30.兄弟、夢を渡る(後)
一瞬のブラックアウトから復旧すると、再び、譲たちは屋外にいた。
「……一体……」
突然の明るさに目が眩みそうだ。
周りを見れば、禅一はアーシャを抱きしめた体勢のまま、地面に膝をついている。
先程の畑は収穫されたようで、黄金色の輝きがなくなっている。
アーシャ達家族は忙しく穂のついた麦を運び、広げた布の上で棒を振っている。
恐らく脱穀しているのだろう。
大雑把に穂を外し、籾殻を取り除き、巨大な籠に運ぶ。
広場の中心には、荷物を満載にしている、幌つきの馬車が停まっている。
(……やっぱりおかしい。観光用でもない馬車なんて、今時使うか……?)
馬なんて餌代だけで、ガソリン代を大きく凌駕する。
仮に牧草が無限にあるとしても、生物ならではの糞尿の世話、病気、怪我、そして老衰などの問題がある。
しかも動物だから、命令を聞かないこともあるだろう。
現代であれば、完全に人間の制御通りに動き、多少の悪路でも進める車の方が使われるはずだ。
(あの役人みたいなやつ。明らかに今の時代の服じゃねぇし)
馬車の近くでふんぞり返っている男たちは、映画などで見たことがあるような格好をしている。
くたびれた汚れ方から、コスプレなどではなく、普段から使われている服であることがわかる。
生地もそこそこ目地が整っているが、機械織りほど整然としていない。
(この国が俺らの世界に存在するなら逆オーパーツだ)
アーシャ達の服は、使い込みすぎたボロ布状態だったので、確信が持てなかったが、やはり衣服も今の技術ではあり得ない。
馬車の近くで偉そうにしている人間達は役人、貧相な身なりのアーシャたちは農民、そして農民達が運んでいる作物は恐らく、納める税のような物ではないだろうか。
(税収が現物なんて今時ねぇよな)
『税』という概念がある国家なら、現代は金での納入が普通だろう。
少しでもアーシャに関する情報を得ようと、譲は周りを注意深く観察する。
「………譲」
そんな譲に、禅一が静かに話しかける。
その目はアーシャを掴めなかった、自分の両手を見つめている。
「これ、きっと、アーシャの記憶だ」
そう言う禅一に譲は頷く。
「俺もそうだろうと思う。……さっきの巫女も、そんな事を言ってたしな。欠片を戻すとか、その中でチビが迷ってるとか……」
禅一はじっと見ていた両手を顔に押し当てる。
「俺、多分、この先を知ってる……」
「夢で見たって言ってたヤツか?」
そう聞くと、禅一は頷いて、ノロノロと立ち上がる。
「子供達は母親の言うことを一応は守っていたんだ」
禅一が視線を向けた先には、小さな手足でちょこまかと働いている子供達がいる。
棒で叩いても落としきれなかった麦を丁寧に外し、かき集めている。
「友達が鎌で大きな怪我をした時も、新しい病が流行った時も、アーシャは『治せるのに』って思いながらも、必死に目を逸らして、我慢していたんだ」
意外と鋭い麦で、手を切ったりする人間は多い。
その度に、アーシャはハッとして顔を上げ、そして唇を引き結んで、再び顔を伏せる。
後めたさを噛み締める表情は、全く子供らしくない。
「……でも、事件が起こる」
禅一は視線を上げて、譲の顔を見る。
その顔は酷く辛そうに歪んでいる。
「あの馬車が暴走するんだ」
穀物を載せた馬車を指差してから、禅一は馬車の前方に向かって、ゆっくりと歩き始める。
途中、禅一は馬車に触ってみようと試みるが、
馬車の前には籠を持った小さな女の子が、父親と歩いている。
その二人にも禅一は触ろうとするが、やはり触れることはできない。
「……何とか変える手段は無いのか……!!」
そう言って、禅一は唇を噛み締める。
「……これが夢とかでなく、単なる記憶なら……無理だろうな」
これから一体何が起こるのかわからない譲には、そう答えるしかできない。
「俺は……見たくない。……見たくない……!!代わっても、守ってもやれないのに、アーシャが悲しむところなんか見たくない……!!」
歯を食いしばりながら、禅一がそう言った時だった。
パリンと何かが割れる音と共に、馬の大きな
馬の近くで大きな土器を運んでいた人が、バランスを崩したようだ。
運悪く、その土器が馬に直撃してしまったらしく、大きく前足を上げた馬は、痛みから逃げるように走り始める。
禅一が触れようとした親娘は馬車に背を向けているので、まだ異変に気がついていない。
真っ先に馬の暴走と、親娘の危機に気がついたのは……籠を持って馬車に向かって歩いていた、アーシャの長兄だった。
(あぁ……!!)
譲は顔を歪ませる。
我先に逃げれば良いのに、その子は籠を投げ捨てて走り始める。
「よけろぉぉぉぉぉ!!」
そう言いながら親娘に突っ込んでいく。
「いやぁぁぁぁああああ!!」
アーシャの隣で作業していた母が、息子の声で事態に気がつき、まろびながら走り始めるが、間に合うはずもない。
女の子は大きく突き飛ばされ、地面に転がった。
父親の方は足が引っかかって、少しの間引き摺られたが、土煙を上げながら、何とか馬車から逃げることができた。
しかし胴体を車輪に引っ掛けられたアーシャの兄は、馬の力で走る鈍器と化した馬車に引き摺り回され、最終的に車輪に轢かれ、馬車から解放された時には血まみれになっていた。
「ぁ……ぅ………ぅ……」
最早虫の息。
命の火は誰の目から見ても明らかに消えかけている。
人々は声を上げながら、轢かれた兄の周りに集まる。
暴走する馬車は先の方で数人がかりで、なんとか止めたようだ。
「いやっ!いやぁぁぁぁぁ!!」
母親は人をかき分け我が子に縋る。
次兄もアーシャの手を引いて走る。
人々は悲鳴をあげたり、顔を歪めたりしながら、痛ましそうにその様子を見る。
皆の視線は長兄に釘付けになっている。
しかし禅一はずっとアーシャだけを見ていた。
彼女の行動は素早かった。
顔を左右に動かし、地面を見つめ、氣が近い場所を探す。
そして見つけた場所に走り寄り、一切の迷いなく彼女は高い声を上げた。
今よりずっと頼りなく、音程も定まらない歌声に、最初は誰も気が付かなかった。
辿々しい歌声に、氣が舞い上がり、アーシャの中に吸い込まれていく。
ぴょんぴょんと地面をたどる足捌きも、今よりずっと不器用に見える。
それでも歌声にのって力が紡がれる。
「……………!!」
母親は誰より先に、その淡い力に気がついて娘の方を見た。
そして口を開きかけ、血まみれの我が子を見て、口を閉じる。
視線は娘と息子の間を彷徨う。
何度も止めようとして、口を開き、立ちあがろうとする。
「…………………」
しかし命の灯火が消え始めている息子を見て、最終的には口を閉ざすことを選択し、涙を流しながら、全てを諦めたような顔で地面に座り込んでしまった。
悲劇を見守っていた人々も、異変に気がつき始める。
地面ですりおろされて、正視できない状態になっていた皮膚の下から真新しい皮膚が現れ、あり得ない方向に捩れてしまっていた腕が伸び、切れかかっていた足が元の形に戻っていく。
アーシャの力は、紡げば紡ぐほど密度を増し、輝く。
最初は母親以外、誰も見えていなかったのに、時が進むにつれ、アーシャや流れる力を見る者が出てくる。
突然の悲劇に上がっていた声が、次々と消えていき、ぽっかりとした静寂が場を飲み込む。
「……聖女だ……」
静寂の中でその呟きは妙に響いた。
(……聖女……)
言語が勝手に翻訳されるので、それは宗教に殉じる女性という意味ではなく、『神の恩恵を受けて奇跡を起こす』的な意味合いで、近しい言葉が譲の知識の中から選ばれたような気がする。
沈黙の中に、押し殺したようなざわめきが芽生え始める。
奇跡を目の当たりにした人々の目が変わっていくのがわかる。
恐れと畏れ、そして『異物』を見る目だ。
見るも無惨な、眼球すら剥き出しになっていた子供が、服が破れただけの状態に戻った時、アーシャは汗だらけになってペタンと座り込んだ。
「こ……これは
その時になって、夢から覚めたように、役人らしき男が慌てたように走り出す。
それを絶望に満ちた顔で母親が見送る。
長兄を抱き上げて、フラフラと母はアーシャたちの方へ戻る。
「あ……お、おかぁしゃん……ご、ごめんなしゃい……」
約束を破ったアーシャはその姿を見て、ビクッと肩を跳ね上げる。
次兄もアーシャと母の間に入ろうとする。
「………良いの。……もう、良いの」
しかし母は力無く微笑んだ。
「アーシャ、今まで力を使うなと言って、ごめんなさいね。お兄ちゃんたちも、みんなを助けたかったのに、私が止めてしまって、ごめんなさい」
そして皆に聞かせるように、そんなことを言う。
「おかぁしゃん?かなしぃ?」
「……いいえ、大丈夫」
「アーシャ、わるい子。ごめんなしゃい」
「いいえ、アーシャは良い子よ。お兄ちゃんを助けてくれたんだもの……ごめんなさいね。もう隠さなくていいわ。これからは……きっと神様が導いてくださるわ」
涙を流しながら、三人の子供を抱き締める母に、役人たちが走り寄ってくる。
「聖女はこちらで確保する!」
荒々しくアーシャの腕が引かれる。
「お待ちください!聖女じゃありません!私の子です!ただの子供です!どうかお待ちください!!」
母は悲鳴のような声をあげる。
しかし小さな体は、荷物のように、雑に母の腕から奪われる。
抵抗しようとしても、数人がかりで母は取り押さえられてしまう。
「おかーしゃ!!おかーしゃ!!」
アーシャは男たちに押さえつけられた母親に向かって手を伸ばす。
「やめろ!!」
触れられないとわかっているのに、堪らず禅一はアーシャに手を伸ばし……再び、激しい眩暈が譲たちを襲い、周りが真っ暗になる。
三回目のブラックアウトで、流石に法則がわかってきた。
禅一がアーシャに触れると、次の記憶に移ってしまうようだ。
「……城だな」
「………………あぁ……」
譲が声をかけると、空の両手を見ていた禅一は声を何とか絞り出す。
単なる豪邸なのかもしれないが、譲と禅一の浅い知識では『城』としか表現できなかった。
アーシャたちの土と木で作られた小屋とは、天地の差がある立派な建物だ。
その一室にアーシャは閉じ込められ、膝を抱えて丸くなって、泣いている。
黒く汚れた姿ではなく、綺麗に洗われ、清潔そうな服を着せられている。
「アーシャ……!!」
反射的に禅一がその姿に手を伸ばすが、譲は背中を掴んで引き留める。
「待てって!」
「……………っ」
流石に禅一にもわかったのだろう。
ハッと息を呑んで、伸ばした手を戻す。
「ここがどこかわかるか?」
禅一は首を振る。
「アーシャの夢では……家族から引き離されるまでしか……」
「そうか……」
苦しげな表情で禅一はアーシャを見つめる。
グスッグスッと鼻を鳴らしながら、時折「おかぁしゃん」「おにいちゃ」と呟いているアーシャを見ているだけなのは、禅一にとってこの上ない苦行だろう。
「ちょっとだけ我慢しろ。俺たちはチビに関する情報がなさすぎる。この記憶を辿れば、チビがウチに来た事情もわかるかもしれねぇ」
禅一は苦々しい表情だが、譲の言葉に頷く。
「今のアーシャのためにも……情報はあったほうがいいと思う。……我慢が効かなくて、悪い」
頭では、もうどうしようもない、過去の映像なのだとわかっていても、泣くアーシャを前にすると抑えが効かないのだろう。
禅一は歯を強く噛み、両手を握りしめている。
グスグスとアーシャの鼻を啜る音しかしなかった室内に、足音が近づいてくる。
「良いか。普通なら農奴如きは、ここに入る事すらかなわないんだぞ。お前の役目はわかっているな?」
「……はい」
「これ以上痩せ細られたら保護した我らの責任にもなる!しっかり太らせろ!」
「……はい」
聞こえてきた声に、泣いていたアーシャは顔を上げる。
「王都からの使者が来るまで、しっかりと面倒を見ろよ!」
開かれたドアにアーシャは顔を輝かせる。
温かい食べ物の香りと同時に現れたのは、きっとアーシャが一番会いたかった存在だ。
「……おかぁしゃん!おかぁしゃん!!」
泣き過ぎてやつれたアーシャは、一も二もなく現れた人物に飛びつく。
それは身なりを整えさせられた母親だった。
「……アーシャ!!」
両手に持った盆をテーブルに置いて、母親は小さな体を思い切り抱き締める。
「おがぁじゃーーーん!!」
わぁわぁと涙を流すアーシャの頬を拭い、愛おしそうに頬を寄せる。
「ごめんね。守ってあげられなくて……ごめんね……」
親子の再会に、禅一は良かったと言うふうに、何回も頷いている。
「おかぁしゃん、おにぃちゃんは?」
泣いて泣いて、湯気を上げていた食べ物がすっかり冷めたころ、アーシャは尋ねる。
母は落ち着いたアーシャを優しく抱き上げ、パンをスープに浸して、アーシャの口に運ぶ。
「お兄ちゃんたちはね、商人のおじさんたちに連れて行ってもらったの」
アーシャがそれを口に入れた所で、母は語り始める。
「しょーにん」
「収穫祭の時に色々な物を持って来てくれるおじさんがいるでしょう?彼のことよ」
頷いたアーシャはモクモクと口を動かした後に、悲しそうな顔になる。
「おにいちゃん、会えない?どこか、いっちゃった?」
そう聞くアーシャに母は悲しそうに笑う。
「お兄ちゃんたちは先に王都に行ったの」
「おーと?」
「……聖女が集められて行く場所よ」
「アーシャ、せいじょだって。おーと行くの?」
母親はまたスープに浸したパンをアーシャに差し出す。
「聖女は王都にある大教会に集められるの」
母の言葉に、ウンウンとアーシャは頷く。
「おかぁしゃんもおーと、行く?」
アーンと開けた口に、母はパンを入れる。
「お兄ちゃんたちには、アーシャと一緒にいくって言ったわ」
口に入ったパンをモクモクと噛みながら、アーシャは幸せそうに笑う。
「おかぁしゃ、いっしょ!うれしい!!」
ゴクンと飲み込みながらアーシャは母親に抱きつく。
母親は優しい微笑みで、そんなアーシャを抱き締め返したが、その手は微かに震えていた。
それからはアーシャと母親の幸せそうな生活が続いた。
働きづめだった母とずっと一緒にいられる事にアーシャは喜び、自分だけが母親を独占する事に後めたさも感じていたようだ。
「おーとではがまんして、おにいちゃたちにどうぞする」
そうアーシャが言う度に、悲しげに微笑んで母親は娘を抱き締める。
そんな様子を見ながら、周りを確認して、譲は確信を深めてた。
かなりの財力を持った家でも、電化製品は一つも存在せず、空をどれだけ見回して電線一つ無く、飛行機の一つも通らない。
王都と呼ばれる首都があって、税収などの方法も定まっている。
これほど出来上がった『国家』の話を、聞いたこともないなんてあるはずがない。
この国は絶対に自分たちの世界にはない。
「先触れが届いた。明日には大教会の神官殿たちが到着する。お前の役目は今日までだ」
幸せな生活は三日足らず。
「……はい」
無慈悲な宣告に、アーシャの母は深く頭を下げた。
「おかぁしゃん?」
幼いアーシャには事情がわからないらしく、不思議そうに首を傾げている。
そんな娘の頭を愛おしそうに母は撫でる。
母はそれからも変わらぬように過ごした。
特に何かをするわけではなく、ゆったりと緑の生い茂る庭を散歩し、一緒に花を眺め、夕飯をとる。
「おかあしゃん、ここはごはんがいっぱいね。うれしいね。おーともいっぱいかな」
食べ物を前に、幸せそうなアーシャを見て、母は悲しそうに微笑む。
「聖女はね、粗食が基本なの」
「そしょく?」
「家のご飯みたいなものよ」
またパンにスープを浸しながら、母はアーシャの口に運ぶ。
「おーと、ごはんないんだぁ……」
アーシャは物凄く残念そうだ。
「聖女はね、朝のまだ日が登らぬうちに、冷たい水で体を洗うの」
「ええっ!?」
アーシャが嫌そうな顔をすると、母はクスクスと小さく笑う。
「そこからご飯も食べずに、神様にお祈りをするの」
「ぇええぇ……」
「その後は毎日いろんなお仕事があってね。病気や怪我を治したり、瘴気……悪い物を掃除に行ったり、弱くなった地面を元気にしたり、街に特別なおまじないをかけたり、悪い生き物をやっつけに行ったり……戦う騎士様を助けたりするの」
沢山の仕事を羅列されて、アーシャは目をクリクリと動かしている。
「アーシャ……できないかも」
そんなことを言う娘の口に、母はまたスープを浸したパンを運ぶ。
「お母さんもできなかったわ」
モグモグと口を動かしながら首を傾げるアーシャに、母はほろ苦く笑う。
「お母さんは聖女候補……聖女の見習いさんになっていたことがあったの。地面から出てきているものや、悪い物が見える女の子は見習いさんにするために王都に集められるの。そして……色々な事をした後に、聖女様の下につくの」
そう言って彼女は遥か遠くを見るような目になる。
「ん!」
語りかける母にアーシャがパンを差し出す。
「ありがとう」
そう言って母はそれを食べる。
「聖女様もアーシャみたいに優しかったわ。いつも自分が食べる分までわけてくれたり、泣いていたら寄り添ってくれたり。きっと何の力もなくて、村にいたら、みんなに好かれて、たくさんの人に囲まれて、幸せに生きられた人だと思うの」
愛おしそうに母はアーシャを撫でる。
「でも……聖女だったから。『ありがとう』より『どうして』って言葉ばっかり言われていたわ。『どうして助けてくれなかったんだ』って。聖女だって助けられる数に限りがある。好きで命の取捨選択をしているわけじゃない。それでも『腕を返してくれ』『足を返してくれ』『どうして救ってくれなかった』『息子を返してくれ』……色々な人が聖女様を責めるの」
アーシャは話の半分も理解できていない様子で、首を傾げているが、母の瞳は遠くを見つめ、気がついていない。
「治しても『前と違う』『ちゃんと治っていない』。『お前が治したせいで息子が戦場に送られた』なんて責める人もいたわ……。必死に人々のために、寝る間も惜しんで働いているのに、奇跡の力があるだけで、人扱いをしてもらえないの。人は神になんてなれないわ。でも神のように万能であることを求められ、自分の体を壊しながら努力し続けても、責められる。『何故お前は神じゃないんだ』と人の身で求められ続けるの」
全てわからなくても、アーシャは怖くなったらしく、体を小さくして、母に擦り付く。
母は遠くを見つめたままだ。
「泣いて、苦しんで、それでも誰かのためになりたいと言って頑張っていた聖女様はね、ある日から、泣きも笑いもしなくなったの。仲良くしていた他の聖女様の葬儀の後だった」
茶色の瞳に、蝋燭の炎が映って、チラチラと揺れている。
「どうしたのだろうと思って聞いたら……『噂は本当だった。ここは神の住まいではなく悪魔の巣窟だった』とおっしゃったの」
遠くを見ていた母の目が再びアーシャを見つめる。
震えながら自分にしがみつく娘を、愛おしそうに、そして悲しそうに彼女は抱き締める。
「きっとこれは罰ね。聖女様を置いて逃げ出した私への罰なんだわ。……どうして私自身に罰を下してくれなかったんだろう……私だけを地獄に落としてくれたら良かったのに……どうして……」
ハラハラと彼女の目からは涙が溢れ、言葉が続かなかった。
「おかぁしゃん、いーこ、いーこ」
話に怯えていたアーシャは、涙をこぼす母を見て、その両頬に小さな手を伸ばす。
母は涙を溢しながら、その小さな手を握る。
「アーシャ」
スープから上がる湯気がすっかり冷めてしまった頃、母は静かに呼びかけた。
「ん」
その呼びかけにアーシャは頷く。
「神の
その一言に、禅一と譲は息を呑む。
「おーと行かないの?」
まるで事情がわかっていないアーシャは、信頼し切った目で母を見上げている。
母は悲しそうに微笑んで首を振る。
「お母さんは沢山の聖女を見たことがあるけど……アーシャほどの力を持った人はいなかった。……王都へ行ったら、もう、絶対に逃げられない。……だから神様の許に逃げるの」
そう言った母の口からギリリと歯を噛み締める音がする。
「おにいちゃ、かみしゃま、わかうかなー?おかぁしゃんは?」
アーシャは無邪気に首を傾げている。
「お兄ちゃんたちはきっと来てくれるわ。お母さんは………」
そこまで言って、母は喉を詰まらせる。
アーシャの細すぎる首に母の両手が添えられる。
「お母さんは、行けない。…………地獄に落ちるから」
その手に力が込められても、アーシャはキョトンとしている。
「お……か………」
息が吸えなくなって、苦しさに顔を歪めながらも、助けを求めるように母に手を伸ばす。
それを見て母は嗚咽を漏らす。
「ごめんね!ごめんね!!私の娘に生まれてしまったために……聖女なんかになって……!聖女になんか……!!」
「止めてくれっっ!!」
「止めろっ!!」
禅一と譲は同時に叫んでいた。
今、アーシャが生きているのだから、母の手で悲劇は起きなかった。
それはわかっていたが、もう耐えられなかった。
禅一の手が触れたのが先か、譲が先だったかわからないが、体が平衡感覚をなくし、目の前がブラックアウトする。
「もう良いだろう!こんな情報いらないだろう!事情がどうであれ、アーシャはウチで幸せになる!!それで良いだろう!!」
次に見えたのは母親が男たちに取り押さえられている光景だ。
しかし禅一はそんな光景に目もくれず、アーシャに手を伸ばす。
再びのブラックアウトの後に、涙を流しながら馬車に乗せられるアーシャが見える。
「アーシャ!帰ろう!」
見えたと思ったら、すぐに禅一がアーシャに手を伸ばして、意識が途切れる。
そしてその次も光景が見えてきたら、即刻、禅一はアーシャに手を伸ばす。
次々に光景が見えては、消えていく。
無理に食べ物を口の中に入れられているアーシャ。
まるで物のように献上されるアーシャ。
いかにもな聖職者たちに囲まれ怯えて泣くアーシャ。
次々と現れては消えていく。
「長くとも十年聖女を務めた者はいない」
「………?」
「聖女でいるのは長くても十年だ」
「……じゅーねん……」
そんなやり取りも見えた。
次々と消えていく光景の中、暗闇で丸まって泣いているアーシャに、禅一が手を伸ばした時だった。
自分たちの意識がブラックアウトするのではなく、パァンと薄いガラスが弾けるような音が響いた。
その音と同時に、周りの風景が弾け飛んだ。
「アーシャ……!!」
今までは景色と共に消えていたアーシャが、禅一の腕の中に残っていた。
グスッグスッと泣いているアーシャを禅一は大切そうに抱き締める。
「アーシャ」
目を閉じたまま泣いていたアーシャは、呼びかけられて、目を開けた。
「………………?」
不思議そうにアーシャは禅一を見つめる。
腕の中のアーシャが、記憶の中のアーシャであれば、禅一や譲は知らない人だ。
「チビ、帰るぞ」
しかし呼びかけたら、顔をくしゃくしゃにして、アーシャは自分を抱き上げている禅一に張り付いた。
その瞬間、弾けた周りの風景が完全に崩れ、細切れになり、小波に揺られる夜光虫のように輝き、アーシャに向かって集まっていく。
やがてその光はアーシャの体を覆ってしまう。
「アーシャ!?」
「チビ!」
慌てて禅一がしっかりと抱き直し、譲も小さな腕を握る。
消えてしまうのではないかと思ってそうしたのだが、譲の手には、その反対の現象が伝わってきた。
グググっと掴んだ腕の質量が増したのだ。
「じぇん、ゆじゅう……!」
光が収束して、禅一の腕の中にいたのは、少しだけ成長したアーシャだった。
短くて好き放題な方向に跳ねていた髪が、少し伸びたことにより、その重みで波打ちながらも肩の辺りでまとまっている。
手足は相変わらず短いが、触れたら折れてしまいそうな頼りなさがなくなり、しっかりとした太さがある。
鼻水まで流しているぐちゃぐちゃな顔は、僅かに大人びたような気がする。
「アーシャ、帰ろう。俺らがママで兄ちゃんになるから。アーシャにどんな力があっても、毎日美味しいものを食べて、あったかくして、幸せに生きられるようにするから」
禅一は少し大きくなったアーシャを、赤ん坊にそうするように、左右に揺らしてあやす。
「勝手に俺を巻き込んだ主語を使ってんじゃねぇよ。俺はママになる気はねぇからな。チビ助」
譲はベソベソ泣いているアーシャの頭を掻き回す。
涙と鼻水だらけの顔で、アーシャが不器用な笑顔を見せる。
すると周囲の明度が上がり始め、色の代わりに光が満ちて、視界を埋め尽くす。
「起きた!起きたよ!今、動いた!」
「禅!譲!アーシャちゃん!」
「アーシャたん!!」
騒々しい声が聞こえる。
「………っせぇな………」
そう言って、譲は現実の瞼を引き上げた。
目を開けた先にあったのは、よく見知った面々の顔だった。
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