28.兄弟、飛ぶ(後)

藤護の禁域の中心である、『御神体』を封じた石造の結界。

そこから更に山方向に入ること百メートルほど。

かつてここは、少し開けた山の中腹で、幅が広くなった川と中州があったと言われている。

その中州を挟んで、結界の隣を流れる本流と、村の方に流れる支流に、川が分岐していたらしい。

しかし戦時中の結界崩壊に伴う地形変化で、今では大きく山が抉れ、巨大な崖と複数本の滝が出現している。

崖の上から見ると、一番大きな滝が『御神体』方面へ、それ以外の滝が村の方面に流れていっているのがわかる。

『御神体』周辺は何かの力に守られているのか、太古の昔から変わりなさそうな景色に囲まれているが、それ以外は地形変化に伴い変わった流れを、何とか従来の流れに戻そうとした、人の手による護岸工事の跡が見て取れる。

『御神体』周辺と比べると、他の部分は木も綺麗に並んでいて、いかにも人の手で作られた森という感じだ。


藤護は川を司る女神を信仰している。

女神は穢れを受け止め、清め、海へと流すと言われており、村には川の支流から引き込まれた水路が張り巡らせてある。

水路も支流も、最終的には本流に合流し、村の外に出ていく。

村の穢れを外に運んでいく構造になっているわけだ。

清めは、その信仰の対象である川の根元である、崖の上で行われる。

そこから全ての流れに力を与えるわけである。


昔は緩やかな坂を登るだけだったらしいが、今は岩を掘って作った階段を登り、崖の上までいかねばならないので、高齢な最上は輿こしに乗って運ばれる。

最初のうちは宗主も輿で運んでいたらしいが、先代が中々立派な体格の持ち主だったらしく、自ら歩いて登る事を選択し、そこから現宗主もその代理である禅一も自ら歩いて登っている。

「ふ〜」

最初は凍えるような寒さを感じていたが、アーシャを抱えて登りきった頃には軽く汗ばみ、譲は首回りを手で拭う。


崖の上は手すりなどはないが、滝として流れ落ちる前の川で儀式が執り行えるように、それなりの広場が整えられている。

川の前に祭壇が設えられ、運び込まれた供物が並べられる。

日の出が近いことを示すように、山の稜線が明るくなってきており、夜空を飾っていた星たちの明かりを消していっている。

夜から夜明けへと、空は複雑な色の変化を見せており、いつものアーシャだったら目を輝かせて『かわいーな』とか言いそうだが、今は静かに日が昇るであろう方向を見つめている。


やがて供物が並び、祭壇が整えられ、禅一がその前に立つ。

最上は下ろされた輿の上に座り、他の者たちは地面に膝をつく。

「…………」

儀式の始まりを悟ったように、譲の手に小さな手が触れる。

『下ろしてくれ』との合図なのだろう。

そっと手を離すと、アーシャはするりと譲の腕から滑り下り、二つ持っていた神楽鈴の片方を譲に渡してくる。

「チビ?」

一体何をするのだろうかと思うと、小さな足が滑るように移動する。

いつものガニ股全開のバタバタとした歩き方ではない。


「あ……ちょっと……」

祭壇を整え終わった者が、歩み寄ってくるアーシャを止めようと動く。

「よい。遮るな」

それを最上が偉そうに制する。


既に剣を捧げ持っていた禅一は、アーシャの接近には気が付かずに、朗々とした声で祝詞を紡ぎ始めた。

祝詞を唱えるとともに、高まり始める禅一の氣に呼応するように、大地からも氣が噴き上がる。

それらの氣を受け、禅一の持つ神剣が鈍く輝き始める。


その低く響き渡る禅一の声に、シャランと涼やかな鈴の音が被る。

アーシャが手に持った神楽鈴を構えたのだ。

そして彼女はそっと足を出し、流れるように、かつ弾むような足取りで、円を描くように動く。

アーシャが踏んだ所からも、氣が溢れ出す。

独特な足の運びに合わせ、シャンシャンと彼女が掲げ持った鈴が鳴る。


「……………!!」

するとアーシャの持つ神楽鈴に呼応するように、譲が手に持った神楽鈴も鳴る。

『この状況は記憶にある』と思った、次の瞬間、ズンッと譲の体に大量の氣が雪崩れ込み、体を駆け巡り、鈴を持った手に集結していく。

アーシャが空気を紡ぐように、手を動かすと、譲の中を通った氣は鈴を介し、彼女の手元に引き寄せられる。


アーシャは引き寄せた氣を、大きくはためかせながら踊り、それを輝く薄布に織り上げていく。

そして彼女は大きく息を吸って、高々と澄んだ声を上げた。

禅一の低い声に、高く澄んだ声が重なる。

祝詞の流れを知っているように、元々一つの歌であったかのように流れる歌声に、垂れていた村人たちの頭が上がる。

禅一もピクリと反応したが、途中で止めるわけにもいかないので、祝詞を紡ぎ続ける。


氣を見ることも感じることもできなかった禅一は、今まで奔流のように氣を噴き出すことで、神剣に力を込めていた。

全ての力が神剣に取り込まれるわけではなく、豪雨の中に器を差し出すようなもので、器に入らなかったものは、そのまま周りに流れていってしまう。

乾老の指導を受け、少しばかり氣の動かし方を覚えてきているが、それでも器に小さな漏斗ろうとがついた程度の効果しかない。


そんな禅一の周りに、アーシャの歌声に導かれて、はためく光の布が膜を張る。

最初は、刺すように鋭い夜明け前の空気を、仄かに暖かく照らす程度だったそれは、アーシャの声と舞によって厚さを増していき、段々と光り輝く繭のようになっていく。

奔流のように流れ去っていた禅一の氣は、繭が厚く、輝きを増すに従い、流れ去る量が減っていき、次第に繭の中に満ちていく。

やがて、氣が満ちた繭は、未だ山の稜線から姿を現さない太陽の如き眩さとなっていく。

目が弱いものは既に見ていることができなくなり、地面に顔を擦り付けるようにして、伏している。


アーシャは氣を紡いだ光を、領布ひれのように両手に掛けて舞い、歌声にのせて禅一に送り続けている。

(この状態……知っている)

アーシャが歌いながら舞う姿は見たことがあるが、この澱みない動きは、時と同じだ。

ドッスンドッスンと個性的な阿波踊りのような動きが、ある瞬間から何かが、小さい手足が嘘のように滑らかに動き、まるで女神のような空気を纏うのだ。


(でも……今回は最初からだ………最初からがチビに降りていた……?)

その疑問に、譲は回答を出す余裕がない。

己の体をとんでもない量の氣が流れていく衝撃に耐える方に、ほぼ全てのリソースを割かねばならない。


「「「おぉ………!!」」」

最上や、未だ禅一の姿を見ることができている者たちが感嘆の声を上げる。

川の水に足を浸した、いや、普通であれば浸る筈の所にまで進んだ禅一が濡れていない。

禅一を包む光の繭は、見えざる物かと思いきや、そこにぶつかった水が、弾かれている。

実体を持っているという事だ。

流れが砕け、水が小さな粒になって、光を弾きながら舞い上がる。

水の中の氣だけが次々と繭に吸い込まれていく。


禅一の朗々とした歌声と、それを飾るかのような澄んだアーシャの歌声に、招かれるように、ついに山の稜線の上が光り輝き始める。

その光が川面を輝かせ、やがて禅一の所にまで達する。

天上と地上の二つの太陽の光が一つに重なった瞬間、最早光の中で影しか見えない禅一が大きく神剣を振り上げる。

すると譲ですら目を開いていられない輝きが放たれる。

「……………!!」

振り下ろす所を譲は見ることができなかった。

それでも質量を感じる。

圧倒的な力が、爆発的に放たれたことはわかった。

放ち終わった余波ですら、歯を食いしばらねば受け止めきれない。


「これは………!!」

最上の声に、譲が再び目を開けた時には驚きの光景が広がっていた。

崖下の風景が、太陽の光が広がるように、清められていっている。

元から穢れているようには見えていなかったのに、これまでの景色から一枚薄い紗を剥がしていくように、全てが色鮮やかに変化していく。


禅一が宗主代理を務めるようになってからしか参加していないが、譲はここまでの変化を目の当たりにしたことがなかった。

「これこそ……御使い様の力……」

惚けたように最上が呟く。

その最上の呟きに引かれるように、皆が小さな姿を見やる。


アーシャは手にした光の領布ひれを、けぶる瞳で見つめていた。

それは朝日に燃やされるように、端から次々と削れ、光の中に消えていく。

(終わった……)

過去に例を見ないほど、強力な清めで、村全体が浄化された。

強力すぎる『御神体』に引き寄せられてきた穢れたちも、きっとこれで綺麗に消え去っただろう。

アーシャを呼び寄せた神とやらも、この結果に満足したはずだ。

(後は帰るだけだ)

譲はホッと息を吐く。


「おっとっ、わっ」

光の繭が陽の中にパラパラと消えてしまうに従い、川の水が、元の流れを取り戻し、禅一はたたらを踏む。

まさか神剣を川に落とすわけにはいけないので、慌てて頭上に持ち上げながら、歩きにくそうに禅一は岸に向かって進む。

「………アーシャ?」

そう言って、ふと顔を上げた禅一は、不思議そうに目を瞬かせる。


「え………!?」

終わったと安心し切っていた譲は、禅一の視線を追って、我が目を疑った。

光の領布も、繭も、朝日の中に溶けた。

そう思ったのに、その燃えかすのような物が地面に舞い落ちる度に、そこから氣が噴き上がり、アーシャの周りで渦巻いて、黒い巻き髪を激しく揺らしている。


「チビ?どうした?」

異常を感じて、譲はアーシャに駆け寄る。

アーシャは氣の旋風に晒されているのに、全く動揺していない。

ただ寂しそうな笑みを浮かべ、走り寄る譲に対して、小さく首を振る。

「………………!!」

その首が振り終わらない間に、光りがその小さな体を貫いた。


「チビ!!!」

光は更に濃く集まり、鋭い棘のような形になる。

「……ぁっ………ぅ……」

今までボヤけたようだったアーシャの表情が、苦痛に歪む。

彼女を貫いた棘に、更に氣が集まり、鉤爪のような形を形成する。


「離れろっ!」

無我夢中で譲はアーシャの体に取り付いたその鉤爪を引き剥がそうと、それに手を伸ばす。

「…………!!」

途端に両手に強い衝撃が走る。

火を掴んでしまったような、氷水に手をつけたような。

そんな痛みに加えて、エンジンをかけた時のチェンソーのような、強い反動が手に加わる。


「……ぐっ……ぐぅ……!」

一瞬弾かれそうになったが、譲は力を込めて、その鉤爪を握る。

獲物を捕らえた猛禽のそれのように、巨大な鉤爪はガッチリとアーシャを掴み込んでいて、びくともしない。

物理的に掴めることは有り難いが、鉄板を人力で曲げようとするような無力感がある。

加えて、それを掴んだ手が痺れ、細かな血が、毛穴や爪の生え際から吹き出してくる。


譲がそうやって鉤爪からアーシャを解放しようとする間にも、次々と光は鉤爪に雪崩れ込んでいき、逞しい足とそれに繋がる体が形成されていく。

もう全体像がどうなるのかが見えてきている。

巨大な光の鳥だ。


「クソがっっ!」

氣を使えば良かったのだと、その段階になって気がついて、譲は自分の中に残った氣を両腕に集中させる。

先程自分の中を通った氣も残留しているので、いつもより上手くやれている筈だが、鉤爪は僅かに動く程度だ。


噴き上がった氣によって作られた巨大な鳥は大きく羽ばたく。

「嘘だろっっ!!」

アーシャの体が持ち上がり、鉤爪を握っている譲も上に引っ張られる。

巨大な力に引きずられ、足を踏ん張っても、ズッズと容赦なく引きずられる。

力一杯抵抗しても、光の鳥の浮上を止められない。


「ふざけんなよ!おい!影も作れねぇ実体ナシが、物理干渉してきてんじゃねぇぞ!!」

そんな事を怒鳴っても仕方ないとわかっているが、もう悪口を言うくらいしか抵抗手段がなくなっていた。

光の鳥は切り立った崖に向かって羽ばたいている。

足を伸ばして地面を引っ掻いても、全く抵抗にならない。

引き摺られるだけだ。


そんな譲の手を小さな手が叩く。

「ゆず……だい……じょ……」

脂汗を滲ませながら、閉じそうな目をこじ開け、その手を離せとばかりに、アーシャが首を振っている。

「っざっけんな!クソチビが!」

最早自分でも何にキレているのかわからないが、譲は怒鳴る。


駄目で元々。

譲は精一杯両腕に力を込め、アーシャを取り戻そうとする。

「ゆず……ぅ……!」

泣きそうな顔で首を振られても、諦めるような事はできない。


「諦められるわけねぇだろうがぁぁぁあああああああああ!」

そう叫んでいる間に、完全に譲の足が地面から離れた。

そして次の瞬間、地面が視界から消える。

垂直方向に落ちていく水。

ブロッコリーのように小さく見える、遥か下の木々。

今まで体感したことがない、空気だけの空間に投げ出された浮遊感。

慣性の法則に従って崖から飛び出した川の水が、宙を舞い、霧のように細かく砕け、崖下から吹き上がる風に舞い上げられ、譲たちに吹きつけられてくる。


「あぁあああああああぁぁぁ!」

今まで特に高い所に恐怖など抱いたことがない。

そんな高所恐怖症など微塵もない譲でも、絶叫は不可避だった。

もがいても、もがいても、足は地面を踏む事はできず、足の下には絶望的な崖下の光景が広がっている。

全体重を支える両手が、自分の血で滑って、今にも外れてしまいそうだ。


「…………!」

譲の手を叩いていた、小さな手が、彼の腕を抱き込むようにして掴む。

「人を気にしてる場合かぁぁぁ!!」

生まれて初めて追い込まれた空中戦に譲も打つ手がない。

空気を切る音が激しくて、自分の声ですら掻き消されてしまいそうだ。


(せめてもの救いはこの鳥が上昇してねぇって事か……!)

そう思って、自分たちが飛び立った崖の上を、譲は仰ぎ見る。

「あ?」

瞬間、何かが崖の上から降ってくるのが見えて、今の絶望的な状況も忘れて、譲は目を丸くする。


は朝日を背に受けて、逆光で真っ黒な影にしか見えない。

しかし、その影の形だけで、が何なのかすぐにわかってしまう。

「っっっ……お前は………っっ!!」

『何をしているんだ』とまでは言い切れなかった。

緩やかに下降していた鳥が、大きく下に落ち込み、譲とアーシャの体は一瞬重力から解放される。


走り幅跳びのように勢いをつけて崖から飛び、滑空して、この鳥にピンポイントに着地する。

「クレイジーが過ぎるだろ!!」

一歩間違えればただの自殺になってしまう、そんな狂気じみた行動を、一切の迷いなく実行できる者。

「アーシャ!譲!」

譲の兄にして、常識人の皮を被った狂人は、鳥の尾羽を鷲掴みにして、逆さまに顔を出す。


「おい!無茶な姿勢になるな!!」

今の衝撃で大きく落下したとはいえ、まだ地上までは距離がある。

落ちたら無事ではいられない。

「アーシャ!!」

しかし禅一は鳥の胴体を足で挟むような格好で、ぶらんと逆さまになって、譲の腕を抱き込みながらも、殆ど意識を失いつつあるアーシャを確認している。


「譲、下りるぞ!アーシャをしっかり抱きしめておいてくれ!」

そう言うと、禅一は片手で譲の襟首をがっしりと掴み、もう片方の手で拳を作る。

「待て待て待て待て!お前何する気だぁぁぁぁ!!」

禅一の引っ張る力を利用して、譲は慌てて鳥の足を掴んで上に登る。

「アーシャを離さないなら叩き折るまで!!」

そう言った瞬間、禅一は拳を振るう。


未だ抜けきらぬ、禅一に残っていた大量の氣が鳥の足に向かって放たれる。

「………………!!」

鳥はこちらの耳では聞き取れない声を発しながら、大きく揺れる。

譲の力ではびくともしなかったが、流石に禅一の一撃は効いたらしい。


しかし足が折れるようなダメージではなかったようで、グッグッと禅一が鉤爪を動かすが、アーシャの体からは抜けきらない。

「クソ、頑丈だな」

鳥も頑丈だが、禅一も大概規格外である。


そうこうしている間にも、譲たちはどんどん下降し、ブロッコリーのようだった木は、木として認識できる大きさになっている。

当たり前だが、鳥は足で着地する。

その時、足に引っかかっている獲物がどうなるのかは大体予想がつく。

譲にできることといえば、禅一が言うように、アーシャをしっかりと抱き締めて、クッションになることぐらいだ。


「…………!!…………〜〜!!」

そう覚悟を決めようとした時、顔に何かが張り付いた。

「あっ!」

桃太郎だ。

必死な顔で、鳥と違って触れることなどできないのに、ペチペチと必死に譲を叩いて自己の存在をアピールしている。

風を切る音で、何を言っているのかはわからないが、とにかく大騒ぎしている。

オモチャのように忙しく動きながら、一生懸命、譲の懐を指差している。


譲は片手で体を固定しながら、懐に手を突っ込み、刀袋の紐を解く。

「禅!使え!!」

非常事態なので、譲が抜く事を許して欲しい。

抜き身の刀を渡された禅一は、一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに己の氣を噴き出させる。


「アーシャを!!」

「あぁ!!」

祝詞を上げる暇もない。

氣を練る暇もない。

しかし『土壇場に強い』と自認する男の一撃は凄まじかった。


「あぁああああああああ!」

一瞬にして氣が吹き出し、操作が下手くそなりに、それが桃太郎に注がれる。

刀の神霊は覚悟を決めた顔で刀身に吸い込まれていく。


鳥を構成する氣と、禅一がまとう氣は驚くほど良く似ている。

プラスにプラスをぶつける。

ただ単に鳥に氣が取り込まれて終わるのではないかとも思ったが、その刃が足に食い込んだと思った次の瞬間には、大砲で吹っ飛ばされたように、刀を中心に、円を描くように衝撃波が走った。

「くっっ!!」

足が千切れ、激しく羽ばたき、鳥が錐揉みを始める中、譲は必死に完全脱力したアーシャを抱き込む。


激しい乱高下と上下の入れ替えで、どちらが下か上かすらわからない。

ただアーシャを抱きしめ、鳥の腹あたりを掴む事しかできない。

「譲!投げるぞ!アーシャを頼む!!」

三半規管に多大なるダメージを受けて、目すら開けられなかった譲に、この滅茶苦茶な状態でも、足だけで鳥に取り付いている兄が怒鳴る。

「あぁ!?あぁぁぁああああああ!?」

目を開ければ眼前に迫る木々。

その先にあるのは怒涛の勢いで流れる川。

もう譲にはちゃんとした言葉を発する余裕はなかった。


木にぶつかるか川に落ちるか。

先の運命はその二択だと思ったのに、刀を咥えた禅一に、両の肩甲骨の辺りを掴まれる。

「あ、ちょっっ!!」

一瞬にして兄が何をしようとしているのかを悟って、鳥にしがみついていた手を離し、譲はアーシャを抱き込む。

「ふぅぅぅううううう!!」

禅一の歯を食いしばる音が聞こえる。


次の瞬間、上へ下へと激しい重力移動だった譲の体が、フワリと浮く。

全身を丸くした譲は、緩い放物線を描く。

そして短い浮遊感の後に、強い衝撃が加わる。

幸いな事に枯れ葉が折り重なった地面は、思った以上に柔らかく、バウンドした譲はアーシャを抱き込んだままゴロゴロと転がって勢いを殺す。

「ぐっっ!!」

最終的には強かに大木にぶつかって、譲はようやく止まる。


「ぐっ……うぅ……チビ……」

もうどこが痛いとか限定できないような状態で、譲は抱き込んでいた小さな体を確認する。

アーシャの意識はないが、ちゃんと呼吸はしている。

一見寝ているだけに見える。


腹に食い込んだ鉤爪を外そうと、譲が手を伸ばすと、先程の逆再生のように、サラサラと鉤爪は崩れて光になり、アーシャの中に吸い込まれていく。

「なっ……」

やがてその光が完全になくなると、アーシャの腹には刺し貫かれた痕すらない。

ただ着物が破れているだけだ。


信じられない気分で、傷ひとつないアーシャを見た後に、ハッと譲は自分が飛んできた方向を見る。

禅一の事だから自分たちを投げた後に、自身も飛び降りたと思ったのだが、森は静寂に満ちている。

(まさか……一緒に墜落した!?)

譲が投げられた時点で、地面まで後二、三メートルくらいしかなかった。

譲は顔色を変えて、アーシャを抱えて移動しようとする。


「っっうっ………」

途端に左足に鈍い痛みが走る。

あの高さから落ちて骨折だけなら運が良過ぎるくらいだが、子供を抱えての歩行は難しそうだ。

「クソッ………」

仕方なく譲は、ずり這いのような状態で、左足を引き摺り、左腕にアーシャを抱え、右手と右足で地面を這いずる。


「禅!……おい!禅!禅一!!」

アーシャの意識は戻らないし、森は静寂に満ちている。

ろくに動けない状態の譲は数メートル進まないうちに、不安を吐き出すように、禅一を呼ぶ。

しかしその声に応える声はなく、川のせせらぎくらいしか聞こえてこない。


焦りながらも、上手く進めない己の体がもどかしい。

(まさか……まさかだよな!?)

にわかに冷たい汗が背中を濡らす。


バチャバチャバチャ!バチャバチャバチャ!

その瞬間、かなりの大型の魚でもあり得ないような水音が響き、

「ぶはぁぁぁぁぁぁ!!」

海坊主ならぬ川坊主。

否、全身濡れ鼠になった禅一が川から浮上してきた。

水の中で大半の着物を脱ぎ捨てたようで、袴だけ身につけている状態だ。


「禅!!」

「おあぁぁぁぁぁ!!流れる!流れる!さみぃ!流れる!!」

川面に上半身を生やした禅一は大騒ぎである。

口に咥えていた桃太郎を山際の地面に突き刺して、そこを起点に体を引き上げようとするが、流れが早く冷たいので、上手く体が動かせない様子だ。


「ったく!!」

譲は一度アーシャを下ろして両腕片足で這いずって移動し、唇を真っ青にしてガチガチと震えている禅一を引っ張り上げる。

禅一は頭までしっかりと濡れ鼠になって、歯をカチカチと言わせている。

「あ、アーシャ、アーシャは……」

そんな状態でも妹の確認をしようとするのは、いっそ天晴れだ。

「まだわかんねぇけど、その状態で近づいてくんな!チビが濡れるだろ!まずは全部脱げ!そして拭け!」

昔、妖怪辞典で見た震々ブルブルという妖怪そっくりになっている禅一の接近を、譲は許さない。


「をぁをぁをぁ……」

震える唇から意味のない音を垂れ流しながら、素っ裸になった禅一に、譲は狩衣かりぎぬと下のひとえを脱いで寄越す。

「単で拭いてから着ろよ」

「か……下半身も寒い……」

「………………。袴は俺も譲れねぇ」

「うぅっ……俺の下半身が微妙にセクシーに……」

「うるせぇ。静かにスネ毛を晒しとけ」

ガチガチと震えながら、禅一は身体を拭いた単を腰に巻きつける。

流石にサイドが大きく開いた狩衣だけでは防御力が低すぎたのだろう。

譲も嫌なものがチラ見えしなくて助かる。


「肩を貸したら歩けそうか?」

「……ギリで」

「アーシャは俺が……」

「止めろ。チビが冷える」

「うぅぅ」

そんな会話をしながら、二人は何とか歩ける体勢を作る。


そして二人は無言でお互いを見つめる。

「…………で?」

「…………で?」

禅一が首を傾げ、そんな禅一に譲も首を傾げる。

「「帰り道はどっちだ?」」

その疑問は二人の口から同時に出た。

「「……………………」」

無事妹を奪還したかと思いきや、山の中で、兄弟は完全に方向を見失ってしまっていた。


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