戻るのが心の支えだった。
『もう聖女じゃなくなったよ!』
そう言って、母を笑顔にしたかった。
また家族で暮らしたかった。
(でも……もう二度と会えない)
もう二度と、頬を寄せて愛を伝えられない。
もう二度と、寒い夜に皆で固まって寝ることはない。
もう二度と、母に三人まとめて抱き寄せられて、もみくちゃにされて笑うこともない。
あの世界で生きていたアーシャは、聖女のまま、ただの人に戻ることなく死んでしまった。
自分がどうやって死んだか思い出せないのに、死んだという事実だけは当たり前のように自分の中に刻まれている。
兄たちはどんな大人になっただろうか。
母は病気などせずに、健やかに暮らしているだろうか。
三人は再び出会えただろうか。
聖女になんかなってしまったアーシャでも、時々思い出してくれているだろうか。
自分の死を悲しんでほしくないけど、完全に忘れられてしまうのも寂しい。
もう一度会うまでは絶対に死なない。絶対に挫けない。
そう思って、何度も死線を潜り抜け、泥水を啜ってでも浅ましく生に齧り付いていたのに、再会は果たせなかった。
(せめてもう一度だけでも会って、大好きだって伝えたかった)
心残りと寂しさで涙は溢れ続ける。
「アーシャ」
そのまま潰れそうだったアーシャを包んだのは、鮮烈な輝きを持った、優しい神気だった。
一人は真っ黒な髪に真っ黒な瞳。
一人は茶色い髪に茶色い瞳。
外見は全然違うのに、纏う神気だけはそっくりな、『こちら側』の兄たち。
『気性の荒い王は時々生まれるけど、今代の王の破天荒さは予想を超えるね』
男か女か判別がつかない、アーシャを呼び寄せた存在は、呆れたように笑っていた。
こんなに優しく抱きしめてくれるのに、どこが荒々しいというのだろうか。
アーシャには良くわからない。
『やれやれ。せっかく引き寄せた欠片が随分残ってしまった。残りは次に注ぐから、遠き国の御巫は体にお戻り。君の中の子が随分と心配している』
そう言って送り出されたのに、どこで道を踏み外したのか、抜け落ちていた記憶の世界に捕まってしまった。
過ぎ去った、単なる記憶だと思っても、懐かし過ぎる家族の姿を、振り払うことはできなかった。
どうしてここにゼンとユズルがいるのか。
「チビ、帰るぞ」
不思議に思っていたら、ユズルがそう言った。
迎えに来てくれた。
そう思ったら、今まで心を絞るようにして流れ出していた涙が、途端に熱を帯びて、頬を温める。
母も兄たちも忘れられない。
ずっと愛している。
これはアーシャの大切であり続ける記憶だ。
(お母さん、お兄ちゃん……どうか幸せであって……)
もう二度と会えないと思うと、心が締め付けられるが、その痛みだけに囚われずに、そう願えたのは、今、アーシャを抱きしめてくれる腕のおかげだ。
離れてしまった家族にも、こんなふうに支えてくれる腕があってほしいと思う。
悲しんでほしくないし、悼んでほしくもない。
ただ、誰かと笑い合える幸せの中で、ほんの時々、昔、傍らにいた小さい妹を懐かしく思い出してほしい。
(どこに居ても……もう会えなくても、大好きだよ)
願いのように、そう思った瞬間、何かと繋がる感覚がした。
何も感じず、
見えない、薄い硝子が一瞬で取り払われたように、自分を抱きしめる腕の暖かさが伝わってくる。
どこか遠かった『こちら側』の兄たちの姿が、色彩を取り戻し鮮やかになる
「じぇん、ゆじゅう……!」
鼻が詰まって上手く発音できなかったが、名前を呼ぶと二人は笑った。
「アーシャ、帰ろう。俺らがお母さんでお兄ちゃんになるから。アーシャにどんな力があっても、毎日美味しいものを食べて、あったかくして、幸せに生きられるようにするからな」
「勝手に俺を巻き込むんじゃねぇよ。俺はお母さんになる気はねぇからな。チビ」
ゼンは赤ちゃんでもあやすようにアーシャを揺らすし、ユズルはアーシャの頭を力強く撫でる。
幸せを感じると共に、周りの景色が急激に白み始める。
(あぁ……目が覚める)
懐かしく切ない記憶は見えなくなっていくが、きちんと体の中に残っている。
いつの間にか忘れていた記憶は、再びアーシャの中に蘇った。
これからは痛みだけに囚われずに、思い出せるだろう。
「アーシャたん!!」
「アーシャ!」
目を開けると、視界いっぱいに人の顔が映った。
片方はシノザキ、もう片方はゼンだ。
二人は頭を突き合わせて、アーシャの上空を争うように、押し合っている。
「……ぇん……」
名前を呼ぼうと思ったのに、声が上手く出なかった。
水を飲まずに荒野を彷徨った時のように喉がカサカサで、声を出そうとしたことで擦れて、アーシャは咳き込む。
「みず!」
「みず!!」
「いや、さゆ!?」
「さゆ!!」
ゼンたちは大騒ぎだ。
大丈夫と言いたいのに、舌も上手く動かない。
「………!?」
ならば身振りで大丈夫だと伝えようと思ったのだが、動かそうとした腕が妙に重い。
「っっふ!」
そこで少しばかり気合を入れて腕を持ち上げる。
「おわっ!」
すると腕は思った以上に跳ね上がり、ゼンの顔を殴りそうになって、大きな手に受け止められた。
「??????」
自分の視界を横切った腕の速さにも驚いたし、ゼンを殴りそうになったことにも驚いてしまう。
絶対に当たる距離ではなかったはずなのだ。
「???」
目の前ではゼンが小さな腕を握っていて、自分にも腕を握られている感覚がある。
それならばゼンが握っている腕は、自分のものに違いないはずなのに、何故かそう思えない。
手に力を込めると、目の前の掴まれた手も拳を作る。
(間違いなく私の手……なんだけど……)
体の感覚が鈍いというか、遠いというか、強い違和感が付き纏う。
左手も動かそうとするが、妙な重さがあって、思ったように動かない。
掴まれた右腕を触ろうとするのに、上手く動かなくてフラフラと空中で彷徨う。
「どーした?おきたいのか?」
ゼンが彷徨っていた左腕も掴まえて、ゆっくりと引っ張ってくれる。
それに合わせて体を起こそうとするのだが、頭も胴体も重い。
「ふんっ!」
腹に力を込めたら、足の方が持ち上がってしまう。
「??????」
足の先が、思った以上に遠い所で揺れている。
これまた『自分の足』という感覚がしない。
しかし起きあがろうともがいたら、ブンブンとその足が揺れる。
「アーシャ、おもそうだな」
ゼンは笑いながら、そんなアーシャの背中を支えて、起こしてくれる。
「?????」
起き上がると、自分の体全体を見渡せるのだが、やはり他人の体を見ているような感覚に囚われる。
———アァシャ、大きくなったのよ
(アカートーシャ?)
———はい
自分の中側から掛けられる声は、アカートーシャ以外あり得ないのだが、アーシャは思わず確認してしまう。
(何か、意識が……変わった気がする。すごく通じ易いというか……)
——— ……うん。アァシャが眠ってるうちに、色々あったの
彼女の意思は非常に明瞭に伝わってくる。
聞こうと集中しなくても、自然と伝わってくる。
———ごめんなさい、色々説明したいんだけど……
彼女はそう伝えながら、弱々しくなっていく。
どうやらかなり疲れている気配がする。
彼女は眠りに落ちるように、アーシャの体の中で小さくなる。
(アカートーシャ……?眠っちゃった?)
いつ話しかけても答えてくれるアカートーシャが、眠りに落ちてしまうなんて珍しい。
そんな意識下での会話に集中していたので、自分を見つめる視線に、アーシャは気が付いていなかった。
「か、か、かわわ、かわわわわぁぁぁ〜〜〜!!」
「あ!ずるか!うちもうちも!!わぁぁぁ!かわいかぁぁぁ〜〜〜!!いきたおにんぎょさんやん!!」
「ほわっ!!」
シノザキには抱き寄せられ、ケイには犬にそうするように撫でまくられて、アーシャは目を丸くする。
「くぉら!チビわおきたばっかりだぞ!ちれ!ちれっ!!」
「ねーちゃん……おくにことばまるだしだよ……」
その二人をユズルとイズミが、ズルズルと引きずって撤去していく。
(そうか、私、大きくなったんだ)
付きまとう違和感はそのせいかと、アーシャは納得する。
そして手を握ったり開いたり、足を動かしたり、顔にかかる髪を引っ張ってみたりする。
(……いや、大きくなった……の……?)
体は動かし辛いし違和感があるが、よく見たら、それほど大きくなっていない。
少しばかり成長したようだが、どう見ても、この手足は『子供』の領域を出ていない。
「んっ……んんん!?」
こうなれば立ち上がって、見える景色がどれほど変わったのか検証してみようと思ったのだが、体重をかけようとした足は、あっさりと職務放棄をして、カクンと折れてしまう。
「アーシャ、どーした?」
座り込んだアーシャを、ゼンが抱き上げてくれる。
「あ!」
抱き上げられて、アーシャは思わず声を上げる。
以前は抱っこされても見上げていたゼンの顔が、しっかりと見えるのだ。
目線はまだ合わないが、見上げなくても、表情がわかる。
(大きくなってる……!!)
それを実感するとともに、急成長した事への反応が気になって、アーシャはゼンの顔を窺い見る。
「アーシャ、おなか、へってないか?」
ゼンは喜色満面といった様子で、嬉しい以外の感情が表情に入る余地がなさそうだ。
目を潤ませ、顔をゆるませ、アーシャの頭を撫でまくる。
「ほれ、チビ」
ユズルはさしたる変化もなく、いつもの愛想のない顔で、少し温かい水を飲ませてくれる。
笑顔の一つもないが、アーシャがカップをうまく支えられないと察して、ずっと手を添えてくれている所が彼らしい。
「へへへへへへへ」
こちら側の兄たちは、変わらない。
「アーシャたん!アーシャたん!ユッキーのとこおいで!おいで!」
「アーシャたん!ケイおねーちゃんも!おねーちゃんも!」
「もう……おちついて、お・ち・つ・い・て!!
みんなも全く変わらない。
騒がしく、温かで、悲しい記憶の残滓まで、優しく解ける。
「アーシャ、ごはん、たべるか?」
すぐ横には嬉しそうな笑顔がある。
「ごはん!!」
アーシャのお腹はその言葉に反応して、盛大な音を鳴り響かせるのであった。
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