23.次男、不吉さを感じる

整然と並ぶドーナツを見て、アーシャは目を輝かせて選んでいる。

「とこ……てぉーこ……てぉーこ……」

意識して呟いているのか、無意識なのかはわからないが、ブツブツと呟いているのが、地味に恥ずかしい。

平日昼間の微妙な時間で、客がまばらな店内に響いている気がする。

「こら」

油断していたら、どんどんドーナツの棚の方に倒れていってしまうので、支えるのも大変だ。


しかし譲はこの状況を内心、楽しんでいる。

誰がどう見てもドーナツに夢中なのは、抱え上げられた子供だ。

まさか譲が真剣に食べるものを吟味しているなど、誰が思うだろう。


こうやってゆっくり店内で選んで買うなんて、子供の時以来だ。

禅一が何かのついでの時にフラッと買ってくるか、どうしても食べたいときはネット注文で、素早く受け取って帰る。

いつもドーナツを食べる時は、そんな感じだったのだが、やはり現場で選ぶのは楽しい。

(お、期間限定のやつ。実際見るとすげぇ甘そうだな。ちょっとしつこいか……?)

篠崎に頼まれたドーナツをトレーにのせてから、悩むアーシャに付き合っているていで自分用もじっくり選んでいる。

他の客が後ろから来ても、『悩んでいるみたいなので』と先に通してしまえる。


譲が自分のドーナツを四個ほどトレーにのせた頃、長考していたアーシャが大きく頷いた。

「ゆずぅ、あえ、あえ」

そう言ってアーシャが指差したのはフレンチクルーラーだ。

「ストロベリーの方か」

譲はチョコ掛けの方が好きなのだが、鮮やかなピンク色のストロベリーチョコの方が、子供の目を引くかもしれない。


「ゆずぅ、あえ」

次は『人気No1!』と書かれたポップがついた棚を指差す。

モチモチな食感が美味しい、八つの丸が連なったドーナツだ。

譲も一個買っている。

「…… ストロベリーじゃなくて良いのか?……こっち、か?」

彼女が指差したのは、そのドーナツの中でも、プレーンだ。

「こち!」

チョコチョコと言っていた割に、これはストロベリーチョコにはしないらしい。

よくわからないこだわりだ。


子供だから食べられない量を次々と指差すのではないかと思っていたが、

「んふふふ、ふふふふ〜!」

アーシャは二個だけ選んだら、トレーを見て嬉しそうに揺れ始めた。

縦に揺れたり、横に揺れたり、鳥の求愛ダンスのような動きに、会計に待ち構えていた店員が吹き出してしまう。

「…………」

譲はそっとアーシャを台と自分の間に下ろし、求愛ダンスを封じる。


「ここからここまでは持ち帰りで。後は食べていきます」

そんなやり取りをして、ドリンクを選んでいる間も、チビ助は落ち着きがない。

「あ〜〜〜」

やたらとドーナツの行方を気にして、台の上を覗き込もうとしてくる。

しまいには台に両手をかけて登ろうとまでし始めたので、流石にそれは実力行使で止めた。


「ほれ、チビ」

奥の席にトレーを置くと、ピョンピョンと弾むような足取りでやってくる。

そして勢いそのままに、大人用椅子に飛びつく。

「おぉぉんんんんあぁぁぁ!」

座面にしがみつき、声を上げながら必死に椅子に登ろうとしているが、いかんせん足が上がっていない。

「………チビはこっち」

羽化失敗中のセミのように、激しく左右に揺れて登ろうとしているアーシャを回収し、子供用椅子に乗せる。

(あ、しまった。手を洗わせてねぇ)

しっかりと椅子に着いたベルトまで締めた後で気がついた。

我知らず、久々のドーナツに浮かれてしまっていたようだ。


店内を見回すと、手洗い場は反対側で、入り口すぐのトレー置き場横だ。

「ふわぁぁぁ〜〜〜!いたーきましゅ!」

席に座ったアーシャは、もう食べる気満々だ。

パァンと手を鳴らしたかと思うとドーナツに飛びつこうとする。

「待て、待て」

ここから食べるのを止めて、椅子から下ろし、反対側まで行って、手を洗わせるのは、流石に可哀想なので、仕方なくお手拭きで拭きまくるに留める。

(変なモン触ってねぇといいけど。あ〜〜〜門とかに登ってたし、さっきも台をベタベタ触ってたからな〜)

早く食べたそうに、アーシャはウズウズしているが、色々とチビ助が触っていたものを思い出し、殊更丁寧に拭いてしまう。


「いたーきましゅ!」

解放されたアーシャは再び手を打ち鳴らし、ドーナツに顔を擦り付けるように食べる。

「おいおい……」

まるで家で食べさせていないような食べっぷりだ。

「ん〜〜〜!」

「ひひごひゃ!」

「おひひぃ〜!!」

「うん!うん!うん!」

しかも物凄く騒々しい。

首を振りながら弾んだり、目を丸くしたり、揺れたり、激しく頷いてみたり。

とにかく静かに食べない。


譲は自分のドーナツを楽しみつつ、ハムスターのような勢いで食べているアーシャに適宜水分を取らせ、大惨状になっている、鼻や口の周りを拭く。

(平日で空いてたから良かったな)

幸い奥側には誰も座っていない。

先程店内を見た時に、客の確認もしたが、中央あたりに座る主婦らしき二人組と、窓際で書類を読んでいるビジネスマン、入り口付近で読書をしている女性だけだった。

仕事や読書の邪魔にはなりそうだが、距離もあるし、主婦二人組の笑い声も結構大きいので、『まぁギリギリセーフだろ』と譲は判断する。


(お、これ、次も買お)

全部子供用ですという顔でアーシャ寄りに置いていた皿から、譲は最後のドーナツを取って楽しむ。

そうして美味しく食べ終わったところで、譲はアーシャの瞬きが妙に長いことに気がつく。

「……チビ?」

ウンウンと大きく頷いているのかと思っていたら、その動きがどんどん大きくなっていく。

「わわっ」

大きく前に倒れて、机に顔をぶつける寸前で、その顔を譲は支える。

モグモグとゆっくり動いていた顎は、譲に支えられて安心したように動きを止める。

「あ、こら、チビ!寝るなら口の中のものを飲み込んで寝ろ!」

顔を支えていない方の手で、背中を揺するが、アーシャはスウスウと気持ちよさそうに寝息を立て始める。


「あ〜〜も〜〜」

そう言いつつ口の中を確認したら、やはり奥歯にしっかりドーナツの残骸が噛み締められているので、紙ナプキンを巻いた指を口に突っ込んで、それを取り出す。

ついでに口の周りについた砂糖や、汚れた手を拭き取る。

(綺麗にならねぇな)

しかし開封してから少し経った、ペーパーお手拭きでは、水分が飛んでいてベタベタが上手く取れない。

「ったく」

幼児用椅子の机の上に、自分の上着を丸めて置いて、その上にアーシャの頭を着陸させ、譲は手洗い用の蛇口に向かう。


まずは自分の手を洗って、手拭き用のペーパータオルを多めに取って濡らす。

そうしてすぐにテーブルに戻ろうと振り向く。

「きゃっ」

瞬間、真後ろに女性が立っていることに気がついた。

そして気がついた瞬間に避けたはずなのに、黒い液体が入っていたカップが、ぶつかった衝撃で飛びましたとでも言うように、譲に向かってくる。

「あっつ!!」

禅一であったなら、もしかしたら避けられたのかもしれないが、譲は正面から被ってしまった。


咄嗟に前に出した左手を中心に熱い液体がかかる。

上着を着ていたら少しはマシかもしれなかったが、たった今、脱いだ所だ。

防御力0のシャツが、黒い熱湯を含んだまま腕に絡み付く。

譲は速攻で、手洗い場に向き直り、躊躇わずシャツごと蛇口の水に晒す。

「ご、ごめんなさぁい!こ、コーヒーのお代わりに行った帰りでぇ!ごめんなさぁい!」

そんな譲にハンカチを持った手が伸ばされる。


妙に説明っぽい言葉を、ネットリと絡み付くような声で言われても、準備していたように差し出されたハンカチも、それだけだったら別に気にはしなかった。

「大丈夫ですかぁ?あ、拭きますねぇ」

しかし胸元にもかかったコーヒーを拭くようにしながら、体を密着させてきた事には、瞬時に鳥肌が立った。

「………っ……離れろ……!」

盛大に息を吸って怒鳴りつけようとして、アーシャが眠っている事を思い出して、怒りを押し殺して告げる。


体に絡みついた体温はビクリと動く。

「ご、ごめんなさぁい!!」

しかし女は完全に離れる事なく、目を潤ませながら、上目遣いに謝る。

(人に熱湯かけて余裕じゃねぇか!)

それが狙ったようなキメ顔なので、譲は余計に腹が立つ。


「お客様!こちらをどうぞ!!」

慌てて駆けつけてきた店員が、女性を押し除けて、ドリンク用の氷を詰めたビニール袋を差し出してくる。

「きゃ、ちょっとぉ!!」

火傷の心配ができる店員に、熱湯をかけた女が文句の声をあげる。

「助かります」

譲は女を無視して店員に頭を下げる。


「掃除はこちらがしますので、お客様はお席で……!?」

そう言って店員は譲が座っていたテーブルを示して、止まった。

「………!?チビ!?」

譲も驚きの声を上げる。


しっかりとベルトも締めて椅子に座らせていたアーシャの姿がない。

指の力が超貧弱なアーシャが、自分でベルトを外せるはずがないし、そもそも彼女は眠っていた。

そして譲が立っているのは、店の入り口のすぐ近くだ。

手を洗っている間も、コーヒーをかけられてからも、誰も出入りしていなかった。


一瞬で色々と考えたが、アーシャがどこに消えたのか、見当がつかない。

「わ!ちょっっ!アンタ何だよ!!」

しかし店のカウンター内側から聞こえた、戸惑った声で、答えが出た。

店の裏手の搬入口だ。


「クソが!!」

同じ空間にいるからと安易に離れてしまった自分を罵りつつ、譲は走り出す。

「渡部!止めろ!止めろ!」

その譲の後を店員が声を張り上げながらその後に続く。

「男!赤ちゃん!赤ちゃん!!」

恐らくバックヤードにいるであろう人物に向かって、パニックで意味不明になった指示が飛ぶ。


しかし指示が通る前にガランガランと派手な音がして、無惨に棚に突っ込んだ男が視界に入る。

「て、てんちょぉぉ!」

訳がわからないまま突き飛ばされたらしい店員は粉まみれで、説明を求めるような声をあげる。

譲はそんな男を飛び越え、まだ揺れているドアに向かって走る。

「渡部、警察!警察!警察!」

「え?え!?警察すか!?わっ、店長っっ!」

背後では何かが倒れる音がする。

店長が転けたのか、倒れていた男が再び転けたのか。

パニックを絵に描いたような状況だ。


(店にいたビジネスマン……!!)

扉から外に出た譲は犯人を目にする。

最初から店にいた客だ。

衝動的か、計画的なのか、アーシャを狙ったのか、幼女を狙ったのか、わからない事だらけだが、逃すことはできない。


その背中に追いつこうと更に強く地面を蹴った時、男の前に影が立ち塞がった。

「まてまてぇぇぇい!」

両手を威嚇するように上に伸ばした篠崎だ。

慌てて車から飛び出してきたようで、足袋たびのままだ。

「篠崎っっ!!」

そのポーズは一体何なんだとツッコむ心理的余裕もない譲は叫ぶ。


前門の虎、後門の狼。

しかし道は一本道ではない。

アーシャを抱えたままの男は、篠崎と譲を避ける方向に身を翻す。

「あぁぁぁ!!」

そんな男に、慌てて篠崎が男に向かって飛びつく。

「ぅわっ!」

しかしアーシャを抱えた男の肘鉄を喰らって仰反る。


篠崎は大きくバランスを崩しながらも、根性で腕を伸ばして、男のスーツを掴む。

そんな篠崎を蹴ろうとでも思ったのか、男が足を振り上げる。

「未成年者略取並びに暴行の現行犯よ」

「っっ!?」

しかし凍るような声と共に、男の足は横から蹴られて軌道を変え、篠崎の髪を掠る。


「なっ」

新たな障害の登場に男は焦ったように顔を上げようとした。

しかしその顔面を白い手が鷲掴みにする。

「アーシャちゃんは返して頂くわ」

「ガッ!!」

男の顔面を掴んだ影は、男の腕のアーシャに手をかけてから、鋭い頭突きを、その顔側面に叩き込む。

頭を固定した上での頭突きに、男の鼻から血が吹き出る。


頭突きを放ったせいで、アーシャを確保した人物の頭から帽子が飛ぶ。

真っ黒な髪が揺れる。

「……峰子先生!」

緩んだ男の腕に更に手を突っ込んで、アーシャを抱き込んだ峰子は、たたらを踏んだ男の太ももに向かって、膝を突き上げる。

「ぎゃっ!」

そして更に緩んだ男の腕からアーシャをもぎ取る。


「ネコちゃ〜〜〜〜ん!!」

地面に転がってしまっていた篠崎が、目を潤ませる。

「すみません。店外で襲われていた五味さんを確保していたら遅くなりました」

こんな騒動が起こっているのに、ぐっすりと眠ったままのアーシャを抱いた峰子は、淡々とそう言いながら、後ずさろうとした男に対して、トドメのハイキックを繰り出す。

「ぎゃっ!」

そして地面に崩れ落ちた男を踏みつける。


「譲さん、お願いします」

「あ……有難うございます」

淡々とアーシャを渡された譲は、半ば呆然としながらも、戻ってきた重みにホッと息を吐く。

「……腕、どうなさったの?」

そんな譲を見て、峰子は眉を寄せる。

「あ、今、女にコーヒーをかけられて……」

説明しようとした所で、騒がしい声が響く。


「ちょっと!離してよ!アタシは無関係だって!」

「無関係かどうか、警察が来たら調べてもらいましょう」

「警察って……ちょっと!オッサン!何の権限があってこんな事してんのよ!離してよ!変態!」

「権限はありませんが、善良な市民として、暴行の加害者を確保しています。あと、私は変態ではありません」

ヒステリー気味の女の声と、淡々とした喋り方が峰子そっくりな渋い声。

反対側の店の入り口で言い争っているようだが、姿を見るまでもなく、誰と誰が争っているのかわかる。


手際良く、もがく男をホールドしていた峰子と、譲の視線がぶつかる。

「……私の見送りに、父と祖父がついてきまして……」

少しばかり恥ずかしそうに峰子は視線を逸らす。

「峰子ちゃん!お、まだオトしてないのかい?」

聞こえてきた明るい声は乾老の物だ。

ズルズルと彼は大きなものを引き摺りながらやってくる。

「お祖父ちゃん、無茶言わないで。素人がやったら殺しかねないわ」

そう言いながらも、峰子はガッチリと腕ひしぎ十字固めを決めている。


「ははは、どれどれ、おじいちゃんがお手本を見せようかねぇ」

折り紙のお手本でも見せるような気楽さでそう言って、乾老は引き摺っていた荷物を譲の前に転がす。

「ソレ、踏んどいてもらえるかい?」

結構な大男だ。

「あ!俺、やるよ!」

アーシャを抱いている譲に代わって、篠崎が大男に乗る。


「ユッキーちゃん、今日は随分趣向の違ったおめかしですね」

「言わないで〜〜〜!!」

「ははは、篠崎の家にやられたか」

そんな微笑ましい(?)会話を交わしつつ、乾老は男を締めて気絶させている。

凄い光景である。


「こちらに向かっている最中に、見張りの五味さんが襲われていたんです。彼、逃げ足は早いんですが、上手く反撃できないので、追いかけていて保護していたので、到着が遅れてしまいました」

峰子は地面に落ちた帽子を拾いながら言う。

パンパンと埃を払って、彼女はそれを被る。

「五味さんが襲撃されると言うことは、アーシャちゃんに何かあるのではと思って、父が正面、私が一応裏口を押さえておこうという話で、戻って来たのですが……一歩遅かったです」

「いや、遅くないです。本当に助かりました。俺の不手際で、危うく連れ去られる所でした」

譲は深々と頭を下げる。

乾家の面々が来てくれていなかったら、完全に手遅れになる所だった。

「まさか白昼堂々こんな馬鹿げた事をやるなんて、普通思いませんよ」

峰子は小さくため息を吐く。


「……俺にコーヒーかけて足止めした女と、この男。俺らが店に入る前から中にいたんです。座ってすぐ周囲を確認したから間違いない」

譲はそう言いながら、平和な顔で眠っているアーシャを抱く手に、力が入る。

危うくこの重さを失うところだった。

「店で犯人らしき二人組に待ち伏せされていた……と言う事ですか。ここで待ち合わせをする事は?」

「篠崎にも直前まで言ってないです」

「私もクソ鬱陶しい……失礼。心配性な家族が着いてくるのが嫌で誰にも言っていません。最終的に無理やり同伴されましたが」

譲と峰子は視線を交わして、厳しい顔になる。


「ねぇねぇ、ネコちゃん、その帽子?すっごいね」

シリアスになりかけていた二人の会話に、篠崎が目を輝かせながら割り込んでくる。

「……………」

敢えて自分が触れていなかった所を、ピンポイントで突く篠崎に、譲は冷たい視線を送る。

「以前フードを被って人目を避けようとしたら、譲さんに帽子にしろと、全力で嫌がられましたので」

峰子は胸を張って答える。

「日除け帽を、この季節に手に入れるのには苦労しました」

節分を過ぎたばかりの、一年で一番寒く感じるこの季節に、真夏でも驚いて二度見してしまう、後には垂れ布、鍔広の前側からは真っ黒なベールが垂れ下がる、一ミリも日焼けしたくないご婦人向けの完全防備の日除け帽は、異常な程に目立つ。


「養蜂家みたい!」

「……現代の市女笠いちめがさと言っていただきたい」

平安時代あたりの女性が外出時に被っていた帽子を例に出しているが、これに関しては圧倒的に篠崎が正しい。

どう見ても養蜂家だ。

「俺、ネコちゃんを見てたら、人間、外見じゃないなって思っちゃった!」

「……?なんだかんだ言っても、人の第一印象は重要ですから。私はシンプルな清潔さを全面に出していますよ?」

確かに峰子の格好は、いつもシンプルで清潔感がある。

その帽子だけは全くその限りではないが。


「峰子ちゃん、タケが来たから、取り調べはこっちに任せて、お母さんの病院に寄って、治療と診断書を貰っていきな」

遠くから武知や五味、その他の部下と思われる人間たちが走ってくるのが見える。

「おじいちゃんたちだけで大丈夫?」

「店内には防犯カメラもあるし、事情聴取は電話でもできるからね。藤護の連中は約束にうるさいから。………本当に気をつけて行っておいで」

祖父は温かく孫娘たちを送り出す。

篠崎が押さえていた男も含め、二人の男を引き摺る老人に、現代の市女笠を被った孫娘は、インフルエンザの時に見る悪夢のような取り合わせだが。


「ネコちゃんのお母さんって?」

こそっと篠崎が聞いてくる。

「………小児科医」

「ふぁーーー!小児科!!ふぁぁぁーーー!」

篠崎は譲を指差して大笑いを始める。

「言っとくが、小児科医に診られるのは俺だけじゃねぇからな」

ひりつく腕に顔を顰めながら、譲は篠崎を睨む。

「……え?」

「額。ソレ、腫れるぞ」

肘鉄を食らった額を示すと、そっと篠崎は自分のオデコに触れる。

「痛っ!えっ、信じらんなっっ!!顔に怪我してる!!」

再びテンションが落ちていくのが見える。


譲は深くため息を吐く。

見張りである五味が先に襲撃されていたと言うのなら、あの男は突発的な幼女誘拐犯ではなく、『アーシャ』を狙った確率が高い。

ではコーヒーを掛けてきた女は、いつもの迷惑な接触者なのか、同じく待ち構えていた共犯者だったのか。

(別々の席に座ってた奴等がグルだったとしたら、絶対に待ち伏せされていたって事だ。……でも、一体どうやって、この場所を特定した……?)

敵の姿がはっきりしないせいで、周りを歩く全ての人間が怪しく感じる。

今にも得体の知れない物が背中まで這い寄って来る気がして、気持ち悪い感触が残る腕から全身に向かって肌が粟立つ。

譲はその腕を軽くさすってから、腕の中でプゥプゥと呑気な寝息をたてているアーシャを抱く腕に力を込める。


分家に乗り込んでから、アーシャを狙う者は出なかったので、気が緩んでいた。

(俺だけしかいない状況だから狙われた……?禅がいないうちに、って考えている奴がいるのか……?)

自分の力の足りなさを噛み締めながら、譲は車に戻った。


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