30.兄弟、夢を渡る(前)

自宅に帰ってきたら、いつもの生活が始まる。

そのはずだったのに、自宅は静まり返っていた。

村で何があっても、自宅に帰ってきたら、途端に日常に戻っていた禅一は、リビングの一角から殆ど動かない。

特に何かをしているわけではなく、眠り続けるアーシャの枕元にジッと座っている。


帰って来た日は病院に連れて行ったと言うこともあり、最初のうちは安心して寝かせていたが、昼ごはんの時間を過ぎても、おやつの時間を過ぎても目覚めないと、不安が募り始めた。

それでも次の日になれば起きるのではないかという希望があった。

しかし二日目も目覚めない。

流石に心配になって、再び小児科に連れて行ったが、やはり状態としては寝ているだけで、目を覚まさない理由がわからない。


『……昨日より頬がこけてるわ……』

ずっと見ていた禅一や譲にはわからなかったが、言われてみれば確かに福々と膨らみ始めていた頬が少し減ったように見える。

そこで乾医師が体重を測定したのだが、不可解なことが起こった。

痩せたように見えるのに、体重は減っていない。

むしろ増えていたのだ。


原因は見当たらず、ただ目覚めない。

その上、体重は増えているのに、外見的には痩せていっている。

『本当は大学院病院に紹介状を書きたいところなんだけど……』

乾医師はアーシャの特異体質が外部に漏れる可能性を考慮して、点滴で栄養を入れ、もう少しだけ見守る判断をした。


いつもなら寝ていてもコロコロと動き回り、変な寝息をたてたり、モグモグと口を動かしたりするアーシャは、微動もせずに眠り続ける。

抱き上げても、何の反応も示さず、規則正しい呼吸を繰り返すだけだ。

アーシャがそんな状態なので、禅一は体を戻さないといけない時期なのに、殆ど眠れておらず、食欲も出ない様子だ。

あまりに食べないので、三食差し入れにやってくる和泉姉弟も心配しているし、篠崎も珍しく自分から食べ物を持ってきた。

超絶脂っこいフライドチキンだったが。

禅一は病気の主人に従う犬のように、アーシャのそばを片時も離れようとしない。

譲も足を負傷して二階に上がれないので、何となくそのそばにいる。


三日目は小児科が休診であったため、乾医師が往診に来てくれた。

その往診に娘である峰子と、父である乾老も一緒について来た。

「大きくなってる………!?」

そうしてその事実に峰子が気がついた。

緩やかに成長していたようで、ずっと見ていた禅一や譲には気がつけなかった。

横になって眠っていたせいもあっただろう。


言われてみれば、枕にのった髪は量が増え、少し大きめだったパジャマから腕や足がはみ出している。

慌ててその身長を測ってみたら、一月の時点から十二センチも伸びていた。

「……栄養状態が改善した時に、急激な成長が始まった例も聞いたことはあるけど、数日でこんなに大きくなることは、まず、有り得ないわ。現代医学ではとても説明がつかない」

乾医師は頭を抱えた。


「様子を見るのは今日がリミットと思っていたんだけど……これは精密検査をされたら逆にまずい状況になるかもしれないわ」

全ての抗体を持った、異常な成長を見せる体。

それはぜひ研究したくなる対象になるだろう。

「そんな……」

「三日も昏睡しているのに、排尿も排便もなし。それなのにお腹が張っている様子もない。……危険を冒して精密検査をするか、このまま点滴で栄養を補給させながら様子を見るか……判断に悩むわ」

常識ではまず有り得ない状態に乾医師も大いに困惑していた。


「ん〜〜〜、魂が別の場所に引き摺られているねぇ」

色々と検査をされて、点滴などの処置を受けるアーシャを、じっと視ていた乾老は呟いた。

「引き摺られている?」

譲に聞かれた乾老は首を傾げる。

「魂の緒は繋がっているが、体の中に存在が感じられない。……大鳥に拐われかけたのを何とか取り戻したと聞いたが……もしかしたら、取り戻せたのは体だけだったのか……」

彼の目を以てしても、事情は読み切れないらしい。


「お嬢ちゃんを拐おうとしたのが、大鳥っていうのがまた引っ掛かるんだよねぇ。藤護が守っているのは水の流れ、川を象徴する女神で、人以外の姿だと蛇または龍で表される。だから村の人間は蛇を大事にしている。これとは逆に忌まれている動物がいるんだが、それが烏なんだよ。……これは気にしすぎなのかねぇ……」

乾老は独り言のように呟くが、そんな情報を入れられても、今の譲たちには何も考えられない。

神様の事情なんてどうでも良い。

とにかくアーシャが目覚めないのが問題なのだ。


(このまま一生目覚めなかったりして……)

そう思うとゾッとしてしまう。

たった一ヶ月ちょっとで、このチビ助は、すっかり生活の中心になってしまっていた。

これからの生活は全てこのチビありきで考えていたのだ。

それなのに、こんなに唐突に、訳のわからないことで失うなんて、悪い夢でも見ているような気分だ。


話に加わらずに、ジッとアーシャの枕元に座っている禅一もそうだろう。

一応三食食べているのに、断食していた時より、ぐったりと萎れてしまっている。

いつもは物差しでも入っているように伸びている背筋が、力無く曲がり、ヒゲを剃ることすらしなくなったので、外見が一気にくたびれて、ドロップアウトした中年のように見える。


乾医師は大きくため息を吐いた。

「お父さん、その魂とやらを引っ張り戻せれば、目を覚ます可能性はあると思う?」

医師が異能に意見を求める。

普通であればないことだろうが、乾医師は父親の能力をよく理解している。

「絶対とは言えないが、少なくとも魂なしで生物は動けない。とりあえず魂を引っ張り戻すしかあるまいよ」

「どうやって戻せば良いのかしら?」

「俺の『目』すら防ぐ所に持って行かれているようだから……失せ物探しが得意な奴を頼るか」

そんな乾家の会話を、どこか他人事のように譲は聞く。

チビが目を覚まさなくなって、どうも現実味がないというか、世界に膜が張って、遠くなったような気がするのだ。


アーシャの小さな布団は診察のために押入れ部屋から取り出され、テーブルやソファを動かして、居間の中央にポツンと敷かれているのだが、どうにも見慣れない。

現実と乖離した夢の中のようだ。

微動だにせずに眠るアーシャも悪夢の一部で、目が覚めれば、平和そうな顔で涎を垂らし、変な寝息をたてているんじゃないかと思ってしまう。


そんな譲や禅一の前に、峰子はしゃがみ、視線を真っ直ぐに合わせてくる。

「しっかりなさい!」

そして二人の肩を力を込めて叩く。

「アーシャちゃんは絶対にどうにかして見せます。祖父が!」

「えっ」

突然全責任を吹っ掛けられた乾老が驚きの声をあげる。


「ですからお兄ちゃんたちは、その酷い状態を何とかしましょう。いつものお兄ちゃんでアーシャちゃんを迎えてあげてください」

ノロノロと禅一が顔を上げる。

「空気が澱んでいますから、家の空気を入れ替えましょう。それに荷物が散乱してますね。お掃除しましょう。帰って来て荷解きはしましたか?」

今はそんな事をしている場合じゃ無いのに、峰子はそんな事を言う。

動き出さない二人に彼女は少し首を傾ける。


「アーシャちゃんは必ず目覚めます。それが大前提です。老骨を限界まで使ってもらいます。私たちも手を尽くします。ですから『起きなかったら』ではなく『起きたら』と考えて周りを見てください。片付いていない部屋は子供の事故を誘発しますし、そんなに弱り切っていたら、元気なアーシャちゃんのお世話がきちんとできませんよ」

まだ反応が鈍い禅一の顎を、峰子は指差す。

「特に禅一さん。子供はビフォアー・ヒゲとアフター・ヒゲで、対応が変わりますよ。おヒゲを剃ったお父さんを認識できずにギャン泣き拒否したり、初めてのお父さんの無精ヒゲ姿に防犯ブザーを鳴らした子もいました。起きたアーシャちゃんに不審人物扱いされたいですか?」

そう言われた禅一は衝撃を受けた顔で、ヒゲの生えた顎をなでる。


禅一としっかりと視線が合うと、彼女は微かに唇の端を上げた。

「アーシャちゃんを支えるためには、まず貴方達が心身ともに健康である必要があるんです。親は子供のためにも、自分を大切にしなくてはいけません。そして辛い親を助けるのが周囲の人間の役割です。皆、力になりたくて手を伸ばして待っていますよ」

峰子は二人の頭を、まるで子どもにそうするように、優しく撫でた。


彼女が言った通り、色々な人間が心配していた。

特に顔を洗ってヒゲを剃り、片付けを始めた禅一を見て、和泉は少し涙ぐんでしまうほど喜んだ。

和泉姉は『たんまり食って寝ろ!』と買い物袋三つ分の食料を運び込んできた。

片付けが出来ないくせに掃除を手伝うと宣言した篠崎は、掃除機片手に部屋を暴走していた。

家が騒がしくなると、『最近姿を見ないから心配で』と大家さんを始め、ご近所さん達が柿やらみかんやらのお裾分けを手にやって来た。

五味も譲襲撃事件の捜査経過報告と理由をつけて、冷凍スイーツ片手にやってきた。

因みにスイーツの美味しさを語っただけで、事件の経過報告は忘れて帰っていった。

禅一が放置していたスマホには、保育園の先生やママパパ友から、心配する連絡が沢山入っていた。


千客万来。

状況は変わらないが、乾家からの『ここからは大人に任せなさい』という力強い宣言と、外部からの刺激もあって、禅一も復調の兆しを見せ始めた。

「何かさ……ばーちゃんと離れてから、久々だよな」

全員が帰り、アーシャの布団の脇で、村に持って行っていた荷物を整理をしながら、禅一は呟いた。

「あぁ?」

同じように洗い物などを出していた譲は、要領を得ない話に眉を寄せる。

「子供扱いされるの」

「あぁ」

引き取られた村では、子供扱いの前に、そもそも人間扱いされていなかった。

味方はお互いしかおらず、自分たちの権利を守るためには、子供なんかでいられなかった。

それぞれの方法で戦うしかなかった。

そしてようやくあの村から出られるようになった頃には、成人する年齢になっていた。


「もう子供じゃねぇだろ。デカい図体しやがって」

「まぁ、そうなんだけどさ。……でも、何か、支えてもらえるって、安心できるな」

「……はいはい」

「俺らって、アーシャのそういう存在になれてるかな」

「わかんねぇ……けど、まぁ、禅はなれてんじゃねぇの」

まだ精神が立ち直りきっていないのか、禅一は妙にセンチメンタルな事を言う。


「あ」

「あんだよ」

「歯医者で買ったチョコが出てきた」

「まだ全部食わせてなかったのかよ!!」

「普段使わない所に入ってた」

かと思えば、そんな間の抜けたことも言う。


「あ」

「…………」

禅一のバッグは基本的に、訳のわからないものが堆積している。

付き合ってられないと譲が無視していたら、禅一はカサカサと取り出した紙を広げる。

「……………」

妙に静かにその紙を眺めていると思ったら、

「…………?…………はっ!?」

その目から次から次に涙が溢れ落ちていた。

「え!?は?は?」

唐突なる滂沱の涙に驚いていたら、片手で顔を覆った禅一に、持っていた紙を渡される。


『ぜん

あさ あう たのしい。ごはん おいしい ありがと。

あさ ばいばい かなし。ひろ あう とても たのしい。

すうばあ たのしい ありがと。ごはん あちい おいしい たのしい ありがと。

よろ あちい たのしい。だいすき。あしや』


相変わらずカクカクの線で、脅迫文めいたフォントだが、一生懸命書いてある。

無理に文の体裁を繕わないで、知っている単語を並べているせいで、奇妙な古文まじりにはなっていないが、相変わらずの怪文書っぷりだ。

保育園で文通をしているらしいが、友達はこんな手紙をどう思っているのだろうか。


「あしやって……アーシャか。……そういや、村に行く前にチビが何かコソコソしてたな」

手紙には全く良い記憶がなかったから、ついつい確認を後回しにしていた。

譲は自分のバッグも漁る。

『ゆずろ』

すると、そう書いた封筒が出てきて、譲は苦笑する。

(……るの丸が潰れて、ゆずろになってんじゃねぇか)

丸い線を書くのが苦手なので、曲線だらけの『ゆずる』には苦労の跡が見える。

『ゆ』と『ず』はぎりぎり何とかなっているが、『る』はヒゲが生えた『ろ』のようだ。


(『あ』と『お』はギリギリ判別できるな)

そう思いながら苦笑混じりに、譲は自分への手紙を読む。

『へや たのしい ありがと』『うえ かわい すき』だとか、自分の部屋を満喫しているんだろうとわかる文があったり、『じ ありがと』と、覚えた野菜や果物の名前が羅列してあったり、『くろま かわい』などと謎の一文があったり、子供らしいカオスな内容だ。

そして禅一の手紙と同じく『だいすき。あしや』で締められている。

手紙の『好き』にはトラウマ級の恐怖があったが、これは別に嫌じゃない。


「っっうぅぅぅっっ………」

無言で涙を流していた禅一は、懇々と眠るアーシャの枕元に顔を押し当て、獣のような唸り声を上げる。

気持ちはわかる。

この手紙には日々の小さな幸せに満ち溢れすぎている。

目の前の姿との落差が大きすぎる。

『たのしい』『ありがと』『すき』で手紙を埋め尽くした、いつでも好奇心たっぷりで、ピカピカの笑顔だったチビが、今はこんなに生気を失って、まるで死んだように微動だにしない。


「………ゃだ……ぃやだ……こんなのは……嫌だ………!」

禅一の慟哭が布団に吸い込まれ、くぐもった音になる。

「……アーシャ……!アーシャ……!!……起きて……起きてくれ………!早く……!!」

正気に戻ってきた事で、今まで溜めに溜めた不安が吹き出したのだろう。

禅一は丸くなって、まるで駄々をこねるように、起きてくれと繰り返す。


小さい頃に戻ったように、禅一は泣く。

(子供の頃は割と素直に泣く奴だったな)

布団で声を殺しながら啜り泣く姿に、喜怒哀楽が激しかった頃の姿が重なる。

踏み潰されないために、侮られないように、大人になるために、捨てたはずの感情が戻ってきてしまったようだ。


頼りない小さな体だから、知らぬ間にその呼吸が止まりそうだと、禅一はずっと確認していた。

胸が上下しているか見て、顔の前に手をかざして、首に触れる。

何度も何度も、飽きることなく確認していた。

夜中でも度々目を覚ましては確認していた。

そんな事をしていたから、不安も気疲れも最高潮に達していたのだろう。

獣のような唸り声がなくなったと思ったら、禅一は意識がなくなって脱力していた。


「……この年で土下寝すんなって……」

普段ならまだしも、身体中湿布だらけの譲はかなり苦労して、巨体を横に倒して伸ばして、アーシャの布団に押し込む。

精進潔斎の後で体力が落ちていたせいもあるのだろう。

動かされても、禅一は目覚めることはなかった。


「チビ、とっとと戻ってこいよ」

頬をつついても、嫌そうな顔になることもなく、静かに目は閉じられたままだ。

夜中の確認役が、オチてしまったので、譲は自分の毛布をソファーから引き摺り下ろして、アーシャの隣の床に転がる。

そして小さな手を掴んで、目を閉じる。

禅一ほど頻繁に起きれないかもしれないが、せめてこうしておけば、容体が急変した時に気づけるだろうと、素人なりに知恵を絞った結果だ。


人形のように動かないのに、小さな手は温かく柔らかく、少し湿気っている。

間違いなく生きている子供の手だ。

(魂だけで、どこに行ってんだよ)

譲は暗闇で目を瞑りながら、文句をぶつける。




そのまま意識が現実から切り離されていく。

『お二人をお待ち申し上げておりました』

夢に落ちきる寸前、意識の奥底から、そんな声が響いた。




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