30.兄弟、夢を渡る(中)
真っ暗な世界に、深々と頭を下げた女が浮かび上がる。
『どうぞこちらへ』
面を上げると、切れ長の一重と小さな口が見える。
病的なほどに白い肌で、少しくすんだ黒い髪を首の後ろ辺りで緩く束ねる、下げ髪と呼ばれる大昔の髪型だ。
女は譲に背を向けて、スイっと滑るように移動する。
(何か……妙だ……)
その動きに違和感を覚えて、足元を見ると、巫女装束の緋色の袴からは何も出ていない。
暗闇に溶けて見えないのか、そもそも何も生えていないのか。
『お二人とも、いかがなさいましたか?こちらでございます』
スルスルと進んだ女は不思議そうに振り返る。
周りを見るが、暗闇には譲と女以外、誰もいない。
「二人……?」
そう呟いた瞬間、女の隣に大きな影が現れた。
「禅!?」
キョロキョロと周りを警戒するように、黒い霧の中から突然抜け出して来たのは、間違いなく禅一だった。
譲が驚いて駆け寄ると、
「譲……!?」
禅一も目を見張る。
「……現実っぽい変な夢だ」
そしてしみじみと譲を見ながら、そんな感想を述べる。
『ここは夢であって夢にあらざる場所。お二人のもとにアァシャを戻したく、お連れしております』
前を行く巫女装束の女は静かにそう告げる。
「アーシャ!?」
「チビを……!?」
二人が色めき立つと、女はゆっくりと頷く。
『アァシャは……欠けていた力が戻され、その中で惑い、抜け出せない状態になってしまっております』
「欠けた力……?」
わかったような、わからないような説明に譲たちは戸惑う。
そんな譲たちを、女は複雑そうな表情で、振り返って見つめる。
『……契約により、私は多く語ることができません。そして他の神域に入ることもできません。私にできることは、
そう言ってスルスルと女は移動する。
滑るような動きと、力無くはためく袖が、譲の記憶に引っ掛かる。
腕と足がない、巫女装束の女。
「あんた、もしかして、チビの中にいる巫女……?」
尋ねると、彼女は小さく頷く。
しかしそれだけで、自分で名乗ったり、事情を話したりする気はないようだ。
巫女は移動を続け、やがて周囲が段々と明るくなってきた。
「一体、アーシャに何が起こっているんだ?あの大きな鳥がアーシャに何かしたのか?」
巫女の後ろ姿を追いながら、禅一が少し尋問するような口調で尋ねる。
『大鳥として顕現した
「砕け散る……?破片……?」
禅一は戸惑ったような顔で、譲を見るが、譲にだって何が何だかわからない。
『破片は彼女の魂の一部であり、力であり、記憶でもあります。それらを戻す時、肉体は耐え難い苦痛を伴うので、破片を戻し終えるまで、手元に置こうとなさったそうです。そして肉体が出来上がったら彼女を体に戻して、貴方がたの元に帰すおつもりだったそうで……』
そう説明する間に、周囲が真っ白になる程白く輝き始める。
「ちょっと、待ってくれ。全然意味がわからない。世界を渡るとか、破片を体に戻すとか何とか……」
尋ねる譲に、悲しそうに巫女は微笑んだ。
『申し訳ありません。貴方がたをここに導くために、私は眷属に降りました。許しがない限り、説明はできないのです。……ただ、これだけは。アァシャの体を途中で取り戻してくださって有難うございます。あんな記憶……』
何かを言いかけて、彼女は口を引き結び、首を振る。
そして眩さを増した光に、彼女の姿は溶け始める。
『どうぞ早く迎えに行ってあげてください……』
その言葉と共に、光はゆっくりと収束していく。
「………これは………」
光が完全に収束すると、周りに広がる景色がはっきりと見えるようになっていた。
黄金色の海がさざめいている。
一瞬そう見えたのは、黄金色の実りをつけた植物だ。
「一体……?」
譲は全く見覚えのない景色に戸惑う。
目の前に広がる植物は、一瞬、稲かと思ったが、穂を垂れずに真っ直ぐと立っているし、水田にはなくてはならない水路が見当たらない。
その縁は妙にガタガタしているし、足元の道は車が入るとは思えないほど細く、全く整備されていないようで、平らになっていない。
「麦……か?」
譲はよく見ようとしゃがみ込んだが、不思議なことに地面についたはずの手に何の感触もしない。
「…………………?」
一度手を上げてから、もう一度地面に触れるが、やはり何の感触もしない。
土も、石も、雑草も何の感触もしない。
それどころか雑草を触ろうとした手は、幽霊のそれのように、すり抜けてしまった。
「…………」
驚いた譲は畑で実っている作物にも手を伸ばしてみるが、一切の感触がなく、やはりすり抜けてしまう。
まるで不完全なVR空間のようだ。
「おい、禅、ここ変だぞ。………禅?」
譲は禅一にも試させようとしたが、彼の目は別の方向に釘付けだった。
「ん?」
その視線の先には四つ足の奇妙な獣……ではなく、恐ろしく汚い身なりの、全体的に黒っぽい子供が三人、四つ這いで麦畑に隠れている。
ホームレスですら、もっとまともな服を着ているだろうという、ほぼ色が抜けた、ボロボロの貫頭衣のような服を身につけている。
「なんだあの縄文系浮浪児軍団は……?」
「……アーシャ……」
譲は不審者を見る目になったが、禅一は顔を輝かせて走り寄る。
「アーシャ!」
三人の子供のうち、中央にいる、一際小さな影に禅一は呼びかける。
「チビ……?」
薄汚れて、髪は塊のようになっていて、骨っぽさが目立つが、顔立ちを見ると、確かにそれはアーシャだった。
(確か……拾った時、こんな感じだったような……いや、拾った時より幾分かふっくらしているか……?)
譲は禅一が引き取るのを大反対して、あまり見ていなかったので、記憶があやふやだ。
「兄ちゃん、母ちゃんに怒られねぇ?」
アーシャの右隣の子供が口を開く。
「…………っ!」
聞いたこともない言語なのに、何を言っているのかがわかって、譲は目を見開く。
「馬鹿!だからこっそりやるんだよ!……お、アーシャ、来たぞ!」
「ん!」
左隣の子供に言われて、アーシャはしっかりと頷く。
麦畑に隠れる子供達は、ガタガタ道の先から来る男を待ち構えているようだ。
走り寄った禅一の姿にも全く気が付いていない。
「……一体何なんだ……」
譲が戸惑ったように呟くと、呆然としていた禅一が振り向いた。
「これ、俺が見てた夢と同じ光景だ!ほら、変な夢を見るって話していただろ!?」
「あ〜……いつだったか、そんな話してたっけ……?」
そんな話をされたような気がするが、たかが夢と聞き流していたので、一々内容まで覚えていない。
「いつもの夢はアーシャの視点だったんだが……こんなに動き回れるなんて……譲もいるし、さっきの巫女さんも夢じゃないって言ってたし、これは夢じゃないよな!?」
「……お前が俺の夢の登場人物じゃなければ、夢じゃねぇよ」
混乱した様子の禅一を軽くいなして、譲はアーシャと思われる子供に視線を戻す。
向こうから歩いてくる男は、まだらに赤く腫れた足を引きずっている。
恐らく細菌感染でも起こして発熱もしているのだろう。
具合が悪そうで、明らかに動いて良い状態ではないように見えるのに、農具を支えにして、必死に歩いている。
「いくぞ!」
小さな声で鋭く左の子が号令をかけ、子供達は走り出す。
号令をかけた子供が一番大きい。
小学中学年くらいだろうか。
次に走り出した子供も、最初の子より小さいが、そこそこ大きい。
「わーーーー!」
「わ……わーーー!」
「うわっ!!」
そのくらいの男の子たちが一気にぶつかっていったものだから、具合の悪そうな男は大きくよろけて、地面に尻餅をつく。
「わ!わ!」
少し遅れてヨタヨタと走るアーシャが、いかにも演技くさく『止まれなくてぶつかりました』という風に、男の腫れた足に抱きつく。
「いてて……何しやがるガキども!!」
ぶつかった拍子に自分たちも転けましたという体で、自分の上に折り重なった子供達に男性は怒鳴る。
「ごめんごめん!追いかけっこしてて、おじさんが来てるのわかんなかった!」
「ご……ごめんなさ〜い!!」
「真っ昼間から仕事もしねぇで遊ぶとは良い度胸だな!ガキども!!」
「ごめんよおじさん!母さんの手伝いに行く途中だったんだ」
「い、急いで行こうと思ってぶつかっちゃって……っ」
そうやって二人の子供が時間を稼いでいるうちに、アーシャはギュッと目を瞑って、男の腫れた足に氣らしきものを注いでいる。
「ったく!ただでさえ具合が悪いのにイラつかせるガキどもだな!ほら、早く退いてくれ!」
「あいたたた、ちょっと待って、足が痛いからゆっくりゆっくり!」
「あーーー!俺も!足ひねったかも!」
少年たちはチラチラとアーシャの様子を伺いながら、ノロノロと立ち上がる。
「ごめんよおじさん」
「立てる?」
そうしてアーシャがそっと離れると、少年たちは男を立ち上がらせる。
「クソッ、ただでさえ足がいてぇのに……!」
立ち上がった男は悪態を吐きながら行ってしまう。
痛がっている足の腫れがなくなっていることには気が付いていない。
「後でお前らの母さんに言っとくからな!!」
「「「ごめんなさーい!!」」」
苛立ち紛れの男の捨て台詞に、アーシャたちは元気よく謝る。
そして男の姿が見えなくなってから、三人は顔を合わせる。
「アーシャ、上手くできたか?」
「ん!」
尋ねられたアーシャは力強く頷く。
「凄いぞアーシャ!良い子だな〜〜〜!!」
少年はアーシャを抱きしめ、頬をグイグイとすり合わせる。
「ふへへへへへへ」
それがくすぐったいのか、嬉しいのか、アーシャは声をあげて笑う。
すごく幸せそうな笑顔だ。
「バレねぇかなぁ……」
もう一人の子は心配そうに呟く。
「大丈夫だって!お前だってミューを助けたかっただろ?」
「ん〜〜〜そうだけど……母ちゃん、怒るんじゃねぇかなぁ」
言い合う二人の顔はよく似ている。
恐らく兄弟なのだろう。
二人ともパサパサに焼けた黒髪で、目が茶色い。
「……せっかくある力を使うなって言う母ちゃんがおかしいんだよ」
「でも……」
「ミューの母ちゃんはこの前のお産で死んじゃったから、残ってんのは父ちゃんだけなんだぞ!?……母ちゃんだって知ってるくせに何で助けるなって言うんだよ!?おかしいだろ!?普段は助け合いだとか言ってるのに!!」
怒声に彼が抱きしめていたアーシャがビクリと体を強張らせる。
「……おにちゃ……」
「あ〜〜〜!ごめん!アーシャは悪くねぇぞ!良い子だぞ〜〜!アーシャのおかげでミューも元気になるぞ〜〜!」
そう言って、彼はまたアーシャに頬を寄せる。
「むー、げんきなる?」
「そう!元気になる!」
「えへへへへへ」
「アーシャもミューが元気になったら嬉しいよな〜」
「ん!」
そんな二人をもう一人の子が困ったような顔で見守っている。
「アーシャのお兄ちゃんたちだ」
禅一が言う。
「だろうな。目元がなんか似てる」
そう言いながら譲は周りを見回す。
(もしかしてこれがチビの記憶なら、身元の手がかりがどっかに……)
しかし一面農作地で、これと言ったシンボルマークはない。
「友達の家族を助けたい気持ちはわかるが……危ないな」
キャッキャと喜び合う子供達を眺めつつ、禅一が呟く。
「何とか偶然を装っちゃいるが……子供の浅知恵だな」
譲もその意見に同意だ。
「しっかし……全員揃って汚ねぇな。風呂に入れてもらってねぇのか?」
譲がそう言うと、禅一は首を傾げる。
「俺の夢が夢でなかったとすると……風呂があるような文化レベルじゃないというか……家もかなり簡素設計なんだよ」
禅一はそう言いながら、楽しそうに笑っているアーシャの頭を撫でようとする。
元気な姿が嬉しくて、手を伸ばさずにいられなかったのだろう。
しかし禅一の手がアーシャに触れたと思った瞬間、目眩のような感覚が襲ってきた。
一瞬、意識がブラックアウトしそうになってよろめき、体勢を立て直したと思った時には、そこに麦畑はなかった。
「「……………!?」」
薄暗く、鼻が曲がりそうな悪臭が、目にまでしみる。
周囲を見回すと、木と土で作った、粗末な小屋の中であることがわかる。
地面は土が剥き出しで、その上に藁のような干した植物が敷き詰められている。
「何か……生物っぽい刺激臭が……!!」
譲は鼻を摘み、口を覆う。
「あ、ほら、ここだ。アーシャの家。簡易設計」
そんな譲に呑気な禅一が『これこれ』とばかりに指差す。
「これは簡易設計でも、何でもねぇよ!!あってたまるか!こんな家!!」
その辺りから、かき集めた廃材でも、譲はこれ以上の家を建てられる自信がある。
「因みに豚さんもご同居中」
禅一が指差す先には、四本足の生物がいる。
「豚小屋じゃねぇか!!」
譲が知っている豚から比べると、鼻は長いし、痩せ気味なアスリートのような体型で、野生味に溢れて家畜らしくない姿だ。
「いや、同居だよ。ほら」
粗末な木の衝立のような物の先には寝床と思われる少し高い台の上に敷かれた草と、かまどとは言えないレベルの小さな炉がある。
少ないが食器らしい物も置いてある。
そんな小屋で、アーシャを含めた子供たちは、せっせと刈り取った植物を叩いたり、草を編んだゴザのような敷物に座り、何かを選り分ける作業をしている。
「………いやいや。あり得ねぇだろ……」
禅一が何故あっさりと受け入れられるのか、譲には理解できない。
「まぁ、家族兼食糧って文化は、俺たちにはちょっと刺激が強いよな……」
「そこじゃねぇ!!」
譲は禅一の頭を叩く。
幸い、他の物はすり抜けてしまうが、禅一だけはしっかりと叩けた。
「こんな家に住むなんて、今の世界の文化レベルじゃありえねぇって言ってんの!!」
「あ、やっぱりそう思うか?」
譲が睨むと、意外なことに、すんなり受け入れているように見えた禅一も疑問を持っていたらしく、そんなことを言う。
「『何とかの原住民』とか……アマゾンの奥地とか……まだ昔様式の生活をしてる所もあるからと思ったんだけど……これはちょっとおかしいよな?」
改めて問われると、『絶対おかしい』とは断言できず、譲は一瞬言葉に詰まる。
世界は広く、平凡な一学生が、すべての事柄を把握できているわけではない。
「……少なくとも、俺が映像を知ってる国で、こんな文化レベルの所を見たことがない。それにあの豚。おかしくないか?どう見ても今の品種改良された豚じゃない」
「妙に鼻が長いよな。この辺りの固有種……って可能性もあるけど」
譲は顎を摘みながら考えこむ。
「……どんな翻訳ソフトでも翻訳できない言語……見たことのない文字……今の文化レベルでは考えられない不衛生な家屋…………。『世界を渡った』…………。もしかして、ここは異世界、か?」
そう呟くと、禅一が目と口を丸くする。
「譲……すまん。俺が無気力な間に負担をかけすぎたんだな……」
突然、禅一は譲の肩を掴んで、深く頭を下げる。
「いきなり俺を憐れみの目で見て、謝ってきてんじゃねぇよ。別にとち狂ってねぇよ」
譲はその憎たらしい頭をグイグイと押し戻す。
「だって、い、異世界って……異世界って……譲の口からそんなファンタジックな結論が出るなんて……」
禅一のくせに、今にも笑いそうに口を引くつかせて、生意気である。
「うるせぇ。現状、世界で一番
譲は失礼な兄に蹴りを入れる。
「だって説明がつかねぇだろ。俺たちの世界に存在しない。なら、異次元とか並行世界とか宇宙人とか……」
「そう言えば、譲って、不思議系詰め合わせの雑誌とか、世界の謎とかの本を読み込んでいたよな。小さい頃」
「………ケンカ売ってんなら大量購入してやるぞ、この野郎」
自分でも突飛過ぎる発想と思ったから、指摘された譲は恥辱を感じながら拳を握る。
「ふあぁぁぁぁ!疲れた!!」
あわや醜い兄弟喧嘩が起こるかと思われた時、アーシャの長兄と思われる子が、振っていた棒を置いて、座り込んでしまった。
「母ちゃん、遅いね」
何かを選り分けていた次男も同意し、
「おちょいね〜」
選り分けられた後の草を揉んでいたアーシャも同意する。
「パン焼きが上手くいってないのかな〜。腹減ったな〜」
そう言って長兄は藁が敷き詰められた、寝床と思われる所に転がる。
「また母ちゃん、いじめられてんのかな……」
しょぼんと次男は肩を落とす。
「おにちゃ、いーこ、いーこ」
アーシャは立ち上がると、悲しそうな次男の頭を、慰めるように撫でる。
「へへへへ、アーシャも良い子!良い子ぉぉ〜!」
次男は嬉しそうに笑って、アーシャをギュッと抱き締める。
クスクスと笑い合う様子は非常に微笑ましい。
「………よし。母ちゃんを助けに行こう!」
そう言って長兄が立ち上がる。
「兄ちゃん、
「でも母ちゃんを助けてやれるのは俺らだけだろ!?みんなと同じだけ金を払っているのに、大の男がいない家だからって、いっつも竈の端に追いやりやがってさ!」
「……仕方ないよ。うちには父ちゃんがいないんだもん。女子供だけだから……」
事情はよくわからないが、竈はお金を出して使わせてもらうものらしい。
母子家庭であるこの家は、そこで差別を受けているようだ。
「仕方なくない!俺ら二人で一人前以上は働いてるし、今年の実りは誰のおかげだと思ってるんだよ!!」
「兄ちゃん!それ言っちゃダメだって!!」
「何でダメなんだよ!全部アーシャのおかげじゃないか!」
兄二人が言い争いを始めてしまったので、アーシャはオロオロと立ち上がる。
「おにいちゃ、おにいちゃ……」
どっちも大好きなのだろう。
双方の兄に一生懸命声をかけている。
「悔しくないのか!?腹一杯食べられるようになったのも、流行病が止まったのも、隣の死にかけ馬が元気になったのも、ミューの父ちゃんの足も、全部、全部アーシャがおかげじゃないか!!それなのに……」
「兄ちゃん!ダメだって!!」
「だから何でダメなんだよ!納得いかねぇよ!アーシャがちっちゃい足でみんなの畑を回って……」
小さいアーシャの静止は届かず、長兄は悔しさを滲ませながら、怒鳴る。
その時、キィと小さな音がして、強い夕日と共に、人影が入ってくる。
「あ………」
「か……母ちゃん……」
小屋の中に入ってきたのは、植物を編んだバスケットに黒い物体を沢山入れた女性だった。
一括りにされた髪には艶がないが、緩く波打っており、アーシャの髪癖によく似ている。
目の色こそ違うが、顔つきもそっくりで、一目で彼女がアーシャの母親とわかる。
「………………」
彼女は無言のまま、硬い表情で、バスケットを小さな木の棚の上に置く。
そして息子たちに近づいたかと思ったら、無言のまま、手を振りかぶった。
パァンという甲高い音と共に、長兄の体がよろめく。
「か……母ちゃ……」
そして止めようとした次兄も、返す手で思い切りビンタを受ける。
「おかあちゃ……」
息子二人を叩いた彼女は無言のまま、小さなアーシャに向き直る。
「ちょ………!」
「やめろ!!」
アーシャも叩かれると思ったら、勝手に体が動いていた。
彼女の前に禅一と譲は立ち塞がったが、母はそんな二人をすり抜けて、アーシャに歩み寄る。
「「……………っっ!!」」
パァンと鳴った音に、譲たちは身を縮める。
兄たちは踏みとどまったが、小さなアーシャは吹っ飛ばされて地面に転がってしまった。
びっくりした顔で転がったアーシャの大きな目から、痛みによる反射か、ポロポロと涙が先走る。
まだ叩かれたことも理解できていない様子の、アーシャの首元を握って母は揺する。
「駄目だって教えたわよね!?力は使ってはならないと、何度も言ったわよね!?」
ガクンガクンと揺らされると、アーシャの顔が歪んで、その目から大粒の涙が飛び散る。
「ご………ごめんなしゃ……ごめんなしゃい………」
細々とした声でアーシャは謝る。
「母ちゃん!」
「アーシャは悪くないよ!俺が頼んだんだ!!」
兄二人が妹を揺する母の手に、それぞれ掴まって止める。
「あなたたちにも駄目だと教えたわよね?約束を破らせたあなた達のせいで、今からアーシャは罰を与えられるわ。二人は自分たちの罪を見ていなさい」
その二人に凍えるような声で母親が応じる。
「………何でだよ!!何がダメなんだよ!!」
「そうだよ!言いつけは破ったけど……何も悪いことなんてしてないよ!!」
そう言う兄二人を、母は静かな怒りを秘めた目で見つめる。
「これは人に過ぎた力。授かってはならない力。使ってはならないの」
そして子供一人一人の顔を見つめながらそう言い切る。
母の迫力に、兄達は一瞬口をつぐむ。
「そ、それは、母ちゃんが、そう言ってるだけじゃん……!」
「そ……そうだよ!!神様が悪い物を与えたりするわけないよ!これはきっと、みんなを助けるために与えてくれた力なんだよ!」
しかし我慢できないように主張する。
子供達の主張に母は顔を歪ませる。
「神は全ての人間を憐れみ慈しむかもしれないけど、神に仕える人間はそうじゃないわ。過ぎた力を授かったと知られれば、アーシャは『人』である事を奪われる。もう二度と『人』として生きられなくなる」
そして両腕にしがみついた兄たちを振り払う。
「アーシャ、畑に力を使ったのね?」
「……あ……あい……」
静かに聞かれたアーシャは震えながらも頷く。
するとパァンとまた大きな音が鳴る。
「……ぅうぇっ……ひっ……ふぇ………」
地面に転がった、アーシャは泣く。
「母ちゃん!俺をぶってくれよ!アーシャじゃない!悪いのはアーシャじゃない!」
アーシャの前に長兄が立ち塞がる。
「アーシャが病気を治したのは何人?」
その兄に母は静かに尋ねる。
「えっと……四……」
長兄が答えると、パァンパァンと立て続けに四回その頬が叩かれる。
「アーシャ、貴女がやった過ちの数だけお兄ちゃんを叩くわ」
そう宣言されて、地面に倒れて泣いていたアーシャはますます涙を溢す。
「おかしゃ……ごめんなしゃ……ごめんなしゃ……」
自分が叩かれた時より涙でグシャグシャになっている。
「アーシャ、馬の病気を治したのね?」
そんなアーシャに更に尋ねる母に、次兄が飛びつく。
「母ちゃん!母ちゃん!何でだよぉぉ!止めてよ!止めてよぉぉぉ!!」
子供に飛びつかれた母は、唇を噛んで嗚咽を殺し、泣いている。
「人のまま……人のまま生きるためよ……!!」
そう押し出された言葉は、静かなのに、まるで慟哭のように聞こえた。
「アーシャ……アーシャ……!!」
触れることができない幻影でも、我慢ができなかった禅一は、彼女を守るように抱きしめようとする。
その瞬間、再び強い眩暈が襲い、意識がブラックアウトした。
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